作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 年末に賀状を書くのはヘン 】

2006-12-26 23:00:00 | 02 華麗な生活


長い人生、ず~っと不可思議に思ってきた。

なぜ年末の押し詰まった時に「おめでとう」
なんて書くのだろう。

まだこの年終ってないのに「旧年中は」って。
そして、まだ来てもいない来年をいかにも
もう来たように「あけまして」って。

国民揃ってウソを書いている。

年賀状って、元旦に着かんとダメなんかい。

時間的な余裕もある三が日に、新春の気分を
味わってから書くのがホントじゃないの。

元旦に来ないから、アイツはケシカラン。
年が開けて4日あたりに着いたら、
あっ、ヤツは後出しだって怒りを覚える。

そんなのオカシイ。

と、思いつつ、今日年賀状を完成させました


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【 北アルプス 】

2006-12-26 10:31:01 | 02 華麗な生活


これも衛星ハイビジョン。

『日本の名峰』とのタイトルで、北アルプス
の山々を紹介してくれたから、居ながらにして
槍をはじめ穂高の諸峰、館山や常念岳、剣岳
などを鮮明な画像で楽しみました。

びっくりするぐらい、大勢の人が山に登る。
危険な場所には、くさりが打ち付けられている。
あのくさりを設置した人が居るのだ。その人は
タイヘンだったろう。

また登る姿を写しているカメラマンもタイヘン。

涸沢のゴロタ道も、お花畑も映されて懐かしい。

あの道を23才のボクも歩き、槍ヶ岳に登ったのだった。


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【 モーツアルトの没後 】

2006-12-26 10:30:11 | 02 華麗な生活


『毎日モーツアルト』は一応レクイエムで
終ったのだが、時間が余ったのか、いろんなこと
を教えてくれる。

子供が6人もいたこと。次男と四男だけが成人
したこと。次男は音楽とは別の世界に進み、
ミラノの役人になったこと。

四男には13歳で、テアター・アンデア・ウイーン
に観衆を集めるだけの音楽的才能があったこと。
一時はアマデウス二世を名乗り欧州中で演奏会を
開いたこと。
生涯独身を貫いたために、モーツアルトの家系が
絶えたこと。

