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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県八重瀬町具志頭 ・  「 具志頭グスク 」

2015-07-24 00:01:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスクの内郭にある 「 具志頭城内之御嶽 」








殿(どぅん)の右側にある神名「アカズ森之ベイ」






グスク入り口に立つ路標










具志頭馬場跡の関係からふたたびの掲載となった具志頭グスク。
具志頭馬場跡から海に向かって約300mほど行った場所にある具志頭グスク。

具志頭グスクは、具志頭集落の東南の海岸に突き出た崖の上に築かれたグスクである。
グスクの北西に城門があり、その左側から野面積みの城壁が部分的に残り、
西の小高い丘には物見台跡があり、「タカヤックヮ」と呼ばれている。
連郭式のグスクは城門付近が外郭とされ、グスクの北東付近が内郭とみられる。
内郭には城内之嶽や神名アカズ森之ベイが祀られている。

現在は、第二次世界大戦の戦没者慰霊塔が建てられ、
一部の遺構を除いては古城跡を偲ばせる面影はなく、
かつて一大勢力を誇ったであろうグスクの輪郭は失われてしまっている。

具志頭グスクは14世紀の中期頃に英祖王統、
第二代大成王の第三子、具志頭按司によって築城されたと言われている。
以来、代々具志頭按司の居城であった。
規模はおよそ2万5700㎡もあり、沖縄のグスク跡でも大きい方である。
城主の具志頭按司は、尚巴志による三山統一までは海外貿易を行い、
かなりの勢力を誇っていたといわれている。

具志頭グスクの最初の城主は言い伝えによると、
玉城村仲村渠ミントン家の百名世の主の長男・百名大主の九男が
具志頭按司になったというが、古代のことなので定かではない。
15世紀初葉の三山時代・具志頭按司は南山の配下にあった。
中山王・尚 巴志が南山を攻落。具志頭グスクには三男を派遣し、
具志頭王子を名乗った。
この尚 巴志の第一尚氏が滅び、第二尚氏王統に代わると、
具志頭グスクは廃城になり、城主は置いてない。

また、尚 寧王の弟の尚 宏王は、1600年に具志頭王子 ( 朝盛 ) と称した。
小禄御殿の四世であり、九世まで具志頭間切総地頭であった。


具志頭城跡へのアクセス
具志頭城跡へは、国道331号線をひめゆりの塔を過ぎて玉城方面に進み、
具志頭交差点の先のJA具志頭支店から右折して仲間橋を渡り、
そのまま真っ直ぐに道なりに進み、具志頭城跡の看板を右折すると
前に城跡公園がある一帯が城跡である。
高知県出身の慰霊塔 「 土佐の塔 」 を目標にした方が分かりやすいかもしれない。
駐車は、公園内の駐車場を利用できる。


北九州市門司区 ・ 門司風景 「 わたせせいぞう 」 パネル

2015-07-23 11:11:41 | 写真














門司赤煉瓦プレイスの入り口に
「 わたせせいぞう 」 のパネルがある

彼の出身地の門司に飾られた
彼の独特な絵だ






福岡県吉富町 「 八幡古表神社 ( はちまんこひょうじんじゃ ) 」

2015-07-23 00:02:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣













































八幡古表神社 ( はちまんこひょうじんじゃ ) は、
福岡県築上郡吉富町小犬丸に鎮座しています。
すぐそばには山国川が流れており、川を渡れば大分県中津市です。

縁起は欽明天皇の御宇六年(西暦545年)に遡り、
神功皇后の託宣により息長大神宮と称して、
まずはじめに八幡宮が鎮座し、脇殿には住吉宮が祀られました。
細男舞・神相撲(木彫りの御神像が舞い、
相撲を取る当社の伝統行事)の神々を祭る古表社の起源は、
少し時代が下ってからで、天平十六年(西暦744年)のことです。
それ以来、八幡宮古表社、古表八幡宮などとも呼ばれ崇敬されてきましたが、
現在では八幡古表神社と称しています。

