
須佐神社の前にある 「 宇留津城之碑 」

塩田沼の位置図が書かれた看板

宇留津城の主郭部分だったと考えられる公民館付近


宇留津城の説明板

城に隣接する 「 須佐神社 」
福岡県築上町 ( 旧・ 椎田町 ) の北東、
航空自衛隊築城基地の東約1キロの所にある宇留津集落全体が城跡と言われている。
宇留津城は別名 ( 塩田城 ・ えんたじょう ) とも言われ、
宅所兼本城の要害であった。
宇留津の海岸の須佐神社の南を塩田沼といい、
これは城堀の跡である。
宇留津公民館に 「 宇留津城之碑 」 があり、
ここが城の中心であったと思われる。
付近に城井戸や姫井戸と称する古井戸が残っていたが、
現在は埋め立てられてしまった。
また、宇留津集落の西と東に土塁があったが、
これも取り除かれている。
南と北の両端に 「 カマエグチ 」 という地名があり、
これは 「 構え口 」 の転化で、
ここに城の表門、裏門があったものと思われる。
この城は、元暦年間 ( 1184 ~ 85年 ) に
源義経が緒方三郎惟栄 ( これよし ) に命じて築かせたものである。
この時、加来次郎を置き、のち加来氏代々の居城となった。
応永5年 ( 1398年 ) に大友氏鑑が豊前に侵入したが、
このとき大友に加担した者のなかに加来三郎の名がある。
弘治2年 ( 1556年 ) の春、豊後の大友宗麟が豊前に侵入したが、
その時、この宇留津城について 『 宇佐軍記 』 に、
「 築城郡に討ち入り塩田の城に押し寄れば、加来孫兵衛惟康冑を脱いで平伏す 」 とある。
のちに加来氏は宇都宮氏に属した。
天正14年 ( 1586 ) 、豊臣秀吉は九州統一のため薩摩の島津氏攻めを開始。
先遣隊の軍艦黒田官兵衛孝高 ( よしたか ) は、
毛利、吉川、小早川の中国勢とともに小倉城の高橋氏を攻略、
さらに軍勢28000人で、
2000人が立て籠もる加来与次郎 ( かくよじろう ) の宇留津城を攻めた。
黒田勢は母里太兵衛が先陣を務めたが、大きな濠に阻まれた。
しかし、一匹の白い犬が濠の浅瀬を渡っているのを見て、
そこから一気に攻めて落城。
そして妻子とも400人余りを浜で磔にしたと伝えられる。
須佐神社から宝積寺 ( ほうしゃくじ ) 一帯が城跡で、
周辺の堀跡の塩田 ( えんた ) 沼も埋め立てられてしまった。
城内で討たれた加来与次郎の亡骸は、
生き残った家臣が敵の目を逃れ、
宇留津城の見渡せる石堂の山の上に葬った。