おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「其礼成心中」の2000円の公演パンフレットは高いのか?

2012年08月31日 | 文楽のこと。

三谷文楽・其礼成心中の公演プログラム

  小心者の私は2000円を払って公演プログラム(いわゆるプログラムと床本の2冊セット価格)を買うべきか否か、正直、躊躇した。チケットが7800円でプログラム2000円って、合計1万円じゃん!文楽の定期公演のプログラムは600円だったかな…3倍以上の価格だよ!

  でも、結論から言うと、買って大正解! 絶対額としてのプログラム2000円はちと高いような気がしないでもないけれど…でも、それだけの価値があります!「其礼成」という作品が何を伝えたいのかというメッセージがぎっしりと詰まったプログラムであり、プログラム自体が1つの美しい作品になっているのです。

  特に、三浦しをんによる巻頭エッセイと三谷幸喜インタビューには泣けました。何度読んでも、涙が出てくる。これを読むと、どこぞの市長と公開討論するのしないのと揉めている場合ではなくて、まだまだ、文楽界がやるべきこと、できることはたくさんあるように思えるのです。

  なぜ、江戸時代に書かれた戯作が現代人の心にこれほどまでに響くのか-熱烈な文楽ファンにとっては言わずもがなことかもれしない。時代を経ても人間って本質的には変わらない。愚かだけど一途で、一所懸命で、愛おしい登場人物たちに自分を重ね合わせ、共に喜んだり、悲しんだり、心ときめかせたりする。

  でも、未体験の人にとっては、文楽は小難しくて、高尚そうで、ちょっとかび臭そうな世界に思えるのです。そういうニューカマーたちに大上段から伝統の重み、芸の厳しさを語っても、ますます敷居をまたぐ気力を削いでしまう。そうではなく、平易な言葉で文楽の世界の扉を開けてみるように誘い、中に入ってきた人には、もう一歩、さらに一歩奥へと足を進めてもらうように仕組むのが正しい戦略ではないでしょうか。

 にしては、国立劇場・国立文楽劇場のプログラムは、あまりにマンネリで、メッセージ性に乏しいです。もちろん、ほぼ1カ月おきのペースで定期公演を打ち、そのたびに公演プログラムを制作するご苦労は計り知れないものがあると拝察致します。

  でも、毎回、「なんのこっちゃ!?」と突っ込みたくなる「あらすじ」って、意味があるのでしょうか? 文楽特有の込み入った人間関係を限られたスペースで説明するのは確かに難しいとは思いますが…それにしても、観客の立場に立ってみたら、もうちょっとわかりやすい文章にしないと伝わらないって気付いてほしいです!

   そして、「これって、10年以上前ですよね?」って写真を並べた出演者紹介もどうかと思います。脂の乗った技芸員の皆様方の若かりし頃のお顔もステキですが…でも、やっぱり、出演者紹介の趣旨って、昔を懐かしむことではないですよね? 一年に一度、技芸員さんの今の姿・表情を切り取った写真に差し替えることはそれほど難しいことではないと思うし、なによりも、それ自体が貴重な記録になると思うのです。若い技芸員さんがどんなふうに成長していくのか、ベテランの方々がどんなふうに円熟していくのか、後になって振り返る楽しみもできるのではないでしょうか。

   ここは思い切って、有志のプログラム制作委員を募って、一度、観客の目線でプログラムを作ってみるぐらいのチャレンジをしてみるというのはどうでしょうか。文楽ファンはなぜ、たかだか人形劇にこれほど胸をときめかせてしまうのか―その原点に戻ることで、ファン層を広げ、もっと深みにはまらせるようなメッセージある公演プログラムがきっと作れると思うのです。もちろん、プログラム制作委員の応募があれば、エントリーしますっ!!

   話が少々、脱線致しましたが…ともかく、「其礼成心中」の公演プログラムにも、学ぶことがたくさんあると思いました。そして、三谷幸喜の文楽に対する愛情と、敬意と、脚本家・演出家としてのプロフェッショナリズムに最大限の拍手と感謝を送りたいです。


三谷文楽「其礼成心中」@パルコ劇場

2012年08月15日 | 文楽のこと。

三谷文楽・其礼成心中@パルコ劇場 2012/8/12

 鳴り物入りの三谷幸喜初演出・脚本の「文楽・其礼成心中」を観た。「それなり」にではなく、「かなり」面白かった!

