皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

社会適応は必要か

2010-01-16 23:52:32 | 認知の歪み

この記事もパラドックスです。

「生きていく上で社会に適応するということは必要だろうか?」

この話題に対する答えはヒトそれぞれであると思う。
それこそ「朝まで○テレビ」であんな議員やこんな評論家センセーなんかが語ることと、今切実に悩んでるヒト、仕事ないよーって困ってるヒト等々、激論バトルになることだろう。

そもそも社会とはなんだろうか。
約60億人が生活しているこの地球上で、実は同一の社会というものは存在しない。
それは「社会」というものを構成する要素があまりにも膨大であり、また一個人が接する「社会」というものが非常に限られていることにも起因する。

ワタシの場合、はっきり言って「社会不適応者」である。
これは概ね自他共に認めるところであったりする(言ってて心中複雑ですが)。
ここで言う「適応」は、主に仕事という特殊で閉塞的環境における「一面的な適応」であるわけだが、ワタシのように『スキル』とか『生活のゆとり』いうものがない者にとっては、働くことは生活を営む上でヒジョーに高いウェイトを占めている。

そこで起こる様々な難題やハプニング、軋轢等々、毎日ドタバタである。

ワタシ、この手の相談は基本的に医療機関の某職の方にのみ相談しているのだが、辛口で、中途半端な主観を交えない意見を言って下さるのでヒジョーに参考になっていたりする。
普段書いている多くのことと矛盾するのだが、現代の日本の社会システムにおいて、ワタシの様なタイプのヒトは、“自分の持っている感情や思考を抑えても「周りに合わせる」ということが、職業人であり続ける上で必要だろう”、という見解で一致していたりする。

学生という身分までは、何をしていても大抵なんてことはないが、社会人というものになると、立場に応じある種の役割を演じ、その中である一定の責務を全うし、何らかの成果をあげることは当然のことである。それにはおかれた環境条件に応じて自己の行動や言動、思考や方法をその条件下に適応させることを要求されるのも至極当然のことである。

これは自己の意志や主張の全てを押し殺す、ということではなく、「うまいこと折り合いを付けられるように自分なりの方法を模索する」ということであったりするのだが、これがヒジョーにムズカシイからゲロを吐いたりするわけである。


周囲のヒトビトをジーッと観察していると、なかなか面白い。
結構自分勝手なことを言っていたりすることもあれば、ジーッと「忍耐」っていう言葉が相応しいような状態を送っていることもある。
要は自己内で自分になるべく負荷がかからないようにバランスを取っていたりするわけである。自己内バランサーと、関連物質間バランサーの作動と言った感じでしょうか。

一部のなんじゃこりゃってヒトを除き、これ、自己責任による自己選択の範疇である。バランスのとれているヒトは、見ていて「巧いなー」と感心するし、そういうヒトの周りはそれなりに『巧いこと』廻っていたりする。


じゃあ、それを真似して自分も『巧いこと』すればいいじゃん、とも考えないこともないのだが、残念ながらその手法はワタシの中では活かされなかったりする。
それはワタシに能力がないことも一つの理由であり、またワタシ的にはあまりにも高度なテクニックであり、到底真似の出来る代物ではなかったりする。ワタシのキャラとも被らかったり、まあ余程自己流にアレンジできない限り使えない。


なんだよー、それじゃやっぱ「適応」できないじゃん、と言われると、実はそうだったりするわけで、これまた頭痛い。

ワタシの場合、「思考」「判断」「状況把握」「行動」「意思疎通」「情報入出力」等々が一般的と言われるヒト(誰が基準を決めたんだー、といっても仕方ないし、事実ずれていることを実感しているワタシ)とあまりにもかけ離れてしまっているという事実と、ワタシ的快・不快のツボもまた同様にずれているということと、「極端な思考形態」を指摘されている。

これで周囲に合わせるって、サラッと読んでみても「うつうつ君」一直線街道じゃーないですか、と思ってしまうわけだが、こと『仕事』という場面においてはどんな職業に就こうとある程度は要求されることであり、それを怠ることはただ己のクビを締めることに他ならなかったりする。


ここまで書いたことだけだと、なんだかお先真っ暗な感じもしなくもないが、よーく考えてみると、「特異→特殊→貴重な人材」だったりもするわけでもあったりする。

要するに、ワタシの独特さはある面では短所ではあるが、ある面では長所でもあるということである。
ワタシ個人は、短所を補うとか、長所を伸ばすとか、二元的な考えはあまり好きではない。ヒトにはそれぞれのキャパがあるのだから、自分自身が楽しめる方面に力を注ぐことがいいのではないのかなあ、と思っている(甘い? 甘くて結構)。
まあ、最低限押さえるところは押さえとく必要があるだろうが、それは誰のためでもなく自分のため。

 

そしてここからが極論。
『一般的社会に適応』するということは、『没個性』であるということに近似するということ。社会生活を営むということを考える時、ヒトはどうしても自分の価値観という狭い世界の中に縛られてしまったりする。
『職業』というもの一つとっても、この世界には無限大に存在する。
生活の糧、生き方を考える部位は『創造性』であったりし、独創的なほど「非現実的」「妄想的」である反面、膨大なエネルギーを有しているのもこれまた事実である(ワタシの場合は幻覚か(苦笑)。


創造力ということに着目すると、生産性のまるでないヒトの持つものは爆発的であったりする。生産性ゼロのダメ人間と言われちゃうヒトほど独創的という観点での想像力は高い。
「何やってんだ」「そんな生活に無駄なことを性懲りもなく」・・・なーんて言われるようなことを黙々と何年も続けられるヒトというのは、生産性の著しく乏しいヒトであり、現代社会で殆ど日の目を見ていないものを創り出していることが多々あるが、見てみると実感するのだがめちゃくちゃ凄いモノを創造していたりする。どこかでそういうのの一部を紹介してみたいがワタシ自身内緒にしておきたかったりもする(ワタシの趣味の領域なんで)。

この部分を下手に都合のいいところだけ抽出して、オラオラになっちゃうのはかなり危険だが、そういう要素もあるにはあるんだよ、ってことで。


どこぞで「社会性の・・・」だの「想像力の・・・」だの言ってるヒトがいたりするが、それは、極々小さな自分の知っている世界しか知らないヒトの戯れ言であったりもするということを、ワタシは感じていたりする。

ワタシ自身も悩む、パラドックスです。



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2 コメント

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Unknown (ぴーまん)
2010-01-17 00:20:32
前半の職場での内容、フムフムとニヤニヤしてしまいました。
世界も社会も、もっと広いはずなのに見えてないんですよね(汗)
カメレオンになりたい(笑)
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>見えてないです(汗 (pluto)
2010-01-17 21:09:47
>ぴーまんさん
こんばんは。
何だかどう転んでも自分がどうしたいか、どの様な選択をするか、というところに行き着いたりします。
視野がとんでもなく狭いので、苦行だなあと思ったり(苦笑)
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