1976年になって、当時はソ連圏であった東ヨーロッパを
統括する仕事を命じられ、ウイーンに駐在した。
「音楽と森の都ウイーンか、いいなあ」と羨まれたが、
その実態たるや、毎週二回は東欧の何処かに出かける
激務であった。例えばベオグラードからワルシャワに飛ぶ
こともある。三年弱の間に92回も東欧州に出張した者は
そうは居ないと思う。
ウイーンにも日本人会があり、主な企業の支配人クラスが
日本人会の理事に任命されて、何かと行事を司る決まりが
あった。
二ヶ月に一度、大使館と企業の親睦と連絡を兼ねた昼食会が
開かれる。東レや帝人など、ボクには内地時代からの顔見知り
が何人か居った。
「キミにピッタシの役を割り当てておいた」と言われ、何だと聞けば
ウイーンの森にある、ブドウ農家が経営するワイン酒場での
飲み会の幹事だと言う。「どうだピッタシだろう」
ウイーンの森として知られるのは、森といっても丘みたいな場所で
その丘みたいな小山の山麓は、ブドウ畑で占められている。
何十軒もあるホイリゲ(ブドウ農家が開いているワイン酒場。中には
ちょっとした料理も出す)を、下見と称して何軒か見て廻り、ついでに
飲んでもみて、会場を決めた。
当日は内地からの出張者も動員して、いちはやく会場に繰り出したの
だったが、会費を集めたり、注文を出したりといった、幹事の仕事らしい
事はすべて日本人会の女子事務員がやってしまう。
「オレは幹事なのに、何もすることがない」とボヤいていたら、ワルの仲間
がやって来て言うのだ。「オイ幹事、何やってんだ。早く奥の方のお偉方の
辺りに行って、真っ先に酔っ払って場を盛り上げる、幹事の役目をやらんか」
そうだったのかとナットクして、会場の奥のテーブルに居られた、大使ご夫妻
や、IAEAの日本代表、大学関係の交換留学で見えている教授たちが居並ぶ
テーブルに行って、右手に白、左手に赤のグラスじゃなくてジョッキを持って、
「幹事さん、ご苦労さん」と言われながら、「白飲んで、赤飲んで、赤飲まないで
白飲んで」といった調子で、ホイリゲのジョッキは1リッターは入るから、忽ち
かなりのリッターが入って、気が付い時には、お偉方は皆さんお帰りに。
ホイリゲのワインは、その年の新酒で酒の質はあまり良くないから、下手に
飲みすぎるとアタマに来る、なんて忠告は事前には誰もしちゃくれていない。
頭がガンガンするだけじゃなく、腰が抜けたというか、両の足が立たない。
当時のウイーンは、道端にクルマを置いても咎められることがなかったから、
石を積み上げた塀にそって、伝い歩きの末に、ボクのクルマの場所に行ったら
見知らぬ顔の日本人女性が4人乗っている。
どうやら幹事の仕事に着く前に、目だった女の子を、あれこれと物色し、
子分どもに命じて、会場から歩いてでも行けるボク用に、会社が借りた広い
ベランダ付きのマンションで二次会の約束があったらしい。
誰がって、ボクがそう手配を命じていたらしい。
実は後二台のクルマにも、子分どもと物色した女の子らが、乗って待って
いたとは後日聞いたハナシ。
この時のボクは42歳だったが、見てくれも自意識も、悠に三十歳代半ば。
まだ青春期真っ盛りだった。
何でも、途中で花売りが来て、片端から花を買っては、恭しいウイーン王朝風
の片膝着いた姿勢で、居並ぶ大使夫人以下の令夫人たちに花を献じたんだと。
いち早く酔っ払ったボクに、そんな記憶は残っちゃいない。
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