神功皇后が黒牛にまたがった姿の御神像、
細男舞・神相撲四十七体の御神像、
細男舞・神相撲の行事と三つの国指定重要文化財を有しており、
また江戸時代には、代々の中津藩主からの崇敬も篤く、
御神衣や刀剣類などその関係の宝物も多数保有しています。


所在地 : 福岡県吉富町小犬丸353-1

沖縄県伊江島 「 大力者 ( ウプテームン ) / 安里五良 ( アサトグラ ) 」

2015-07-23 00:00:41 | 離島めぐり



ミースイ公園の入口に建つ 「 大力者 ・ 安里五良 」 の碑








ミースイ公園











大力者 安里五良は「イーハッチャー」の語源となった力士だそうです。
「イーハッチャー」とは伊江村民の「負けん気性、進取の気性」を意味するようです。

大分県杵築市 「 守江港灯標 」

2015-07-22 00:03:41 | 大分の灯台

























灯台番号 / 4999
ふりがな / もりえこうとうひょう
所在地 / 大分県杵築市 ( 住吉浜西端 )
北緯  / 33-24-33
東経  / 131-39-33
塗色  / 赤色
頭標  / 赤色円すい形頭標1個付
構造  / 塔形   
構造材質 / コンクリート造
灯質  / モールス符号赤光 毎8秒にA(・― )
実効光度  / 実効光度 59カンデラ  
光達距離 /  4.5海里       
頂部までの高さ / 8.91m
平均水面から灯火まの高さ / 11.1m
現用灯器  / LED灯器 ( Ⅲ型赤 )  
電球 / LED
設置、点灯および業務開始年月日 / 明治33年8月1日


守江港灯標は、住吉浜リゾートパークの先端にあるため、
住吉浜リゾートパークの中を車で進まなければならない。
その先端まで行くと目の前に灯標が見える。

対岸の杵築城付近からも姿が見えるので、
位置を確認することが出来る。



沖縄県那覇市 ・ 琉球泡盛 「 紺碧ゴールド 」

2015-07-22 00:00:41 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒














その泡盛は黄金色のハーモニーを奏でる・・・

色合いから 「 神の河 」 を思い出させる。
色だけでなく味も似ている。
普通の泡盛と比べて25度とやや物足りないが、
ロックやハイボールに合う気がする。

そんな 「 紺碧ゴールド 」 は、泡盛の原酒を貯蔵熟成、
さらに樽で熟成させた貯蔵古酒で、
まろやかな風味を樽貯蔵によりさらに磨きをかけた熟成古酒である。
黄金色のハーモニーが美しい輝きと深い味わいを醸し出す。

泡盛は黒麹菌を使用した
アルコールその他添加物を一切使用していない天然の蒸留酒なので、
水割り、オンザロック、ソーダ割りなどがおすすめである。

北九州市八幡東区 ・ 「 スペースワールド界隈 」

2015-07-21 06:11:41 | 写真




































  昨夜の夕飯の献立は思い出せなくても

      子供の頃の記憶は

       大人になっても

    鮮明に残るエピソード記憶

      その象徴的なものが

        遊園地だ






沖縄県那覇市首里汀良町 「 聞得大君御殿跡 ( チフィジンウゥンアト ) 」

2015-07-21 05:03:41 | 沖縄






















写真は、琉球王国時代の最高女神官 「 聞得大君加那志 ( チフィジンガナシ ) 」 の
神殿及び住居跡である。
 
尚真 ( しょうしん ) 王代 ( 1477~1526年 ) 、琉球王国の神女組織が整備され、
最高位の聞得大君 ( きこえおおきみ ) は国王を守護する 「 姉妹神 」 ( オナリ神 ) として、
国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願した。
初代聞得大君は尚真王の姉妹月清 ( げつせい ) であったと伝えられている。
以来、王女・王母がその職につき、
1879年 ( 明治12年 ) の沖縄県設置 ( 琉球処分 ) に至るまで15代を数えた。
 
聞得大君の就任の儀式を 「 御新下り ( オララオリ ) 」 といい、
首里城を出発して与那原・佐敷を経由し、
知念間切にある聖地 「 斎場御嶽 ( セーファウタキ ) 」 に到り、
久高 ( くだか ) 島遙拝などの神事を行った。
 
