共同幻想と、対幻想と、個人幻想の決定的な違いは、幻想の及ぼす「範囲」の違いであるはずだと仮定してみよう。
その範囲を、お人形さんごっこに例えよう。
1人だけで、人形に名前をつけてそれぞれの人形に設定をつけ物語をつくり、1人でお人形さんごっこをする女の子のごっこ遊びは「個人幻想」である。
その女の子以外の他人は、人形につけられた名前も設定も物語も、誰も知らない。
2人で、お人形さんごっこをして、その2人の女の子以外の他人が、人形につけられた名前や設定も2人がつくった物語も知らないならば、それは「対幻想」である。
3人で、お人形さんごっこをするなら、もはやそれは「共同幻想」だろう。
幻想の及ぼす範囲で考えるならば、こう考える方がスッキリするが、『共同幻想論』の吉本隆明はそう考えなかった。
分け方から考えてみると、単純な人数による範囲のように思えていながら、実は吉本は「うち」と「そと」という分け方を基準にしている。
うちとそと。
うちもそとも関係なく、自分は自分。
だから、「自分」1人は「個人幻想」で間違いない。
だが、1人の個人が「うち」だと幻想する範囲を、吉本隆明は全て「対幻想」の範囲に入れてしまった。
だから、吉本の語る「対幻想」の範囲はとても分かりにくく、概念自体も良く分からない。俺なりに、「対幻想」を簡単に説明するなら、あなたが「うち」だと思っているもの全てが「対幻想」に当てはまると説明したい。
そして、「共同幻想」とは、「そと」の人も「うち」の人も、そして「自分」さえも、同じように抱いている幻想が『共同幻想』という意味である。
岸田秀は「うち」と「そと」の概念があまりなく、自分じゃないものなら「うち」の家族すら「共同幻想」に含めようとしたかったみたいだ。
それに対して、吉本隆明は「うち」の家族は「対幻想」だよと言いたかったのだろう。それが吉本と岸田の違いで、たぶん岸田の方が「個人幻想」が強かったのだろうなと思う。
個人幻想、対幻想、共同幻想は、そういう項目をたて、点を結ぶなら三角形であるが、三角形は互いに対立して交わらない。
自分を中心して考えるなら、個人幻想あたりを頂点として共同幻想を底辺とするピラミッドが吉本の想像する「幻想」の正体であり、項目のたてられた幻想は頂点ではなく、ピラミッドなのである。だから、個人幻想、対幻想、共同幻想のさかいはとても見いだしにくい。
家族は対幻想。
恋人も対幻想。
家の建物や土地に対する思い入れも対幻想。
姉も祖母も祖父も兄も父も母も親戚も、うちのひとと思うのなら対幻想。
自分本位に考えるなら、
自分の血縁や、自分のパートナー、自分の家、飼い犬、飼い猫、などなど、あなたが「うち」とおもうもの全てが「対幻想」となる。
その反対に、あなたが「そと」と考える人たちとも共通している幻想が「共同幻想」なのであろう。(例えば、お金とか国家とか、市町村とか会社とか学校とか)
岸田のように「個人幻想」以外の全てを「共同幻想(そと)」と考えるなら「対幻想」はいまいち理解できない概念だろうし、また、吉本のように「うち」を全て「対幻想」に含めるのはいささか強引であり、きちんと説明してくれないと分かりにくい概念だよなと思った。
(間違えてるよと思う方は、ぜひ教えて下さい!)
その範囲を、お人形さんごっこに例えよう。
1人だけで、人形に名前をつけてそれぞれの人形に設定をつけ物語をつくり、1人でお人形さんごっこをする女の子のごっこ遊びは「個人幻想」である。
その女の子以外の他人は、人形につけられた名前も設定も物語も、誰も知らない。
2人で、お人形さんごっこをして、その2人の女の子以外の他人が、人形につけられた名前や設定も2人がつくった物語も知らないならば、それは「対幻想」である。
3人で、お人形さんごっこをするなら、もはやそれは「共同幻想」だろう。
幻想の及ぼす範囲で考えるならば、こう考える方がスッキリするが、『共同幻想論』の吉本隆明はそう考えなかった。
分け方から考えてみると、単純な人数による範囲のように思えていながら、実は吉本は「うち」と「そと」という分け方を基準にしている。
うちとそと。
うちもそとも関係なく、自分は自分。
だから、「自分」1人は「個人幻想」で間違いない。
だが、1人の個人が「うち」だと幻想する範囲を、吉本隆明は全て「対幻想」の範囲に入れてしまった。
だから、吉本の語る「対幻想」の範囲はとても分かりにくく、概念自体も良く分からない。俺なりに、「対幻想」を簡単に説明するなら、あなたが「うち」だと思っているもの全てが「対幻想」に当てはまると説明したい。
そして、「共同幻想」とは、「そと」の人も「うち」の人も、そして「自分」さえも、同じように抱いている幻想が『共同幻想』という意味である。
岸田秀は「うち」と「そと」の概念があまりなく、自分じゃないものなら「うち」の家族すら「共同幻想」に含めようとしたかったみたいだ。
それに対して、吉本隆明は「うち」の家族は「対幻想」だよと言いたかったのだろう。それが吉本と岸田の違いで、たぶん岸田の方が「個人幻想」が強かったのだろうなと思う。
個人幻想、対幻想、共同幻想は、そういう項目をたて、点を結ぶなら三角形であるが、三角形は互いに対立して交わらない。
自分を中心して考えるなら、個人幻想あたりを頂点として共同幻想を底辺とするピラミッドが吉本の想像する「幻想」の正体であり、項目のたてられた幻想は頂点ではなく、ピラミッドなのである。だから、個人幻想、対幻想、共同幻想のさかいはとても見いだしにくい。
家族は対幻想。
恋人も対幻想。
家の建物や土地に対する思い入れも対幻想。
姉も祖母も祖父も兄も父も母も親戚も、うちのひとと思うのなら対幻想。
自分本位に考えるなら、
自分の血縁や、自分のパートナー、自分の家、飼い犬、飼い猫、などなど、あなたが「うち」とおもうもの全てが「対幻想」となる。
その反対に、あなたが「そと」と考える人たちとも共通している幻想が「共同幻想」なのであろう。(例えば、お金とか国家とか、市町村とか会社とか学校とか)
岸田のように「個人幻想」以外の全てを「共同幻想(そと)」と考えるなら「対幻想」はいまいち理解できない概念だろうし、また、吉本のように「うち」を全て「対幻想」に含めるのはいささか強引であり、きちんと説明してくれないと分かりにくい概念だよなと思った。
(間違えてるよと思う方は、ぜひ教えて下さい!)
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