もちろんベルリンの壁は厳然としてあった時代。
東西ドイツは、共にマルクを通貨としていたが、表向きには
1マルクの価値は同等であったが、実質は四分の一か、その
辺りの価値しかなかった。
当時ベルリンは、東独の中に取り残された感がする、陸の孤島
であった。ベルリンの上空を飛ぶことが出来た航空機は、米・英・
仏の三国のものだけで、西独のルフトハンザには、東独の上空
を飛ぶ権利が無かった。
そんな時代の東独の切手だから、何故ボクのコレクションの中に
有ったのか、自分でも記憶が定かではない。
東独の公団との商談で、何度か東ベルリンに入ったが、当時最も
便利だッたのが、東西ベルリンを越えて走る電車で、一駅乗れば
そこはもう東側。
すべての文書は、国境警備の兵に押収される。持ち込む荷物は
レントゲンで撮影される。ある時タイヤコードに使うナイロンの糸を
3キロ、見本として公団の要請により持参したのだが、例の国境
警備の兵が、ぐるぐる巻きにしたナイロン糸のレントゲン撮影でも
何物か分からない。
技術関係の文書と共に、押収すると言ったから、それは勝手だが
この文書も、ナイロンの糸見本も、無かったら公団が困る事になる。
その責任はお前が取れよと、脅しをかけたら、あちこちに電話を
掛けて相談した挙句、持ち込みOKだと返して寄越した事があった。
その頃ボクはハンブルグ駐在の一人で、東ベルリン以外の東欧
にも頻繁に出入りしていた。東ヨーロッパは押しなべて暗かった。
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