妻コンスタンツエは、18年後かにデンマーク
の外交官と再婚し、80才まで生きたこと。

いい勉強になりました。

その再婚相手ニーセンは、熱狂的なモーツアルト
のフアンで、コンスタンツエから聞き込んだ話を
まとめ、それがモーツアルトにからむ最初の文献
となっていること。

コンスタンツエは晩年をザルツブルグで過ごし、
夫ニーセン、アマデウス・ボルフガングの父
レオポルトと同じ墓に葬られたこと。


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【 ロジャー・ノリントン 】

2006-12-25 11:14:10 | 02 華麗な生活


BS2を見ていたら、モーツアルトイヤー
の今年、ノリントンが初めてN響を指揮する
に当っての練習風景が放映され、それが実に
面白かった。

たとえば一部の楽器奏者には、導入部だけ
強く演奏し、後は何もするなといい、実際
にその練習をさせ、

「やあ~、それで良い。後はビールでも・・」

バイオリン奏者たちに、ビブラートをつけるなと指示。

「ビブラートなしの演奏経験は」と聞く。

バイオリニストたちが首を振ると、

「じゃあ、初めてのことをやってみよう」

コンサートマスターが「ノープロブレム」と言う。

それに対して「ノープロブレム?」と聞き返し、

コンサートマスターが頷くと、

「カレは凄くいい人だ。お給料を上げてもらおう」

こんな調子で、常にユーモアとウイットに充ちた
会話がN響のメンバーたちと交わされながら、
自然とノリントン・スタイルの演奏が出来上がって
いくのです。

佐渡裕でも思ったことだが、音楽番組は、このような
練習風景がたまらなく楽しいし、面白くもある。

ノリントンを画像で見るのは初めてのことだったが、
モーツアルト第39番交響曲は素晴しかった。

演奏の最終をくるっと身体を廻して、観客の方を
向いたところで終ったのも、茶目っ気が感じられ
微笑ましかった。

子守唄にノリントン指揮の、ピアノ協奏曲第23番。
それにピアノソナタ第13番の入ったCDをかけ、
眠りにつきました。


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【 東京に残る八百八町 】

2006-12-24 19:11:00 | 02 華麗な生活


日々刻々と移り変る東京のことだから、
こんな思い出話自体を書くのが可笑しいのかも。

自分の会社を創めて数年は、社員も居らず
費用も最小限に抑えていて、乗り物にもなるべく
乗らず、ひたすら歩いて移動していた。

そんな1980年代の初めのころ、江戸川橋で
地下鉄に乗らず、歩いていたら「地蔵通り」と
表示された横丁があった。

思わず足を踏み入れて、そこが商店街と知った。

醤油が焦げる香ばしい匂いにつられ歩いて行くと、
道端に七輪を出して炭火で一枚ごと醤油を塗り
ながら裏返し、また醤油を塗って焼いている店が
あり、思わずしゃがみこんで、焼きたての一枚を
もらって食べた。

焼きたての草加煎餅が、あんなに美味い物とは
知らなかった。10枚も買い求めたのだったか。
持ち帰って食べた煎餅には、あの焼きたての風味
が失せ、いささかガッカリした。