王国時代に作られた 「 首里古地図 」 ( 18世紀初頭 ) によれば、
聞得大君御殿の敷地は汀志良次 ( ティシラジ ) ( 現汀良 ( てら ) 町 ) ・
大中 ( ウフチュン ) 村 ( 現大中 ( おおなか ) 町 ) で確認できるが、
最後はこの汀良の地に定められた。

当時石垣に囲まれた建物の敷地面積は約2,000坪であった。
沖縄県設置後、御殿の神殿は中城御殿 ( ナカグスクウドゥン ) ( 旧沖縄県立博物館敷地 ) に移され、
敷地・建物は明治中期以降に払い下げられ、個人の畑地となった。
1929年 ( 昭和4 ) に沖縄県立師範学校がその畑地を寄宿舎用地として購入し、
1945年 ( 昭和20 ) の沖縄戦の後には、首里中学校敷地のグラウンド一帯となった。



沖縄県与那原町 「 聞声大君の墓 ・ 三津武嶽 ( みちんだき )」

2015-07-21 05:01:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



「 聞得大君の墓 」 ( 三津武嶽 )





























三津武嶽の下にある「 我謝公民館 」












与那原にある 「 沖縄カントリークラブ 」 の南端の丘上、
鉄塔付近の岩下に聞得大君 ( きこえおおぎみ ) の墓がある。

聞得大君が琉球発祥の地、久高島に参詣される途中に強い逆風に遭い、
薩摩の国に漂流し、一命をとりとめることが出来たが、
琉球は日照りが続き、これは最高神女が他国に居る所為だと、神女たちはささやき合った。
君真物のお告げで、薩摩に居るからお迎えせよという。
そこで馬天ヌルを船頭に女ばかりで船を出した。
無事に聞得大君を乗せて帰還するが、
その時、既に彼の地で懐妊しており、王府からの招きを快しとせず、
与那原海岸の御殿山に庵を結んで一生を終えた。

三津武嶽は、聞得大君が死後、葬られたと言われる場所であると遺老説伝の伝わる所で、
「 友盛ノ嶽御イベ 」 ともいわれている。
現在は子宝の神として子宝を望む人のお参りが絶えない。

聞得大君は、NHKの 「 テンペスト 」 の中で高岡早紀が演じているので、
テレビを見た人は大方の人物像が解ると思うが、聞得大君について書いておきたい。


聞得大君(きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジン)とは、琉球神道における最高神女(ノロ)である。

「聞得」は大君の美称辞で、「君」は「カミ」の意で、従って「大君」は君の最高者という意味であるという説がある。
琉球方言で、チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)と称した。
宗教上の固有名詞となる神名は 「 しませんこ あけしの 」 「 てだしろ 」 である。

聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、
国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。
琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。
ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。
また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。

就任儀礼

沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において就任の儀式である 「 御新下り 」 が行われた。
「御新下り」の本質は琉球の創造神との契りである聖婚 ( 神婚 ) 儀礼と考えられている。
宗教観念上は、この聖婚により君手摩神の加護を得て、聞得大君としての霊力を身に宿すのである。
就任後は、原則として生涯職である。

由来

琉球王国では、尚真王代に中央集権化と祭政一致が行われた。
この際に各地に存在していた神女をまとめるため神女組織が整備され、
その階位の頂点として新たにこの役職が設けられた。
ちなみにそれまでの琉球王国における祝女の最高位は佐司笠 ( さすかさ / または 「 差笠 」 と表記 )
職と国頭地方由来の阿応理屋恵(あおりやへ / または「煽りやへ」と表記 / 琉球方言読み:オーレー)職であり、
これらは聞得大君職制定のあと、全祝女の中で聞得大君に継ぐ第二位の格付けと降格されている。

その神名 「 しませんこ あけしの 」 は勢理客にあった既存の祝女職と同じであることが判明しており、
聞得大君職の元になった宗教概念が以前から存在したと考えられるが、
その詳細については不明な点がある。
また 「 てだしろ ( =太陽の依代 ) 」 はそれまで馬天祝女の神名であったが、
聞得大君職の制定とともに馬天祝女から剥奪された。