 幕が下りたあとに観客席から起こった温かい拍手と、カーテンコールで登場した技芸員の皆さんの晴れ晴れとした表情とが全てを物語っていたと思う。作者と、演者と、観客の心が通じている舞台って、なんだか、とっても心が満たされる。

 まずは、三谷幸喜の才能とセンスに最大限の敬意を! 

 開演前に丁稚風の三谷幸喜人形が登場!火災や地震が発生した場合には係員の誘導に従って避難するようにとか、携帯電話は電源を切るかマナーモードにしましょうとか…注意事項を説明してくれます。通常であれば、型どおりの事務的な館内放送で済ませてしまう部分にも手抜きはない。小ネタが色々詰め込まれていて、のっけから、観客を楽しませようという意気込みが伝わってくる。

  「其礼成心中」は、大ヒットした近松の「曽根崎心中」後日談を描いた物語。主人公は曽根崎心中人気にあやかり、一儲けを狙う団子屋の夫婦。

 これからご覧になる方もいるやもしれないので、物語の詳細については書きませんが、「いかにも三谷幸喜!」的な巧みな物語構造が築きあげられており、随所に隠された仕掛けが全部連携していて、最後に、ストンと胸に落ちる。三谷幸喜の文楽に対する敬意、近松というストリーテラーに対する敬意、曽根崎心中という作品への深い理解があってこそ「其礼成心中」が成立しているのだと心に響いてくる。

 といっても、声高に賞賛したり、説教臭く解説するわけではない。劇中、何度となく、会場から笑いがまき起こる。思わずクスッだったり、トホホと笑ったり、大爆笑したり…でも、最後に大切なメッセージが伝わってくる。「せや、お客さんが喜ぶのが一番や!そういう芝居を書くのが、わしの仕事や!」という近松の短いセリフに全てが集約されているようだった。今も、私たちをこれほど楽しませてくれる近松門左衛門という稀代の戯作者への賞賛であり、三谷幸喜という劇作家の信念であり、そして文楽界への熱いエール…なのだと思う。

 演出もオリジナリティーに溢れている。文楽ではお馴染みの「床」は舞台の上にある。つまり、大夫と三味線が人形を見下ろすような位置にいるのだ。初めて文楽を観る人にも、大夫を舞台の上に配置とすることで、大夫が物語のナビゲーターであることが一目瞭然に理解できる。呂勢さん、千歳さんがノッて語っているのが伝わってきて、すんなりと物語の中に入っていける。

 セリフの中には、カップル、タイミング、パトロール、ラストなどなどカタカナ言葉が散りばめられている。でも、それが違和感なく、ちゃんと義太夫節に溶け込んでいるのです。きっと、「けしから~ん!」とお怒りになる方もいると思うのですが、こういう試みも悪くないと思います。大切なのは、お客さんを楽しませて、もう一度、劇場に足を運んでもらうこと。初めて観た文楽が難解な歴史ものだったがために、二度と文楽を観たいと思われなくなってしまうよりも、平易な言葉で文楽の面白さを知ってもらい、「次は古典を見よう」と思ってもらえたら、それでいいのです。

 舞台装置では淀川の見せ方が面白いし、すごくワクワクした。本公演でも参考になるのではないだうか。日高川を是非、この仕掛けで観てみたい!

  と、いいところを色々と挙げてみましたが、手放しで絶賛モードというわけではありません。若手中心ということもあって、主遣いはともかく、左と足がかなり綱渡り状態。人形に厚みがないというか、ペシャンとつぶれてしまっていたり、手があらぬ方向にいっていたり、足がついていけずに遅れたり、小道具がちゃんと掴めていなかったり…とハラハラする場面多数。

 国立劇場よりも広い会場なのでやむを得ないとは思いますが… 2時間ぶっ通しでマイクを通して義太夫&三味線を聴くのは、かなり、しんどい。やっぱり、生声・生三味線の素晴らしさに変わるものはないし、あと、集中力を維持するためにもせめて10分ぐらいの休憩入れてほしかった、などなど。もちろん、脚本ももっと練る余地はあると思うる。

 でも、総合すると、やっぱり面白かった。やっぱり、みて良かった。まだまだ文楽にはとてつもない可能性が残っているし、もっと多くの人に文楽の面白さを知ってもために工夫の余地はたくさんあるという希望が湧いてきた。

