1995年1月17日。
目を覚ました時の光景は、強盗に侵入された跡の部屋の様な惨状。
研究室に足を運んで見た地震計に記載された歪な波。
乗り込んだJRは元町止まり。
通り過ぎる長田区の赤と黒の世界。
超高層ビルが横転する三宮センター街を通り過ぎ、東灘区へ。
瓦礫の下から掘り起こしたヒト、数十人。
ワタシが体感した阪神大震災は、直接当事者というには烏滸がましいが、胸に刻まれた強烈な記憶。
この日の出来事がワタシの方向性を変えたのは事実である。
様々なことが重なって一度リタイヤしたが、以前はそういう方面の技術系専門職だったりする。そして体調が回復しつつある今、改めてそういう方面の仕事を今できる範囲でやっていたりする。
この翌年の1996年を境に日本における耐震構造設計指針は大きく変貌を遂げた。
といっても、実情としては重要構造物とされるモノに対してだけであり、ヒトが日常生活を営む住宅に関しては実は殆ど進んでいなかったりする。
それとは別個に超高層化する都市群。
自然の輪廻は破壊と再生の繰り返しであるが、ヒトは上昇志向にのみ目を向ける。
ワタシは自然には抗えないと考えている。
ただ無防備に災害に被災した多くのヒトを垣間見ると、やはりやるせないし、こんなワタシにできることは何だろうか、と毎年のように考える。
今日という日はそんな日。
2010年1月11日、中米ハイチでM7.0の大地震が発生し、被災者およそ30万人。
2004年12月26日に発生したスマトラ沖地震も、2008年5月12日に発生した四川省大地震に関しても、対岸の火事のことのようにただ阪神大震災から15年と報道されるテレビニュースと、これといった行動の出来ていないワタシ自身にとてもジレンマを感じてしまう。
ワタシの力はちっぽけなモノである。
ワタシの能力も中途半端なモノである。
大自然を前にしたらそれこそ無力である。
今までもこれからも、地震に限らず災害は発生する。
ワタシ達は自然の中で共存しているのだから。
ワタシに出来ること、ワタシが目指すこと、ワタシが取り組むこと。
そういうことを考えさせられる。1月17日という日。
父に癌の確定診断。先に受けたことのあるワタシ。
同居していた元旦那は、翌日より、JRの線路を伝い神戸入り。1ヶ月ほどファミレスに寝泊りし六甲山トンネル内やその他の線路修復をしました。「あんな光景は見たことが無い。」と言っていました。その年の春、高校を卒業したばかりでその街を出て京都に来た少女が、わたしのたった一人の友人となってくれ、今もそこからちょくちょく遊びに来てくれています。
plutoさんは、あの日、あそこにいらしたのですね。
癌。進度も治療法も様々。
心身に対する最善の治療にめぐり合い、
その苦痛に癒しがありますように☆
こんばんは。
あの時のことは忘れないでしょうね。
不思議なものです。どこにいってもそうなのですが、目に映る光景はもう面影すら感じさせられないほどに変化し、また新しいモノができている。
そういうものなのかも知れないな、と。
癌。難しい病ですね。
これから父がどう生きていくのか。
じっくり付き合っていきたいと思います。
ありがとうございます。
私、あの日 灘高のすぐ近くで被災しました。
しかし 誰も助けることができず
そのまま 西へ西へ 私の実家に避難しました。
「なんにも でけへんかったなぁ」という気持ちが
私の中にずっと残っています。
そして 建物が人を殺しちゃうこともあるんだなぁと
初めて知りました。
こんばんは。
「なんもできません」よね。
ただ、あの中で『ヒトの結束力』っていうのは感じましたね。
色んなところで色んなことが起きてるんですけど、身体で感じることは大切だよな、と今でも思います。