墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

焼き物

2007-12-09 23:25:52 | 駄目
 焼き物は良く分からない。
 青磁とプリントの区別もつかない。
 興味もない。

 だが、全ての美しさは光が生む。
 光ない所に美はない。
 そして、光さえ有れば、光線の加減によって、どんなモノでも美しく見える。
 積み上げられたゴミや、日常の下らない小道具、なんでもない草花さえも光さえあれば泣き出しそうなぐらい美しく見える。

 自然が美を生む、実用の目的を離れて美そのものを求める茶碗はこざかしい。
 盆栽も焼き物も興味はない。
 盆栽より自然の森林、焼き物より日光に輝くガラスの破片。
 
 誰かが趣味で決めた美意識に美しいと追従はしたくはないというのが俺の美意識だ。


忘年会

2007-12-09 22:18:44 | 駄目
 職場の忘年会があり、夕方から小平へ出かけた。
 少し時間があったので行きに古本屋で司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』を購入し、待ち合わせ場所へ向かう。

 忘年会の会場は玉川上水沿いにある京懐石のみせ「四季亭」。
 俺みたいな味オンチに京懐石はむかない。懐石料理じたいが、味付けしてるんだかしてないんだかのぼやけた料理なのに、さらに関西風なものだから、けしてまずくはないけど美味いような気もするけど、どうも味がコッテリしてそれなりにボリュームがないと味オンチで関東人の俺には旨いっていう確実な満足感がない。

 ちまちまちまちまと。
 一口サイズの薄味で美味しい物を、一箸毎に口にはこんでいても、俺にはなんだか納得がいかない。
 食べてる充実感がない。
 根が貧しいから懐石料理ではドカンと旨い感じがぜんぜんしないのだ。

 そのくせにして、懐石のコース料理を全て完食するとそれなりに満腹になっているので腹が一杯のくせしてなんか腹たつ。
 あー食ったという充実感もなく、いつの間にか腹一杯なんていう料理は性にあわない。

 懐石なのでズルズルと居座って飲んでいるワケにもいかない。懐石は食い終わったらごちそうさまだ。
 忘年会にしては早い終いで宴は終わり、送迎バスにゆられて駅でおりたらちょうど国分寺行きの電車が来ているのが見えた。おかげで、二次会への誘惑に惑わされる事もなくとっとと帰宅する。

 電車の中で、行きに買った司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』を読みはじめ、帰宅して1時間ほどで読み終えた。
 文庫本のタイトルにはなっているが『真説宮本武蔵』は80ページほどの短編である。
 それを読むと、『バカボンド』の武蔵とは違い『真説』の武蔵は侍大将になりたかったのに一介の武芸者としてみじめに生涯を終えた天才として描かれている。
 武蔵は当時としては長身の五尺七、八寸(一尺は約30センチ、寸は約3センチ)ぐらいの背丈で、ヒゲは薄く、袖無し羽織に皮袴を好み、風呂嫌いで汚らしい風体であったそうだ。立身出世こそ望む俗物根性の持ち主としながらも、希代の天才であったと司馬遼太郎は書く。


自信がないと上手く生きていけない

2007-12-09 15:27:35 | 駄目
 自信を、自分を信じる心とするなら、自分を上手く操作するのに自信はぜひ必要だと思う。

 たとえ失敗しても自信のある人なら「次こそ頑張ろう!」と、また挑戦するだろう。
 だが、自信のない人は一度の失敗で「もう出来ない」とあきらめる。

 また、まったくしたこともない新しい事をするにしても、自信がある人なら「今までなんとかしてきたんだから、きっと今回も出来るはず!」と果敢にトライすることだろう。
 だが、自信のない人は「無理に決まっている」とやる前にあきらめる。

 自信は、自分が出来そうもない事をする時に挑戦する力となる。

 人付き合いにしたって、自信がある人なら知らない相手とでも仲良くしようとするが、自信のない人は、どうせ俺なんか嫌われ者だよ仲良くなんか出来るはずないんだよと勝手にひがんで隅っこでウジウジしてしまう。
 それに見た目にしても、自信がある人間は態度もしゃべり方も堂々としているのに、自信のない人間の挙動は明らかに不審でコソコソしている。

 自信のある人は、きっと自分なら上手くやれるはずだと自分を信じているから、自分がキチンと接すれば相手ももそんなに変な事をしないはずだと信じられる。
 だが、自信のない人は、自分が上手くやれるなんてことを信じていないから、自分が変な事をして、相手からなにか嫌な事を言われたりされたりしたらどうしようどうしようとビクビクしている。(なかには、自信のなさの裏返しで虚勢をはる人もいる)

 自分はきっと上手くやれるはずだという自信は、対人関係や日常生活を理性的に行うのに必要なものだと思う。
 常に失敗するかもと怯えている自信のない人の行動は、どことなく変で、どうも理性的ではない。心の怯えがそのまま態度に表れているように見える。

 自信のない人間は、自分の成功を信じられないから無理に決まっていると挑戦を嫌がり、人と上手くつきあう自信がないから他人をさける。その上に、自分を変えられるとも信じていないから、そんな自分を変えようとも思わない。
 自信がないだけで、どんどんどんどん悪い方へ悪い方へとドツボにはまりやすいようだ。

 では、自信はどうやって身につけるのか?
 自分の意志で起こした行動が成功する事の繰り返しで、少しずつ身についていくしかないと思う。
 だが、ごく幼いうちに自信をつける事のはじまりの時期に、自信をつける事を阻害された人間は、スタート・ラインからしてもうつまづいちゃっているので、生涯にわたり自信を身につけるのが難しくなるだろう。
 そして、最高に自信がない状態だと、自分の生きている価値にさえ自信がなくなって自殺を考えるようになる。

 自信は社会生活を理性的に生きていく為に必要な要素だと思う。(俺には欠けているが)


「キレる」とはどんな状態?