 橋下徹大阪市長が打ち出した文楽協会に対する補助金カット問題で、三谷文楽には予想以上の注目が集まったようだけれど… 橋下問題と直結させなくとも、この舞台、文楽界にとっては価値あるチャレンジだったのではないかと思います。

  こういう公演を主催できるパルコ劇場ってスゴイ! 国立劇場にも、この気概が欲しいなぁ。伝統を守るのももちろん大切。だけど、芸能は観る人がいてこそ成り立つもの。伝統を守るためには、新しいファン層を獲得していかなければならないし、そのためには、入口の敷居を低くしておくのも1つのやり方。一度足を踏み入れた人を、どんどん深みに引きずり込んで、2度と出られないようにすればいいだけのことです。新しいチャレンジをすることは伝統をないがしろにすることではないし、其礼成の近松さんか言っている通り、「お客さんが喜ぶのが一番や!」なのです。

  この公演がパルコ劇場だけで終わってしまうのはもったいない。国立文楽劇場は三顧の礼で三谷文楽を招待すればいいのに。きっと、大阪人は東京の人よりもっと大笑いするハズ。私が観たいのは、「其礼成」と「曽根崎」の二本立て。曽根崎で大笑いしたあとに、簑助師匠のお初にうっとりできたら、どんなに幸せだろう!敷居を低く「其礼成」で集客し、「曽根崎」で深みにはまらせる―戦略としても悪くないと思う。

  近松ほど歴史に残るかどうかは定かではありませんが、三谷幸喜と言えば、今の時代の指折りの劇作家であることは疑いの余地のないこと。誰でも、三谷ドラマや三谷映画の1本や2本は観たことがあるほどの有名人。文楽界として、これを利用しない手はないでしょう。もっとベテランの技芸員の人たちが出てもよかったのに。そうすれば、「其礼成」が文楽初体験の人たちに、もっと美しい左手、もっと人間らしい足を見せられたのに…。

  公演の最後、カーテンコールに応えて、技芸員の皆さんと人形ちゃんが出てきてくれるのが嬉しい。お人形ちゃんたちが一人一人ご挨拶のお辞儀をした後に、大夫、三味線に手を向け、そこで、客席から再び拍手が起こる。通常の公演では、無表情に舞台を去っていく三味線さんが、満面の笑みで観客席に向けて手を振ってくれる。

  相生座や内子座の公演でもカーテンコールがあったが、本公演では絶対にやらない。なぜだろう? ファンなんてバカなものなのです。何十度舞台を観ても、やっぱり、人形に手を振ってもらうと嬉しいし、劇中ではクールな技芸員さんたちが芝居が終わった後の笑顔を見せて下さるのは、「ああ、いい芝居だった」と共に感じあえているような気分になれる。本公演ではカーテンコールはやらないなん慣例は堂々とやぶってしまえばいいのに。「お客さんが喜ぶのが一番や!」ただそれだけです。

 ということで、観劇の感想はだいたいこんな感じ。

 でも、もうちょっと言いたいことがあるので、また、それは数日中にアップします。

 


三谷文楽「其礼成心中」観てきました!

2012年08月13日 | あ行の作家

8月12日、三谷幸喜初演出&脚本の「其礼成心中」@パルコ劇場を観てきました!

笑いいっぱいで面白かった~! 近く、感想アップします♪

 


おしまいの噺」 美濃部美津子

2012年06月15日 | ま行の作家

「おしまいの噺」 美濃部美津子著  アスペクト 

 それなりに面白いと言えば面白いのかもしれない。しかし、それは、志ん朝関連本を一冊も読んでいない人にとってである。

 志ん朝による「びんぼう自慢」を読んだ後では、同じ話の焼き直しというか… 「びんぼう自慢」ダウングレード版でしかないような。定価で買っていたらもっと口汚く罵っていたかもしれませんが…、ブックオフの105円コーナーでゲットしたものなので、それほど不快感は無いです。