あの界隈の人たちは、ああやって一枚単位で焼い
たばかりの煎餅の味を楽しんでいるんだろう。

あの通りは、あのままで在って欲しい。

更に奥へと歩いて行って、右側に登る階段の先に
神楽坂の通りがあった。海苔屋がやたら目に付く
通りだった。


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【 今日的タクシー事情 (9) 】

2006-12-24 18:04:04 | 12 幼き日々のこと


神戸の景気もじわじわと良くなっているらしい。

2~3年前までは、運転手の代わりなんて、
いくらでも居ると、豪語していたタクシー会社。

今こそ40人も50人も増員したいのに、
ひところは募集に押しかけたのがウソみたいに、
今では応募者がヒトケタにとどまる。

情け容赦なく振るい落としていたのが、
今じゃ、相当に危ないのも合格となる。

102台が総数で、それを一部はハイヤーに回し、
残るクルマを24時間フル操業する。

人員を4組に分けて、5時半交代組と7時半交代組
を更に昼夜に分ける。

本来ならキチンと車体点検し、引き渡すべきを
なまじ注文が増えてきたから、ロクな点検出来ぬまま
それ行けと追い出される。

それで事故が起きても、責任取るのは昼夜二人で
ペアを組む、運転手の共同責任。
車検の費用も、パンクの修理費も、みんな運転手の
給与からの差し引きとなる。

全員が新車を与えられるならまだしも、
ごく最近の増車2台は、大阪で乗り回したかなりの
お古。

相棒が下手くそなら、それだけ事故も増える。
組んだ相棒が可哀想。折半して給与から引かれる
から。

走行中にプラグが飛んだとこぼす。
点検不足が明らかだ。なのに責任は運転手が取ら
される。

人権委員会は、一度この会社を徹底調査すべきだ
ろう。

そんなこと考えていたら、怖くてこの会社のタクシー
に乗れなくなる。事実、運転オンチが増えているし、
そんなヤツほど、態度が悪いんだ 。




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【透析医療スタッフは気の毒 】

2006-12-24 17:28:49 | 02 華麗な生活


腎臓が機能しないから行う透析だから、
年末年始もゴールデンウイークも関係がない。

ボクの場合でいえば、毎週月・水・金には
必ず透析を受ける。

カレンダーの関係で、来年は元旦が月曜日。
おめでたくも何ともない。いつもの月曜と
同じこと。

患者はまだしも、スタッフが気の毒だ。
いつもと変わらず、元旦も朝早くから出勤し、
仕事に追いまくられることとなる。

患者たちは我儘だ。
我も我もと、透析日時の変更を申し出でる。
スタッフの能力には限度がある。

お前らの好き勝手な言い分を、全部聞いてたら
余裕が完全になくなって、事故にもつながり
かねない。

透析の身とわきまえて、元旦に当ったからには
文句を言わず、勝手を述べず、おとなしく
透析を受けろ。

ついでに言う。65才かそこらで、介護を受ける。
情け無いと思え。歩ける限りは介護保険での
送迎を享受するな。


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【 舐められたもんだ 】

2006-12-24 17:19:42 | 04 時事ニュース


結果は最初から分かっていた。
何も決まらず、ただ北朝鮮だけに、
アメリカを直接対話に引きずり出したという
実績と誇りを与えるに到った。

アメリカ代表のヒルは、ひたすらクリスマス
までの帰国を望んでいた。民意を失った
ブッシュの立場の変化がよく見える六ヶ国会議
だった。

拉致問題どころか、北朝鮮の核武装も、保有
だけなら良いだろうとの雰囲気が出てきて、
アメリカを含む四カ国の誰もが咎めようとは
しなかった。

日本は浮いてしまった。

後は時間との勝負だけが残っている。

独裁政権の崩壊が先か。

北朝鮮の核装備ミサイル網の完成が先かだ。

一切の経済制裁の緩和は許されない。
重油も穀物も一切を遮断し、多くの罪なき民衆を
犠牲に巻き込みつつも、下士官・兵クラスを餓え
に追いやり、独裁政権の地盤を揺るがせる以外に
道はなくなった。

韓国のノムヒョンが、支持率10%を切り、頭に
来たノムヒョンが軍を罵り始めた。こんな状態で
タダでコメをやるのは難しい。

民衆には気の毒だが、援助したところで彼らは
捨て置かれる。軍と側近だけを生き延びさせる
援助なんかやっちゃいけない。

改めて、金丸・田辺の犯した犯罪を追及したい。
その路線にあった小沢一郎や土井たか子の罪も
問おうじゃないか。

                                      パパゲーノ



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【 歴史エッセイ (35) 蒲生氏郷 】

2006-12-24 11:03:15 | 05 歴史エッセイ


すべては蒲生氏郷の急な死から始まった。

氏郷はまだ39才、病に冒されていたわけではない。
だから毒殺の噂がたった。死んだ場所も京都だし。
文禄4年(1595)。

父の賢秀は近江源氏、六角氏の重臣だったが、
信長に臣従し、その質に長男鶴千代を信長のもとに。

その怜悧さを愛した信長は、娘の冬姫と娶わせ女婿
とする。

秀吉は、家康を関八州の太守に封じたものの、その
牽制役の必要を感じ、氏郷を会津に入れて92万石
の大守とする。蒲生なら伊達への見張りにも、家康
への牽制にもなると踏んだ配置替だった。

39才で急死したから、息子がまだ育っていない。
秀行はまだ12才。これじゃ役に立たない。

そこで氏郷に匹敵する強い大名が必要となった。
秀吉は福島正則、加藤清正も候補にあげたらしい。

結局越後の上杉景勝に白羽の矢を立てた。
景勝は迷惑だったろう。紆余曲折の末に佐渡の金鉱山
の権利を残したまま、120万石に所領を増やす条件
で、上杉の会津移封が決まった。

