夜、衛星放送に行く。優れた音楽家だったイギリスの男の物語が流れている。再放送とある。彼はキャリアの盛りに、ウイルス性脳炎で記憶を失った。正確に言うと、記憶が7秒間しか維持できなくなってしまった。その状態は想像できない。想像するだに恐ろしそうだが、実感が湧かない。イギリスのマスコミも興味を持ち、病気の初期にもドキュメンタリーを作っている。今回は、その後の彼を知りたいという思いで取材に来たと彼に説明している。
彼が自らの状態について、何度も言っていたこと。それは、意識がない、朝も夜もない、夢も見ない、死と同じだ。もう少しあったと思うが、今は思い出せない。記憶がなければそれは死を意味しているという彼の観察は、人間にとっての記憶の意味を考えさせる。死を意味していると言った後、だから非常に楽なのだなどと冗談を飛ばしている。彼の話を聞いていると、インテリジェンスに溢れ、病前の彼を髣髴とさせる。
この物語を見ながら、記憶を失い死人同然になった男を愛することができるのか、という問題を考えていた。以前に触れたパスカルの思索のことを思い出したからだ。この方の奥さんは途中で離婚しニューヨークへ。新たな関係を求めるためである。7年ほど探し求めるが、探していたのはもはや以前の彼ではなくなってしまった男だったことを悟り、イギリスに戻り再婚する。
この方の身内のインタビューも出てくる。妹さんご夫妻、それに二人の息子とひとりの娘。妹さん本人よりはご主人の方がうまく対応できると言う。子供たちは、死人同然の父親を愛することなどできなくなっている。特に娘さんにとって、父親の今の状態は耐え難いもののようだ。それに比べて奥さんの表情の、瞳の何と生き生きとしていたことか。彼女はこの男の 「私」 の部分 (本質) を試行錯誤の結果捉えることができたのだろう。そこに何かを見出した時、その存在を愛することができるのだ、と確信する。この例で見る限り、そうできるのは他人であることがわかる。身内と他人、そこにある逆説があるようにも見えてきた。すでに考えられている問題だとは思うが、自らも当ってみたい。