「静かな夜」 佐川光晴

2012年04月18日 | さ行の作家

「静かな夜」 佐川光晴著 左右社  

 過去に文芸誌に発表された作品集。

 すごくいい。コトバがジワリ心に沁みていく。

 表題作は芥川賞落選5回を誇る(?)作家が最初に芥川賞候補になった作品「銀色の翼」の続編として書いた作品。最近、「おれのおばさん」(集英社)シリーズが尾木ママや中江有里さんから推奨されて少々注目されているけれど…作品としての熟度は「おれのおばさん」シリーズとは比べものにならない。余分なモノをそぎ落として、選び抜かれた言葉で綴られた物語。暗く重いストーリーなのに、すごく美しくて、清々しい。真っ白な表紙が美しい素晴らしい装幀ですが、それは、コンテンツを象徴しているようでした。

  「静かな夜」は長男と夫を相次いで亡くし、幼い娘2人と生きていく30代の女性・ゆかりに焦点を当てながら、人はどうやって「悲しみ」や「不条理」と向き合い、乗り越えるのかという普遍的なテーマを突き詰めていく。

  結局、人間って弱い。逃げるか、他人と比較優位になることで自分を納得させるか…。

 でも、弱くても、情けなくても、格好悪くても、生きていれば、新しい局面に出逢える。強くなくてもいい、生きていればいい―というメッセージが暖かい。そして、このメッセージこそが、人がフィクションを求める理由なのだと思う。

  ところで、今まで読んだ佐川光晴作品は、本人がモデルとなっているとしか思えないような愚直な男性が主人公で、勝手に、そういう作品しか書けないのかと誤解していましたが、「静かな夜」は女性主人公。これが、なんとも言えずによかった。主人公と筆者に適度な距離感があって、心の動きにリアリティがありました。これまでに読んだ(まぁ、そんなに大して読んでいませんが)佐川作品ではナンバーワン。


「晴天の迷いクジラ」 窪美澄

2012年04月07日 | か行の作家

「晴天の迷いクジラ」 窪美澄著 新潮社 

 本屋大賞で2位だった「ふがいない僕は空を見た」に続く、著者第2作目。(個人的には、大賞だった「謎解きはディナーのあとで」より、断然、よかった!)

 すごくいい。

文句なくスカッと素晴らしい作品―というわけではない。文章もいまひとつこなれていないような印象だ。決して楽しいストーリーでもない。それでも、読み終わった後に、ずっしりとした読み応えと、長い長いトンネルの先に陽の光が見えた時のようなホッとした気持ちがなんとも心地よい。

  破綻に追い込まれた東京の小さなウェブデザイン会社の女社長と、一番若手の社員。「もう生きてるのもかったるい」というところまで追い詰められた2人が、最後の力を振り絞って見に行ったのが、湾に迷い込んできてしまったクジラ。

 近隣の住民たちは、あの手この手で、なんとかクジラを湾の外に出してやろうとする。でも、結局のところ、クジラが自ら泳ぎ出さなければ、クジラは湾から出られずに死んでしまう。

 あまりにも直球すぎる比喩なのだけれど、そのストレートさが却って心に響く。迷い込んできたクジラに、迷える人たちを投影している作者自身が、迷い、悩みながらストーリーを展開させているからこそ、最後に、光が見えてくる。生きているのはかったるい、それでも、生きていかなきゃという当たり前のメッセージがしっかりと伝わる作品。

 

 


「鉄のしぶきがはねる」 まはら三桃

2012年04月07日 | ま行の作家

「鉄のしぶきがはねる」 まはら三桃著 講談社  

  北九州にある工業高校が舞台。機械科1年生唯一の女子・三郷心(みさと・しん)が、先生の差し金で「ものづくり研究部」に助っ人として引きずり込まれ、「ものづくり甲子園」とも呼ばれる高校生技能五輪を目指して奮闘する物語。

  物語の構造としては、極めて、ノーマル。もちろん、野球や、サッカー、テニスなどで大会優勝を目指す青春もののとはひと味違うけれど…でも、逆に、今さら、野球部の青春ドラマを描くのはハードルが高い。一歩間違えれば、陳腐過ぎてしまう。故に、「碁」とか「小倉百人一首」とか、ひとひねりした青春マンガが流行ったりしているわけで、「舞台設定はアブノーマル、ストラクチャーはノーマル」というトレンドにバッチリはまっているのかもしれない。ただ、そういう設定を狙って作り込んだわけではなく、「鉄」とか「モノ作り」に対する作者の暖かい視線が感じられて、好感が持てた。

