墨汁日記

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うちとそと

2007-12-04 19:25:13 | 駄目
 共同幻想と、対幻想と、個人幻想の決定的な違いは、幻想の及ぼす「範囲」の違いであるはずだと仮定してみよう。

 その範囲を、お人形さんごっこに例えよう。

 1人だけで、人形に名前をつけてそれぞれの人形に設定をつけ物語をつくり、1人でお人形さんごっこをする女の子のごっこ遊びは「個人幻想」である。
 その女の子以外の他人は、人形につけられた名前も設定も物語も、誰も知らない。

 2人で、お人形さんごっこをして、その2人の女の子以外の他人が、人形につけられた名前や設定も2人がつくった物語も知らないならば、それは「対幻想」である。

 3人で、お人形さんごっこをするなら、もはやそれは「共同幻想」だろう。

 幻想の及ぼす範囲で考えるならば、こう考える方がスッキリするが、『共同幻想論』の吉本隆明はそう考えなかった。
 分け方から考えてみると、単純な人数による範囲のように思えていながら、実は吉本は「うち」と「そと」という分け方を基準にしている。
 
 うちとそと。

 うちもそとも関係なく、自分は自分。
 だから、「自分」1人は「個人幻想」で間違いない。

 だが、1人の個人が「うち」だと幻想する範囲を、吉本隆明は全て「対幻想」の範囲に入れてしまった。
 だから、吉本の語る「対幻想」の範囲はとても分かりにくく、概念自体も良く分からない。俺なりに、「対幻想」を簡単に説明するなら、あなたが「うち」だと思っているもの全てが「対幻想」に当てはまると説明したい。

 そして、「共同幻想」とは、「そと」の人も「うち」の人も、そして「自分」さえも、同じように抱いている幻想が『共同幻想』という意味である。

 岸田秀は「うち」と「そと」の概念があまりなく、自分じゃないものなら「うち」の家族すら「共同幻想」に含めようとしたかったみたいだ。
 それに対して、吉本隆明は「うち」の家族は「対幻想」だよと言いたかったのだろう。それが吉本と岸田の違いで、たぶん岸田の方が「個人幻想」が強かったのだろうなと思う。

 個人幻想、対幻想、共同幻想は、そういう項目をたて、点を結ぶなら三角形であるが、三角形は互いに対立して交わらない。
 自分を中心して考えるなら、個人幻想あたりを頂点として共同幻想を底辺とするピラミッドが吉本の想像する「幻想」の正体であり、項目のたてられた幻想は頂点ではなく、ピラミッドなのである。だから、個人幻想、対幻想、共同幻想のさかいはとても見いだしにくい。

 家族は対幻想。
 恋人も対幻想。
 家の建物や土地に対する思い入れも対幻想。
 姉も祖母も祖父も兄も父も母も親戚も、うちのひとと思うのなら対幻想。
 自分本位に考えるなら、
 自分の血縁や、自分のパートナー、自分の家、飼い犬、飼い猫、などなど、あなたが「うち」とおもうもの全てが「対幻想」となる。
 その反対に、あなたが「そと」と考える人たちとも共通している幻想が「共同幻想」なのであろう。(例えば、お金とか国家とか、市町村とか会社とか学校とか)

 岸田のように「個人幻想」以外の全てを「共同幻想(そと)」と考えるなら「対幻想」はいまいち理解できない概念だろうし、また、吉本のように「うち」を全て「対幻想」に含めるのはいささか強引であり、きちんと説明してくれないと分かりにくい概念だよなと思った。

(間違えてるよと思う方は、ぜひ教えて下さい!)


疑問形の断定・肝機能についての一節

2007-12-04 18:00:51 | 駄目
 酒飲みなので肝臓が気になって仕方がない。

 という話はいったん置いておいて。

 ところで、作文に間違いを書かないですむにはどうしたら良いだろう?

 秘策を思いついた。
 秘策と言うほど秘策でもないが、ようするに断定しなければ良い。
 あっ、今うっかり断定しちゃったけど、断定さえしなければ絶対に間違えない。と、また断定した。
 とにかく、間違いたくなければ、なんでもかんでも疑問形!?
 これである、語尾を疑問形にしてしまえば絶対に間違えない。
 断定しちゃうから間違いが間違いになっちゃうのだ。
 だから、絶対に断定さえしなければ、もう間違えないとこの俺が保証しよう!

 例えば、

1・『タコは肝臓に良いとテレビで語られているのを聞いた事がある。
 ウコンは肝臓の働きを助けると言われるが、摂りすぎると逆に肝機能を低下させると聞いた事があるが、それは本当だろうか?』

 常にこういう腰のひけた書き方をするならば、どんなに甘い球でもホームランにだけはならない。
 だが、この文章を断定的にしたらどうなるだろうか?

2・『タコは肝臓に良い。
 ウコンは肝臓の働きを助けるが、摂りすぎると逆に肝機能を低下させる。』

 1の文章に比べて、2の文章は全て断定だから何かひとつでも情報に間違いがあればソコが間違いとなる。

 だが、1と2の文章を読み比べて、どちらが分かりやすい文章だろうか?

 俺は2の文章の方が分かりやすいと思う。
 確かに1のような文章なら、間違えはしないだろうけど読者に言いたい事が伝わりにくい。
 最近の若い人は頭が良いから、そこらへんの事は俺なんかに言われなくても良く熟知していて語尾もたいてい疑問形なので、結局なにが言いたいのか俺には良く分からない。

 頭良い人はなかなか間違えない。

 間違えたくないという気持ちは分かる。
 間違いを指摘されるのは屈辱だからね。

 でもさ、間違いも含めてドーンとアタックするのもありかもよと少し思う。
 あなたの間違いすらあなたの知性の一部だ。
 どんどん断定して、人から間違いを指摘されて、それで、あぁ間違いを正してくれてありがとうとか思えばいいじゃん。

 分かりにくい文章の特徴として、断定をさける、引用が多い、後から何とでも言い訳のきくような書き方をしているなどがあげられる。
 間違えたくないという意識が作文を分かりにくくする。

 ような気もしないでもないかな、なーんて少ししたりしてとかなんてね。エヘへ、みたいな?