今帰仁村運天 「 百按司墓 」
百按司墓は、古宇利島や運天港を見下ろす丘の中腹にあり、
「源為朝上陸碑」のそばから細い道を降りると、左側斜面に墓が点在する。
その一番奥にあるのが、 「 百按司墓 」 である。
地元では百按司(ムムジャナ)墓と呼ばれており、
墓は運天集落の北東部、崖の中腹、自然岸壁利用して造られている。
付近には三基の墓があり、百 ( 大勢の ) 按司の墓ということになるだろう。
中には、石厨子・厨子ガメ・木龕 ( もくがん ) があり、巴紋 ( 王家紋 ) もある。
一帯には山北(北山)監守の一族葬った大北(ウーニシ)墓をはじめ、
60基以上の古墓が集中する地域である。
現在見る百按司墓は漆喰で塗り固められた半月状の石積みによって囲まれている。
墓口はないが、天井が開いている。
かっては方言でザフン(和名:ヘッカニガキ)材で組まれた家型の墓があり、
壁はチニブ(竹製の網代)が用いられたと推測される。
墓内部にはおびただしい数の骨があり、複数の木棺が納められていたようである。
墓の状況から考えると、ここには幾つかの時代の墓所と思われる。
1 羽地按司に滅ぼされた中北山の戦死者の墓。
2 後北山が尚 巴志に滅ぼされた時の戦死者の墓。
3 尚 巴志王統(第一尚氏)が滅び、その北山監守たちが葬られた墓。
4 尚 徳王の悪政について行けない家臣たちの遁世した墓。
5 薩摩軍の攻撃で戦死した北山監守たちの墓。
よって墓は、以上のことが考えられる。