2007-12-09 14:25:40 | 駄目

 もう少し「自信」について考えてみたい。

 そこで、参考になりそうな記事を『R 25』という雑誌でたまたま見つけたので、次にそれを書き写してみたい。

 オイオイ考えるってさっきから書き写してばっかで、何も考えてないじゃないかよと思っている読者もいることだろうが安心してくれ、俺の書いた作文なんかより書き写した文章の方がよほど面白くてタメになる。
 保証しよう、その自信が俺にはある。

(と言いつつも、これからはじまる記事は、本当に書き写したんでなく、雑誌をスキャンで読み取り、『本格読み取り』というソフトでテキスト化したものだ。
 ふりがながふられ旧仮名や難しい漢字を使う古典は、読み取っても内容がバグだらけにるので、キーボードを叩いてテキストにした方が早い。だけど、現代文ならほとんど間違いなくテキストにしてくれる。たいしたものだと感心する。本当は『徒然草』の時にラクしようと考えて買ったソフトなんだけれども古典には使えない。なので『五輪書』もキーボードを叩いてテキストにした)

『R25』(2007 12.6 No.170) p13
「脳と心の両面から考えた『キレる』とはどんな状態?」より

『怒りが頂点に達したとき「もうキレた」って使わないだろうか?

これ「もう怒った!」だとニユアンスが変わるんだよな。でも、「怒る」と「キレる」って本当はどう違うんだろう??


 諏訪東京理科大で脳システム論を教える篠原菊紀教授に話を聞いてみた。


「『キレる』と『怒る』は脳レベルではほば同じ。扁桃体から発信される怒りの感情が、前頭前野で我慢できる限界を超えてしまった状態です。脳のメカニズムで説明すると、ある出来事が起きると、まずは喜怒哀楽をつかさどる扁抗体が快か不快で判断します。不快のときに怒りの感情が生まれるんですね。大人がすぐに怒らないのは、怒りにストップをかける前頭前野が発達しているから。ここは、理性や感情を理解したり、アクションを起こしたときの結果などを考える場所です。人間以外の動物は前頭前野が発達していないため、快、不快が行動に直結するし、後先も考えません。ちなみに、前頭前野は最も遅く発達し、最も早く衰える場所です。子供が大人よりも感情を制御できないのはそのためです」


 脳レベルでは同じ「怒る」と「キレる」。でも、やっぱりなにかが違うと思うんだけど…。人格心理学を専攻し『キレる青少年のこころ』などの著書がある干葉大学教育学部の宮下一博教授に心理学での「怒る」と「キレる」の違いを聞いてみた。


「『キレる』は定義自体が明確ではないんですよ。個人的には、『怒る』はその原因を他人が理解できる。そして、ある程度の経緯を経てわき上がる感情。『キレる』は原因が他人には理解できず、突発的に起こる感情だと思っています。もっとわかりやすくいうと、『キレる』は怒りの感情のなかでも理性が機能していない状態ですね」


 双方に共通する意見では、感情をコントロールできない状態が「キレる」に近いようだ。まさに子供が自分の気に人らないことで怒こっているあれだ。ムカッとしたら「ここでキレたらオレ、子供」と思ってガマンしよう。』
(コージー林田)


心持ち

2007-12-09 13:06:27 | 駄目

 「自信」についてもう少し考えてみたい。

 自信とは何かと考えた時、宮本武蔵のような武芸者の意見は参考になるように思える。なにしろ、人斬り包丁でもってお互いに斬りあうのだ。とてもじゃないが、俺にはそんな恐ろしい事は出来そうもない。できる自信がない。

 そこで、前の記事では、宮本武蔵の『五輪書』から、とくに「心」について書かれている文章を書き写してみた。
 分かりやすい文章なので、とくに現代語に訳す必要ないとも思うが、まぁヒマなんで書き写すついでに現代語訳もしてみた。ヒマな人は読んでみて下さい。

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『五輪書』宮本武蔵「水の巻・兵法心持の事」

<現代語訳>

 兵法の道において、心の持ちようは平常心に変わるものはなかろう。

 日常でも、兵法の時でも、少しも変わらずにいて、心を広く素直にして、きつく引っぱらず、少しもたるませず、心のかたよらないように、心をまん中において、心を静かにゆるがせて、そのゆるぎの瞬間にも、ゆるぎがやまないように、よくよく吟味せよ。

 静かなる時も心は静かではない、何と早い時も心は少しも早くはない、心は身体に伴わず、身体は心に伴わず、心に用心して、身体には用心をせず、心に足らぬ事をなくして、心を少しも余らせず、上の心は弱くとも、底の心を強く、心を人に見抜かれないようにして、身体が小さい者は心にある大きな事を残らず知り、身体が大きな者は心にある小さな事をよく知って、大きい者も小さい者も、心を素直にして、我が身のひいきをしないような心をもつ事が大事である。

 心の中をにごらせず、広くして、その広い所へ知恵をおくべきである。
 知恵も心もひたとみがく事が第一である。

 知恵をとぎ、天下の損得をわきまえ、物事の善し悪しを知り、多くの技能や芸事、その道その道をわたり、世間の人に少しもだまされないようにした後、兵法の知恵となる心になる。兵法の知恵においては、他とは違うことがあるのだ。

 戦いの場でまったく余裕がない時であっても、兵法の道理を極め、動かない心を、よくよく吟味せよ。