久しぶりの Le Point 特集である。7月にパリを訪れた時に宣伝を見たもので、こちらに帰ってきたら届いていた。今まで読みたいと思いながらも忙しくその気にならなかった。記事のタイトルは、以下のようになっている。
「スピノザ ― 悦びの哲学者」 SPINOZA -- Le philosophe de la joie
宗教改革と資本主義の始まりのヨーロッパにおいて、アムステルダムのユダヤ人にして博識の若き商人は、すべてが神により考えられる世界を疑う。その名をバルーフ・スピノザ Baruch Spinoza (24 novembre 1632, Amsterdam - 21 février 1677, La Haye) という。彼の座右銘は "Prends garde" (用心せよ)。彼は社会から排斥され、優れたメガネレンズ磨きの職人、そして自由の最も過激な思想家になる。自然の目的論を拒否し、精神と身体の統一を説き、信教の自由の道を示した。ヘーゲルに、「スピノザでなければ哲学でなし」 "Spinoza ou pas de philosophie" と言わしめた。今日においても 「エチカ」 の著者は情熱を掻き立て、あらゆるところで引き合いに出される。左派でも右派でも、作家でも科学者でも、宗教家と同様に非宗教家にも。スピノザはそれほど一般向けなのだろうか。
世代を超えてこれほど激しく愛され、しかも嫌悪されている。一体彼は何をやり、何を言ったのだろうか。350年に亘り、侮辱され、あるいは賞賛を浴びる。スピノザは、聖人として崇められるかと思えば、悪魔として恐れられる。彼は最高の脅威であるか、比類なき救済者であるか、中途半端はない。
この比類なき思想家は、逆説に溢れている。44歳という若さでほとんど何も出版せず、オランダから出ることもなく亡くなった。しかし、彼の名声はヨーロッパ全土に広まり、高まり続けた。宗教を非難し、聖職者を嫌悪したが、神について語るのを止めなかった。彼が無神論者かどうかは厄介な問題である。
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以下に、リヨンENSの哲学者ピエール・フランソワ・モローによるスピノザ像を。
誰かに対する時、われわれはいつもスピノザ主義者 spinoziste である。スピノザ主義 spinozisme は多数派に対する少数派の哲学、主流派の思想に対する代替の思想である。スピノザは目的論的イデオロギーに反対。スピノザ主義はアフォリズムや標語の思想ではなく、もし自分が同意しないとするならば、その明確な理由を自ら提示するという論証の思想である。彼はマキャべリやマルクスに比肩される政治的な思想家である。ただ、制度や行動そのものについて解析するが、そこに倫理的な視線は投げかけない。例えば、政治的腐敗を見る時、彼は決してそれを一つの悪として糾弾はせず、腐敗が権力の安定を害するのかどうか、市民にとって有害ではないのかを自らに問いかける思想家である。
フランスと何の関係があるのかと思われるでしょうが、著者はフランス在住でフランス国籍を取得した日本人なのです。日本、フランス、ブータンと3つの国で生活をしてきた著者の視点は面白く、わたしと同じ浄土真宗檀家の人です。
著者が帰国して親の法事に出て、もはや日本仏教には帰依できないと感じたことが、執筆動機とのことです。わたしも肉親が死んで同様の経験をしたばかりなので、共感できました。①日本仏教の本質は先祖崇拝であり、インドで生まれた仏教の枠を超えてしまっていること。②日本の知識人は、西欧人の仏教受容などどうせ大したことないだろう、という先入観を持っているが、これは根拠のない偏見であること。これが著者の主張です。
2.東南アジアやチベット仏教圏では、葬式と49日の法要まではやるが、日本のように1周忌、2周忌と繰り返すことはない。これは49日後には輪廻転生していくという仏教の教義からは当然である。日本で行なわれているのは、仏教の衣をまとった先祖崇拝の行事である。
3.「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できるという教えは、インド仏教どころか中国仏教の中にすら見出せない。もはやこれは仏教と呼ぶよりも、法然・親鸞教とでも呼ぶのが実体に即している。
フランスで読まれている聖書は、フランス語で書かれていますよね。何を当たり前のことをと思われるでしょうが、日本で読まれるお経は(今でも)漢文のままなのです。大多数の日本人にとって、お経は意味のわからないありがたい呪文にすぎません。
著者の主張では、日本語訳の大蔵経は、日本史の中で存在していなかった。このことが何を意味するのか、知識人すらも考えてみようともせず、日本は伝統ある仏教国で西洋人の仏教受容など大したことないと、根拠もなしに決めてかかっている、と言います。わたしは著者の主張のすべてに賛同するわけではありませんが、それでもハッさせられたことは事実です。
つい最近になって、情報戦で日本が追い詰められている国際事情もあって、ようやく情報を自己発信しようという試みがネット上でなされるようになってきました。 http://hassin.sejp.net/
英和(仏和・独和・中日)辞書はぼろぼろになるまで使い込んでも、和英(和仏・和独・日中)辞書は新品同様のきれいなままで放置する、というゆがんだ状況は正していかねばなりません。これこそ明治以来の先人たちが一部の例外を除いて、放置してきたことだと思います。
フランスの試験を受けている時には、自分の頭全体を使わなければならない問題が出されるため、終った後にある意味で快感が残るのに対して、仏検の場合は小手先の作業にしか過ぎないので全く面白みを感じないのです。
日本社会がそれほどの認識がないのか、そこまで求めてもしようがないとでも思っているかのようです。
試験のことについては、以前に何回か書いています。
http://blog.goo.ne.jp/paul-ailleurs/e/19b27a62b8f1011142e4043d9d3b61c5
http://blog.goo.ne.jp/paul-ailleurs/e/f93e15d5722641ff217474855ea11bd5