越後には多くの地侍が残り、上杉への忠誠を保った
から、代わって越後に入った堀氏は迷惑した。

秀吉の死に先駆けて、小早川隆景が死ぬ。
一年前のことで、没年64才。
更に秀吉に遅れること一年で、前田利家が死ぬ。
60才である。

家康にとって、居られたら困る両名が死んでくれた。
前田の家督を長男の利長が継いでくれたのもラッキー
なことだった。

蒲生氏郷が近畿圏から去り、更に秀吉よりも3年も
早く死んでくれたことが、幸運に拍車をかけた。

もしも氏郷が、近江か伊勢辺りに残って居たとしたら、
家康は自由に動けなかっただろう。

家康だけじゃない。石田三成もまた、氏郷健在のもとで
兵を挙げるなんてこと、出来たはずが無い。

蒲生氏郷に毒を盛ったのは誰だ。茶屋四郎三郎
あたりが、かなり怪しい。

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【 ぐうたら健康法 】

2006-12-23 17:58:09 | 02 華麗な生活


10年前のボクに戻ってしまった。

郷ひろみのCMが流れていた。
「身体にいいこと、何かやってる?」

「やってないよう~」と答えていた。

長い間激務が続いた後だったから、
休日となったら、ただ「ぐうたら」していた。

せっかく入会したスポーツクラブも、
ただ会費を払うだけだった。

遠藤周作が「ぐうたら健康法」を説き、
ボクは真っ先に狐狸庵先生の信者になり、
五木寛之が、極力ラクをせよと書いたから
そっちの信者にもなった。

スポーツなんてまるで縁の無い年月が
虚しく去っていった。

大震災、そして腎臓が悪化して透析生活。

慣れぬ手にラケット持って、5分で倒れ15分の休み。
そんなテニスが身について、テニスコート
の滞在時間では誰にも負けぬと言われていたのに。

なんでやねん。

八百万の神様のどなたかにお願い。

来年こそ、この狭窄からくる脚の痛みを
持って行ってください。


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【 歴史エッセイ (34) 前田利家 】

2006-12-23 17:33:41 | 05 歴史エッセイ


加賀百万石の前田家ほど不思議な家は無い。

一族の歴史の中で、ただ一人、槍の又左だけ
が突出していて、後にこれといった人材が
居ない。次男の利政には、父利家譲りの気性
があったようだが、利長は情けない。

もともと利家自身、前田の四男だった。
嫡男が家を継ぐと決めたのは家康で、
それも家光と忠長の家督裁定のときだけ。
現に三男秀忠を二代目の将軍にしている。
それまでに、そんな儒教的なこだわりはない。

信長も三郎信長なのである。

四男の利家の跡を継がせるのに、なぜ優柔不断
な利長に替えて剛毅の利政が、家を継がなかったのか。

ともかくも、家康には幸いしたし、異人たちが
日本列島の近海に出没する世がきても、ぼ~っ
と太平の夢をむさぼっていたと言ったら、石川
県人に叱られるだろうか。

戊辰の役でも全く目立たない。大村益次郎が
佐賀鍋島藩の所有するアームストロング砲を、
上野の山にこもる彰義隊に向けてぶっ放す、
その大砲の場所に藩邸を提供したぐらいだろう。

結論として、前田利家だけの家で、それも利家
が若いときから秀吉と交流が深かっただけの、
そして家康とのバランス上、官位がどんどん
上がった百万石だった。


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【 歴史エッセイ (33) 武田滅亡から信長の死まで 】

2006-12-23 12:22:08 | 05 歴史エッセイ


戦国最強と謳われた武田騎馬軍団が崩壊した
長篠の合戦が行われたのが天正3年(1575)。

で、武田勝頼が次ぎ次と武将連に叛かれて、
天目山に追い詰められて自刃する。

それが天正10年3月11日。
なんとこの間7年。武田勝頼は結構長い間、
持ちこたえていたんですね。

その天正10年の6月2日未明に、本能寺の変
が起こり、織田信長が死にます。宿敵武田の滅亡
を確認してから、僅かの80日ぐらいで死んだわけ。

ハナシが幕末に飛んで、徳川幕府がその勢威を
示した「安政の大獄」が1858年で、その
幕府がもうダメとなった「大政奉還」が1867年
ですから、僅かの9年で天と地ほどの差がでたと
いう次第。

やっぱり歴史は面白い。


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【 歴史エッセイ (32) 上杉・佐竹 】

2006-12-23 11:40:18 | 05 歴史エッセイ


世の中、歴史の好きな方が多いのですね。

ボクの「歴史好き」シリーズは特にテーマも
決めずに、時代も行ったり戻ったり、実に
いい加減なものなんですが、結城秀康に焦点
を合わせた(31)になんと昨日中に300
に近いアクセスがあって、もうビックリです。