  ただ、主人公の「心=しん」という名前が、どうもひっかかった。意味あって名付けられた名前なのだけれど、普通名詞である「こころ」という意味でも「心」が頻出するので、「普通名詞のつもりで読んでいたら主人公の名前だった!」ということが何度かあった。作者のキャラクターへの思い入れ、意味づけと、読者にとっての読みやすさのバランスって難しい。

  ちなみに、この作品は岡山県が主催する「坪田譲治文学賞」の受賞作なのだけれど、その選評が、なんとも時代を感じさせる。選者のお歴々は「工業」という言葉に感銘を受け、「現代のプロレタリア文学だ!」みたいなことを言っているのだけれど、何がプロレタリアなのか?? 赤貧でもないし、イデオロギーを語っているわけでもないし。純粋に、鉄の魅力、技術を磨くことの悦び、勝負の興奮を描いているのに、プロレタリアとかいう時代がかった意味合いを押しつける必要はあったのだろうか。文学の世界も、名実ともに世代が入れ替わるにはもうちょっと時間が掛かりそうな気がしました。


夏天の虹」 高田郁

2012年04月07日 | た行の作家

「夏天の虹」 高田郁著 ハルキ文庫 

  江戸の女料理人・澪を主人公とする「澪つくし」料理帖シリーズの7冊目。途中、「マンネリ化する前にさっさと完結した方がいいのに…」と思った時期もありましたが… 今や、大いなるマンネリが愛すべき作風(芸風)として定着。時代小説の「渡鬼」的存在です(スミマセン、「渡鬼」1度も見たことありませんが…)

  町人と武家という身分の壁を越え、澪はずっと思い続けていた小松原さまと結ばれることになった…はずだったのに。「料理は私が生きるよすが。どうあっても手放すことはできない」と悩む。

  今と違って、「仕事と家庭を両立します」などということはありえない時代。とはいえ…なんで、せっかく掴みかけた幸せを自ら放棄しようとするの? すっかり「親戚のおばちゃん」モードになって、辛い道を選ぼうとする澪に「いいから、さっさと好きな人のところにお嫁に行きなさ~い!」とイライラハラハラするも、時代小説的渡鬼にそんな簡単にハッピーエンドはやってこない。

  この巻では、澪に次々と試練が課され切なくなってしまうけれど…最後の救いは、「澪つくし」シリーズのテーマである「料理は人を幸せにする」ということ。澪が奉公する「つるの家」にやってくる客たちの、美味しそうで、楽しそうな食べっぷりは読み手まで幸せな気持ちにしてくれる。

  ちなみに舞台は、今の神田から飯田橋あたり。昨日、夜桜見物の帰り道、九段下から飯田橋に向かって歩いていたら「台所町跡」という石碑に遭遇しました。「澪つくし」シリーズにもしばしば登場する地名で、なぜか、懐かしい気持ちになりました。


「牡丹酒」 山本一力

2012年03月13日 | や行の作家

「牡丹酒 深川黄表紙掛取り帖(二)」 山本一力著 講談社文庫 

 実に気持ちの良い物語である。土佐の酒・司牡丹を江戸の町で販売するため、深川の若者4人組が徒歩と船の旅で遙か土佐まで旅する。首尾良く蔵元との交渉をまとめ、江戸に戻って司牡丹のお披露目イベントをしかけるまで。 

 登場人物は、気持ちの良い人物ばかりだ。たまに意地悪なヤツや、心がささくれている人も出てくるが、主人公たちの人柄の良さに触れて、嫌なヤツも、やがては良い人になっていく。しかし、私には、あまりに気持ちの良い物語であることが、軽いストレスだった。

 だいたい、いい人しか出てこないってことが、物語として、かなり不自然な気がする。江戸時代の船旅ということで、もちろん、海が荒れて苦労することもあるのだけれど、長旅の苦労はその程度。交渉ごとも、紹介状が功を奏したり、4人組の人柄の良さゆえに大概スムーズに進む。そもそも、4人(男3、女1)の旅の後ろ盾になっているのが、江戸幕府の要人・柳沢吉保と豪商・紀文。経済的にも恵まれた状態で、宿泊する宿はかなり立派目なところだし、交渉先の奥さまに高価な珊瑚細工の土産ものを買ったりなんかして、やることがスマートだ。

 せっかく、江戸から土佐まで旅しているというのに、アドベンチャーストーリーとしてのワクワクドキドキハラハラはほとんどない。これが現実世界であれば「いい人ばかりでよかったね~。長旅に大きなトラブルもなくてよかったよかった」なのだけど、物語には多少の盛り上がりがないと、なんか、拍子抜けしてしまう。

