兵法の道におゐて、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。
静かなる時も心は静かならず、何とはやき時も心は少しもはやからず、心は躰につれず、躰は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心のたらぬ事なくして、心を少しもあまらせず、うへの心はよはくとも、そこの心をつよく、心を人に見わけられざるやうにして、小身なるものは心に大きなる事を残らずしり、大身なるものは心にちいさき事を能くしりて、大身も小身も、心を直にして、我身のひいきをせざるように心をもつ事肝要也。
心の内にごらず、広くして、ひろき所へ智恵を置くべき也。智恵も心もひたとみがく事専也。智恵をとぎ、天下の利非をわきまへ、物毎の善悪をしり、よろずの芸能、其道其道をわたり、世間の人にすこしもだまされざるやうにして後、兵法の智恵となる心也。兵法の智恵におゐて、とりわきちがふ事有るもの也。
戦いの場万事せはしき時なりとも、兵法の道理をきわめ、うごきなき心、能々吟味すべし。
<常の心>
日常ありのままの心。平常心。
<心を広く直にして>
広い視野に立って真実を見極めるのでなくては。
<きつくひつぱらず>
緊張し過ぎることなく。
<心を静かにゆるがせて…>
一時一物に凝滞することなく、つねに流動自在な心の状態を保つこと。
<つれず>
連れず。ひきずられることなく、とらわれないで。
<うへの心はよはくとも…>
「うへの心」は外見。「そこの心」は本心、心底。外柔内剛。
<兵法の智恵>
「兵法ノ道ト理ト利方トヲ明ニ知ル者也。智ハ水ニ似タリ、事ヲ為(なす)ニ凝滞スル事ナク自由ノ者也」(二刀一流極意条々)
『五輪書』宮本武蔵著・渡辺一郎校注(岩波文庫)
(校注も本書からの書き写しです。読みやすいよう本文に改行を加えました)