関ヶ原は西軍が勝つチャンスがいくらでもあ
ったと思い、タラ・レバを集めて20数話を
書いたのですが、まだ残ってました。

かえすがえすも上杉・佐竹の慎重さが残念で
なりません。戦わずして大幅に所領を減らさ
れるのに、何で家康を追わなかったのか。

この時、主な武将連は何才だったのかを調べ
てみました。

結城秀康26才。血気盛んな時です。本気で
弟に当る秀頼を護ると言っていたと思う。

上杉景勝は44才。分別のつく年ではあるが、
それだけに戦いの行く手も見えたことでしょう。

単純に家康に従った、福島正則は39才。もう
少し良く考えて欲しかった。その正則が嫌い
ぬいた石田三成40才、加藤清正が38才です。

イメージでは三成の方が正則・清正よりも年少
と思っていました。

西軍の実質上の現地指揮官、宇喜多秀家が27才。
共に秀吉の養子として、結城秀康とは仲が良かっ
たように思えてなりません。秀家が一才年長です。

裏切りの小早川秀秋は、まだ18才で判断力に
欠けたとしても仕方がないか。


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【 スイス列車の旅 】

2006-12-23 11:23:57 | 02 華麗な生活


これも昨夜のNHKハイビジョン。
関口宏の息子が欧州列車の旅をやっていて、
昨夜は遂にスイス編。

BSにもいろいろと見たい番組があり、
これも途中から見たのだが、なんといきなり
ミューレンの丘が映った。そこから家族経営
と聞いた登山列車でアルメントフーベルまで
行く。ここまで来る観光客は滅多にいない。
見覚えのある「すべり台」が映った。

アイガー・メンヒ・ユングフラウの三山と対面
するに、ここアルメントフーベル以上の場所を
ボクは知らない。許されるなら、ボクはこの丘
で散骨して欲しいと願っている。

関口はここから、ロートホルンに向かう。途中
のインターラーケンの映像は出ない。ブリエンツ
湖の北岸を列車が走り、SL列車で有名なロート
ホルンバーンに乗る。列車の走行距離が思った
よりも長いのだ。ハイビジョンの映像は美しく
まざままざと記憶が呼び覚まされる。

ルッツエルンで「瀕死のライオン像」を見る。
この像はフランス革命の際に最後までルイ16
世を護り、全員が戦死したスイス傭兵たちを
悼んで建てられた。当時のスイスは貧しい山国
で、兵士を輸出する哀れな国だったのである。

関口はそこからフイアーバルトシュテット湖上
のボートに乗る。ウエッギスで下船してリギに
登るのだ。映るところ映るところのすべてが、
ボクの大好きな場所ばかり。リギに初めて登っ
たのは1969年だった。

場面はいきなり列車内に変わる。アンデレマット
で氷河急行に乗り換えてサンモリッツに行くのだ。
サンモリッツの中心部は映らず、周辺の村に行く
のだが、こんな村はボクは知らない。とにかく
映像が綺麗で、かつてボクが撮ったアナログの
ハンディカムはありゃなんだったんだと思ってしまう。

居ながらにしてスイス旅行が楽しめる。いい時代
が来たもんだ。


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【 佐渡裕 】

2006-12-23 11:21:44 | 02 華麗な生活


地上波TV、特に民放が「わ~きゃ~」番組に
占領されたから、専らBSに救いを求めている。

NHKハイビジョンで、財政危機に陥って、最終
演奏になると覚悟した楽団員たちと共に、生き残
るには観衆の支持のみと、猛練習に励む佐渡裕の
姿を見て感動した。

パリにある名門の管弦楽団「ラムール」。
フランス語と英語、まれにドイツ語も混ぜて、全身
を使って指導する。相手のプライドを傷つけない
ようにと気遣いを見せながら。

時は2005年の1月。全員が最終演奏と覚悟を
決め取り組んだのが、ベートーベン第9「歓喜の歌」。

思いがけないことが起こる。最後の演奏のその前日
朗報が入る。フランス文化省が支援金の出費を決め
ラムールは生き残ることになる。当日になって、そ
の朗報を聴衆に告げた幹部が、「では我等のリーダー

佐渡にバトンタッチします」。ここで泣けました。
まさに「歓喜の歌」が会場に流れた。

佐渡裕は素晴らしい!


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