 だいたい、江戸時代に大阪から土佐まで独身の男3人、女1人で船旅なんてことが可能だったのだろうか―と意地悪な疑問が頭をもたげてくる。現代のフェリーには、客室もトイレもついているけれど、江戸時代の船には、そんなことは望むべくもないだろう。そんな環境で、乗り組み員も全員男、旅仲間も全員男の中の紅一点で旅するのって、ほとんどありえないことのように思えます。

 なんとなく、いい話すぎて嘘っぽい、そんな印象の物語でした。

 で、この物語に出てくる「司牡丹」という土佐の酒、虚構かとおもいきや、実在していました。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の中では、竜馬が愛した酒として登場するらしい(司牡丹酒造のウェブサイト情報であります。私は「竜馬がゆく」未読)。でも、「司牡丹」とネーミングされたのは、竜馬没後なんだそうです。

 

 


ミュージカル「キャバレー」 @東京国際フォーラム

2012年03月12日 | Weblog

 土曜日、知人から「1枚チケットが浮いてしまったので、行きませんか?」と、突然の誘い。ほとんど予備知識もないまま、開演3時間前に「行きます!」と返事して、勢いで行ってしまいました。日頃、ナマ舞台と言えば文楽しか観ないのですが、なぜか、「行くべし!」という神の声が聞こえた(ような気がする)。

 舞台は1929年のベルリン。キャバレー「キット・カット・クラブ」の歌姫サリーと、下宿屋の女主人シュナイダーという対照的な二人の恋を軸にして、「人生とは何か」「生きるとは何か」という根源的なテーマに迫る。

 歌姫サリーは藤原紀香。キャバレーの司会者兼物語全体のナビゲーターに元・光GENJIの諸星和己。この二人が集客の目玉なんだろうけれど、いやいや、単なる人寄せパンダではなく、超一流のエンターテイナーでした。              

 紀香ちゃん、こんなに歌上手かったのか…。少女と娼婦の両面を併せ持ち、自暴自棄になりながら、最後まで生きる執念を失わない瀬戸際の強さを完璧に演じていました。紀香主演ドラマはコケると言われているけれど、なるほど、この人のスケールはテレビの枠に収まり切らないんだと納得。最後に歌うシーンなんて、堂々としていて格好良かった。そして、涙が出た。 

 光GENJIに何の興味もなかったので、諸星くんの歌や演技をちゃんと観るのは初めてでしたが、ホンモノのプロフェッショナルです。歌も踊りも素晴らしい。物語のナビゲーターとして、観客の心を巧みに惹き付け、もてあそび、思い切り楽しませてくれました。サービス演出のローラースケートで踊る場面は絶品!

  キャバレーのショーのシーンは、ミュージカルの観客であることを忘れて、ショーパブの中に迷い込んでしまったような気分。淫らで、退廃的で、でも、何か楽し~い!

  と、ちょっとエロチックに弾けたミュージカルのようですが…ただ、楽しいだけじゃないのです。ラストシーンはあまりにもシュールで、最後にずしりと心に重石を置かれたような気分になりました。1929年のベルリンが舞台―つまり、ナチス台頭間近の時期を描いているのですが、過去の歴史物語としてではなく、今の私たちに「で、お前はどうなんだ?」「日本はどうなんだ?」と問いかけてくるような巧妙な脚本です。

  でも、何よりも、「裏主役」である下宿屋の女主人シュナイダーと果物屋を経営するシュルツの熟年カップルを演じた杜けあきと木場勝己が圧倒的に素晴らしかった。演技力も、歌唱力もずば抜けていて、この二人が出てくると、芝居は締まるけれど、妙な安心感が出てゆったりした気持ちになります。物語の主役は文句なしに紀香ちゃんのサリーなのです。でも、杜けあきという裏主役がいてこそ紀香ちゃんの美しさが輝き、奔放には生きられないシュナイダーがいてこそ、サリーの生き方が魅力的に見えてくる。

 脚本も、配役も考え抜いて作り込まれているのだと思います。でも、観ている間は、そんなことを感じさせず、キャバレーというanother worldに迷い込んでひとときの夢を思い切り楽しんだ。「エンターテインメントの力」を強く強く感じる作品でした。