墨汁日記

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好きと信じる

2007-12-10 18:36:50 | 駄目
 前にも書いたけど。

 自己愛と自信は違う。

 自己愛は自分が大好きって感情。自信は自分を信じているって意思。

 好きと信じるは違うよね?

 好きは動物的で本能的な、うーんいわゆるもうどうしようもない感情的みたいなかんじ。信じるのは理性だ。

 感情と理性は違う。
 好きって気持ちはなかなか抑えられないが、信じる気持ちを抑えるのは楽勝。てか、むしろ他人に対しては猜疑心フル満タンの方が楽に普通に振る舞える。
 他人を信じるのは疲れるけど、人を好きになるのは、好きになればなるほどエネルギーがわき上がる感じ。

 好きって気持ちはもうのっぴきならない感情で抑えられくて叫び出しそうにさえなる。でも、信じるのは理性的で、信じてると叫びたくもならないし、むしろ疑ってかかる方が楽っ。

 信じるってのはものすごく理性的な行為で、疑心暗鬼でいるほうが楽なのだ。その証拠に一度でも自分の期待を裏切られると好きな人でさえ信じられなくなったりしないだろうか?

 好きは本能的な気持ちなんだろう。
 信じるのは理性的。
 そうなれば、使っている脳みそのところさえ違う。感情と理性は違うものだ。

 だから、自分が大好きなのに、自分を信じられない人間も普通にいる。自分が好きなのと自分を信じるのではもちろん違うからね。



言葉

2007-12-10 17:58:27 | 駄目
 ぼくが真実を口にすると 
 
 ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によつて

 ぼくは廃人であるそうだ
 
 (廃人の歌)

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 今日の昼頃、吉本隆明の『共同幻想論』をようやっと読み終わった。
 とくになんの感想もない。
 これで終わりなんだと思っただけ。

 吉本隆明と俺とでは問題意識が違い過ぎる。
 それに教養の差が激しすぎて、彼が前提とする教養を俺はほとんど知らないから何を言いたいのか分からない。
 言いたい事が分からないのだから、何の感銘も受けないのは当然である。

 だが一番最後に、中上健次の解説文に吉本隆明の詩が引用されていた。

 それが上の詩である。
 なんの比喩もない、ただ自分がこうだと思った事を書き並べただけの文章。

 この詩に出会って、もう少しだけ、吉本隆明について知りたくなった。もう一度『共同幻想論』を読み直してみよう。


比喩

2007-12-10 17:26:56 | 駄目
<直喩>

 比喩の直接的なのが『直喩』である。「なんとかのようだ」「なによりもなんとかだ」という形式を取る。

 例1「お前の目は、腐った魚の目のようだ!」
 
 例2「お前の目は、腐った魚の目よりも腐っている!」

 何かを、なんとかみたいと言い切るのが直喩だ。

<隠喩・暗喩>

 比喩のやや分かりにくい表現が『隠喩・暗喩』だ。例えば、貧乳の女子の胸を「洗濯板」と例えるのがそれに当たる。

 だが、ただの悪口は隠喩ではない。
 警官を「ポリ公」と呼んだり、日本人を「ジャップ」と呼んだり、朝鮮人を「チョン」などと呼ぶのなどは、ただの侮蔑的な悪口であってぜんぜん比喩になっていない。眼鏡をかけた子供を、他の子供達が「メガネ君」とからかうようなものである。
 だが、日本人を「イエローモンキー」とか「バナナ」などと呼ぶのなら、それも侮蔑的な悪口ではあるが、それでも比喩にだけはなっているので隠喩と言えよう。

 俺の事を「馬鹿」と呼ぶなら、たぶん馬鹿の起源は隠喩なのであろうが、現在では誰もが馬鹿は馬鹿なんだと馬鹿の意味を知っているから、ただの悪口となる。