盛衰

尚真王の妹である音智殿茂金(神名、月清)が就任したのが最初である。
王国崩壊後もこの役職は存続し、戦時中の1944年に18代、
思戸金翁主が就任したのを最後に不詳年に廃職されている。


聞得大君の一覧

初代:月清(生没不明) 就任:尚真王代
二代:梅南(不明 - 1577年) 就任:尚元王代
三代:梅岳(不明 - 1605年) 就任:1577年
四代:月嶺(1584年 - 1653年) 就任:1605年
五代:円心(1617年 - 1677年) 就任:1653年
六代:月心(1645年 - 1703年) 就任:1677年
七代:義雲(1664年 - 1723年) 就任:1703年
八代:坤宏(1680年 - 1765年) 就任:1723年
九代:仁室(1705年 - 1779年) 就任:1766年
十代:寛室(1719年 - 1784年) 就任:1780年
十一代:順成(1721年 - 1789年) 就任:1784年
十二代:徳沢(1762年 - 1795年) 就任:1789年
十三代:法雲(1765年 - 1834年) 就任:1795年
十四代:仙徳(1785年 - 1869年) 就任:1834年
十五代:仲井間翁主(1817年 - 不明) 就任:1870年
十六代:安里翁主(1825年 - 1909年) 就任:明治年間
十七代:安室翁主(1874年 - 1944年) 就任:大正年間
十八代:思戸金翁主(1887年 - 不明) 就任:1944年。戦後廃職

(出典:「歴史・伝説にみる沖縄女性」比嘉朝進著、那覇出版社)



園田 匠選手 「 寛仁親王牌 」 優勝おめでとう!

2015-07-20 19:41:41 | 競輪・オートレース



4コーナー出口で、1号車 ( 白 ) の武田に迫る、8号車 ( 桃 ) の園田






























































今日、第24回 「 寛仁親王牌 」 が弥彦競輪場で行われた。

そのレースを見て、コウエイロマンの活躍ではないが、
久し振りに感動した。

本当なら見ていなかったレースである。
ふと、メンバーを見ると、園田が決勝戦に乗っているではないか!
それで、どうしても観ようと思って録画までしたレースは、
6番手から混戦の間中を突っ込んで勝利をものにした。

園田とは同地区、同町内の選手で、我が家に来て、
彼は飲まないけれど、一緒に宴会をした選手である。
北九州地区からは師匠の吉岡稔真以来の快挙である。

名前の残る優勝、ホントにおめでとう!
ゴール前は大きな声が出たけど、に感動したぞ!
これからも、藤井や松本兄弟ともども応援してるぞ!



「 ピース又吉 」 と 愛犬ピースと沖縄又吉ハイツと・・・

2015-07-20 14:41:41 | 文学・文化・映画作品








今日も田んぼの畔刈りをした。
このところ午前中で仕事が終わるが、
午前中の4時間でも汗だくでクタクタになる。

そういえば、土曜日に草刈りをして草刈機を持ったまま用水路に落ちた。
用水路に竹が生い茂っていたので気付かずにその上に乗ったらドボン!である。
時間的に11時を過ぎていたので、ずぶ濡れのまま草刈りを続けたが、
カラダは重かったが、結構じゅっとりとして冷たくて良かった。

そんな草刈りから帰って来て、一番の楽しみは水風呂とビールとハイボールである。
このところ昼間から飲むことが多くて、ゴロゴロしながら本を読んでいる。

そうそう、最近話題になったピース又吉の 「 火花 」 が芥川賞を受賞した。
これは、スゴイ才能だと思う。
話題性で獲ったタイトルではなく、実力で掴み取ったものだから、
ホントに凄いと思う。
皆は芸人とか何とか言っているけど、職業に関係なく、
文字が人の心に訴えるものは何かを知っているのだと思う。

