「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県菊鹿町  「 隈部親永と一族十二名の墓 」

2018-05-17 13:41:26 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )































先日紹介した  「 隈部氏館跡 」  の裏山にある隈部親永と一族十二名の墓である。

戦国時代、菊池氏が滅亡したのち、
その本城だった隈府城は、赤星 ( あかほし ) 氏、
ついで隈部 ( くまべ ) 氏が城主となった。
戦国末期、佐々成政 ( さっさなりまさ ) が肥後国主のとき、
肥後国人一揆の発端となる隈府城籠城戦を起こしたのが
隈部親永 ( くまべちかなが ) である。
隈部氏は、清和源氏・宇野氏の末裔といわれ、代々菊池氏の重臣であった。

天正八年 ( 1579 )、龍造寺勢が肥後へ進攻、
筒ヶ岳城 ( つつがたけじょう ) 、長坂城を落とす。
翌天正九年 ( 1580 ) 、龍造寺勢は再び肥後へ進攻、隈府城を取り囲んだ。
城主・赤星統家 ( あかほしむねいえ=親隆ちかたか、
道半どうはん ) は人質を出して降伏、
合志氏の竹迫城 ( たかばじょう ) へ移った。
これにより、隈部親永は隈府城へ入り、ここを本拠とした。
隈部館には、一族の富田氏続を城代として置いたという。
隈部氏の勢力は山鹿郡、菊池郡に及び、国人とはいっても大勢力となった。

このあとの親永の活躍は隈府城を中心として行われる。
そして、天正十五年 ( 1587 ) 、肥後国主となった
佐々成政 ( さっさなりまさ ) に反抗、
国人一揆 ( こくじんいっき ) へと騒動が拡大していく。
親永は息子の第二十九代・隈部親安 ( くまべちかやす ) とともに戦ったが、
黒田如水 ( くろだじょすい ) らの説得に応じ開城、
親永は柳川城の立花宗茂 ( たちばなむねしげ ) へ、
親安は小倉城の毛利勝信 ( もうりかつのぶ ) へ預けられ、
やがて両人とも切腹させられた。
だまし討ちともいう。
そして、 隈部氏はここに滅んだ。


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