かつて馬場だったと思われる 「 龍潭堰堤 」
龍潭のたもとにある 「 松崎馬場跡 」 の説明板
琉球王朝が冊封使の ” おもてなし ” のために人工的に造った 「 龍潭池 」
松崎馬場跡の位置図
松崎馬場跡は、首里城から浦添方面に至る街道の一部、および広場の名称である。
龍潭 ( りゅうたん ) に突き出た一帯は松が植えられ、
そこから松崎と名づけられたと伝えられている。
1801年に、この地 ( 現・沖縄県立芸術大学敷地 ) に、
「 国学 」 ( 琉球王国の最高学府 ) が置かれた際、
松崎前の道路に木々が植えられ一帯が整備された。
中国からの冊封使来琉の時には、
この地で 「 重陽宴 」 が開かれ、爬龍船競漕見物のため桟敷席が設けられた。
薩摩侵攻後、その名残りでこの付近で競馬が行われたと言われているが、
馬場についての資料は乏しく、沖縄戦での爆撃で形を変えてしまった。
だが、玉陵 ( たまうどぅん ) 前の綾門大道 ( あやじょううふみち ) や
瑞泉酒造がある首里崎山などと同様に、
競馬が行われていたことは確かである。