火花も好きだが、個人的には彼が東京の百地域について、
身の上話を綴ったエッセイの 「 東京百景 」 が好きである。
タイトルは太宰治の東京八景にちなんでいるそうだが、
ボクも、以前飼っていた柴犬のピースと、沖縄市の江洲グスク付近にある
「 又吉ハイツ 」 のイメージが強くて、売れはじめの頃から意識していた芸人である。
そんな彼が芥川賞を獲ったことを嬉しく思う。
多少、生活感が変わるかもしれないけれど、
今まで通りのスタイルで、そしてスタンスで行ってほしいと思っている。

でも、レコード大賞じゃなけれど、
物書きで続けていこうと思えば、これからが大変だと思う。
ファンは 「 火花 」 よりも、もっと良いものを期待するから・・・

でも、九州・福岡地区の番組のティーンティーンに出ていたままの姿で
これからも頑張ってほしいと思っている。




7月20日 「 海の日に・・・ 」

2015-07-20 07:37:41 | 写真
        






海の日に

海に行って

ぼんやりと海をながめよう

なにも考えなくていい

なにも思わなくていい

ただ 海を見てるだけで

いいんだ

そんな日なんだ

今日は・・・





沖縄県今帰仁村 「 天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主の墓 」

2015-07-20 00:03:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











「 天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主之墓 」 と書かれた墓石





今帰仁村の今泊集落を流れる志慶真川の近くに
天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主の墓がある。
ここは志慶真乙樽の墓の手前になるが、
墓には、比嘉家の墓の墓石もあり、門中であった可能性もあるが、
場所が湧川ではないのが腑に落ちないところである。

「 天孫子英祖王の二男が何故ここに? 」 って言うのが正直なところであるが、
津屋口墓のことも含めて、
一族からすれば離れ墓にしなければならない理由があったのだろう。

もともと今帰仁村湧川に按司道 ( あじみち ) があり、
そこにカー ( 湧泉 ) 跡がある。
池の側に6基の香炉が置かれ、按司道と香炉、そしてカーなど、
どのような関係にあるのか興味深い。

付近の様子を述べると、すぐ近くに新里家がある。
それと湧川の村の創設は1738年である。
そして寄留士族が過半数を占めている。
また、豊年祭の時、メンビャの広場で棒と路次楽と奉納踊りが行われる。
そこでの演舞が終わると、香炉のあるカーの側(按司道)を通り、獅子小屋へ向かう。

これまでの香炉の調査は按司が薩州や江戸立など上国の時、
随行していった奉公人が村(ムラ)の御嶽(ウタキ)のイベや
遥拝場所に寄進する例が散見できる。


馬の詩より ・ 「 横たわりし君 」  ゲヴァルト

2015-07-20 00:00:41 | 馬の詩 ・ それぞれ...

  「 横たわりし君 」   ゲヴァルト 



阪神との相性の良さから
もっとも その勝利を期待されていた
ゲヴァルト

まともにゲートを出ていれば
おそらく勝っていたであろう
丹波特別
こともあろうか そのスタート前
発馬機内で転倒し
ゲート後方で横たわる
その苦しむ姿を取り囲む係員

あぁ なんということか ・・・
横たわりし君の馬体は
ふたたび立ち上がることなく
そのまま馬運車へ




ゲヴァルト せん馬5才 13戦4勝
平成17年2月26日 阪神競馬場
丹波特別の発走前 第二頚椎骨折のため斃死


佐世保発 「 ぽると ・ 夢のお菓子の詰合せ 」

2015-07-19 12:37:41 | パン ・ ケーキ ・ お菓子




















ピンポ~ンとチャイムが鳴り、
昼前に思わぬ頂き物が届いた。
こうした予期せぬ贈り物は嬉しいものである。

それは、ポルトガルのポルトをイメージした
南蛮菓子 「 ぽると 」 である。
「 ぽると 」 は、洋菓子のビスケットと、
和菓子の羊羹を組み合わせた、和洋折衷のお菓子である。
ビスケットがなじんで、少ししっとりした食感が特徴で、
中の壱岐産の柚子とマッチして上品な味を楽しませてくれる。


ぽるとの他にも夢の詰まったお菓子を美味しくいただきました。
ありがございました。