どうも、桜が散る頃には燃え尽きていそうな今日この頃。 ちょっと書いておこう、と思ったので記載。 自分の感覚とか、感情とか、は大切なモノだと思う。それらを直接的に表現するコトによる、対人関係への影響力、という、二次的産物に気を取られがちではあるが、自分自身が直接的に情報を入力し、装飾を施すなどがない反応と言うモノは、基本的に自己の内部で生み出された一次的産物であり、それ自体に大きな価値があると思 . . . 本文を読む
ヒトは慣れる。良くも悪くも。世の中が過敏になると鈍磨し、鈍くなると過敏になる。じゃあ適応ってなんだ?
結局のところ、慣れる、馴染む、染み込む、といったコトを自分自身で学習するコトであったりする。低下した免疫力と、元々低い免疫力。どちらにしても、現状の自分自身の免疫力が低い、ということを自覚してそこから動くことが、適応だったりする。自分が変化する側であること、を意識すると、少なくとも自分の描く . . . 本文を読む
とある事例が、代理ミュンヒハウゼンの典型パターンだよな、と改めて思う。
姿形がアレだけに、誰も彼もがそう自覚しないし、本人的には『ぜーったい誰それのタメ』とか盲信してるだろうし、煽るというか、盛り上がるというか、それが手助けというか、そういう風潮の世界も一部ではあるが、あるというのが厄介だなあ。
はぁー、溜息しかでない。 . . . 本文を読む
今のワタシには、ほとんどない。譲れないことって、人生においてまあ滅多にないよな、という意味で。
相手のあることに対して、自分自身がどうしても『譲れない』と、ふとその場で思うことはあっても、少し間をおくと、それほど『譲れない』モノではなかったりする。よくよく考えると、『譲れない』モノに理由を付けているのは、自分の意識であることに気付くと、『譲れない』モノは大概なくなる。
って書いちゃうと、え . . . 本文を読む
勉強とか学習とか言われるモノって、どうもここ数年で急速に『脳』を使ってするモノだ、みたいな風潮というか流れというか、そういう方向に行きつつあるように感じる。基本的に学習というのは、『身につけるモノ』だと個人的には思っている。がっこの“おべんきょう”を暗記するとか、“知識を吸収する”とかではなくて、何度も何度も反復練習をして、身体に刷り込ますことが『学習』ではないのかな?
ヒトって色んな体験や . . . 本文を読む
忙しいです。こういう時に限って、やたらと本を読みまくるので、情報過多。あああ、今年も桜の季節には燃え尽きてるかも。厄介だよなー。暖気にえらい時間がかかるのに、いざぎあが切り替わるとぶっ倒れるまで気付かないっつーか、気付けないっつーか、えんぷてぃになっても走ってるし。
さりげなく、淡々と、粛々と。自分のすることを、ただするために、今日も自己管理。ばってりー充電機に接続完了。さ、寝よ。 . . . 本文を読む