先日、寺山修司の 「死について」 の言葉 (「寺山修司名言集」) を読んでいて、これはどこかで聞いたことがあるなと思ったものがある。例えば、寺山はこう言っている。
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「生が終わって死がはじまるのではなく、生が終われば死も終わる。死は生につつまれていて、生と同時にしか実存しない」
―馬敗れて草原あり―
他者の死は、かならず思い出に変わる。思い出に変わらないのは、自分の死だけである。
―旅路の果て―
自己の死は数えることができない。それを見ることも、手でふれることもできない。
だが他者の死は読める。数えられる。手でさわることもできる。それは再現可能の世界なのだ。
―地平線のパロール―
この世に生と死があるのではなく、死ともう一つの死があるのだということを考えない訳にはいかなかった。死は、もしかしたら、一切の言語化の中に潜んでいるのかも知れないのだと私は思った。
なぜなら、口に出して語られない限り、「そのものは、死んでいない」 ことになるのだから。
―鉛筆のドラキュラ―
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これを読みながら、先日養老孟司氏が同じようなことをテレビで言っていたのを思い出した。養老氏の読者ではない私の直感で申し訳ないが、寺山のアフォリズムにおける視点の捻りや思い切りのよさと養老氏のものの見方に奇妙に通底するものがあるように感じてくる。養老氏がこれらの寺山の思想を話したとしても全く違和感を感じないのだ。外観が違うので見逃しそうになるが、寺山の文章を読んでいると養老氏は形を変えた寺山ではないかと思われてくる。そんな繋がりを見ている人はいないのだろうか。養老氏の読者に聞いてみたい。