作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 陸海軍の仲の悪さはどうしようもなかった 】

2011-12-14 09:25:30 | 02 華麗な生活

帝国海軍の誇った空母はすべて太平洋に沈められたのだが、
それでも敗戦時にまだ空母は残っていた。

陸軍が兵を上陸させる時に、まず甲板上の飛行機を飛ばし、
辺りの敵を掃討して安全地帯を確保、そして兵を上陸させる。
それを揚陸と言った。残った空母は陸軍に所属する揚陸用の
空母であった。

四隻があった陸軍の空母の中の「熊野丸」という空母に
4400名の引揚者が
狭い船倉に押し込まれ、ボク等は
佐世保港に引揚げてきたのだ。
4400名という、他に例をみない多数が乗り込んだことが
災いし、
コレラ・発疹チブスなどの検疫の度に、何名かの保菌
者が発見されて、
その都度「熊野丸」は佐世保港外の大村湾
に待機させられた。

後に明らかになったことだが、船長と事務長が結託し、
引揚者用の食糧を横流ししていた。
満州を出港する間際に、まさかの用意にと積み込んだ高粱が
代わりの食糧になった。
高粱は消化が悪い。
だから胃腸がやられて下痢に悩む者が続出。
栄養失調で多くの生命が失われた。

小六の年令に達していたボクは船内を走り回る伝令を命じら
れた。
一年先輩が、櫻木小の同窓会にいて「オレも伝令だっ
た」と言われたが
顔を覚えていない。
住居だって通りが一本違うだけの、背中合わせぐらいに近い
のに何故だろう。鯨井省三という方が開いた英語塾に通った
ことまで一致している。

空母の甲板は真夏の太陽に熱しられ暑い。
すでに腎臓が悪かったボクには、伝令の激務がこたえた。
「大村湾に47日間浮いていたんや」と、その先輩が言った。

故郷の山を眼にしながら、多くの栄養失調者が船内で亡くなった。
五日ごとに、遺体収容のボートが来る。
遺体だけが先に上陸を許される。

上陸が決行される日は、朝から猛烈な雨だった。
いまのハウステンボスの一画に、上陸の地点がある。
ぬかるんだ粘土質の道に坂があり、
重いリュックを背負った引揚者が、そこでも何人か、
その坂道で力尽きて倒れた。

先日、新京櫻木小の同窓会があったが、友人の一人の
お母さんも、当日その坂道で息が絶えたお一人である。



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