郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治6年政変と征韓論 明治4年

2009年12月26日 | 明治六年政変
 唐突ですが、幕末維新の天皇と憲法のはざま、および半神ではない、人としての天皇をの続きです。

 えーと、そのー、です。
 私がそもそもこのブログをはじめましたのは、モンブラン伯爵に関する情報が欲しかったがゆえ、なのですが、なにやらモンブランから薩摩藩留学生にいきまして、なぜか桐野利秋にも話が及ぶようになりまして、まあ、いずれは、明治6年政変と征韓論にも触れるときがくるとは思っていました。
 しかし、前記のものは昔調べたことをもとに書いたのですが、モンブランを調べるうちに、明治初年度の兵制の問題とか、いろいろと考えるべきことが増えまして、まだまだ、という感じでした。
 それが今回、佐賀の乱に間してtomoeさまとメールのやりとりをしますうちに、あれ? と思うことがありまして、まだ思いつきにすぎないのですが、あるいは征韓論と征台論の核になっていたのは、外務省と時のアメリカ公使デ・ロングであり、したがってこれは、条約改正にもけっこうなかかわりがあることなのではないのか、ということから、とりあえず明治6年政変のおさらいをしてみよう、という気になったような次第です。

(追記)あー、あー、あー!!! なんつー記憶力、なんでしょう。大隈重信の「大隈伯昔日譚」なんですが、これは私、大昔に大正年間だったかに出されたものを全文コピーし、子細に読んだはずなんですね。ところが、偶然なんですが、近デジに明治28年版初版本が出ていることに気づきまして、征韓論政変の部分は、ちゃんとこれに含まれているんです!!! 私、うかつにもこれのもとが明治26年からの報知新聞連載であったことも、初版には副島種臣の序文があることも、これまで知りませんで、なんとなく「かなり後世のもの」というイメージがあったのですが、これ、板垣退助の回顧と並んで、政変渦中にいた関係者の最初の回顧、ということになりますわね。20年しかたっていませんし。でー、ちゃんと書いてあるじゃないですかっ!!! 征韓論の中心は外務省で、征台だけではなく征韓にも、外国公使のそそのかし(後押しということもできますわね)があったのだと。デ・ロングを中心にまわっていた、というのは、私の妄想でもなんでもなく、大隈の話が私の潜在意識に沈んでいたんです!!! 副島も生きていて序文を書いているのですから、かなり信憑性のある回顧録です。tomoeさまのおかげで、デ・ロングが在日公使を辞めさせられた時期も特定できましたし、これからじっくり話を進めていくつもりです。

で、まず、主に下記の本ほか数冊の参考書を元に、事実関係の時系列を復習するための年譜を作ってみます。年譜の間にはさまれるコメントは、私の考えであり、参考書は参考にはしますが、そのままのものではありません。

台湾出兵―大日本帝国の開幕劇 (中公新書)
毛利 敏彦
中央公論社

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明治4年(1871年)
5月    アメリカのアジア艦隊、ジャーマン号事件の補償と開国を求めて、長崎より朝鮮に向かう(辛未洋擾)
7月14日 廃藩置県
7月18日 文部省発足。江藤信平、初代文部大輔(卿は欠員)に就任して、文教の基本路線を定める。
7月28日 江藤、文部大輔を大木喬任に譲り、左院へ移る。後、副議長。
7月29日 日清修好条規が結ばれる。日本が初めて結んだ対等条約。ただし、批准は遅れる。
9月    対馬(厳原県)、伊万里県(佐賀県)に統合される。
10月   宮古島から年貢を運んでいた琉球の船が台風で台湾に漂着。54名が殺害され、12名が逃げる。
11月 4日 副島種臣、岩倉具視の後を継ぎ、外務卿となる。
11月12日 岩倉使節団アメリカへ出発。アメリカ公使デ・ロング随行。


廃藩置県は、多くの問題を抱えて決行されました。
まずは士族問題です。明治2年、すでに版籍奉還は行われ、中央集権化は進もうとしておりましたが、藩主がそのまま知事に横滑りしておりましたし、藩庁がそのまま地方自治を行い、藩士や領民の帰属意識も大方そのままでした。これは、戊辰戦争で戦火が起こらず、解体された藩もなかった西日本において強くあらわれた傾向です。
また同じ西日本においても、勝者となった薩長土肥と他藩では、状況がちがいました。薩長土肥の下級藩士(主に、ですが)の一部は、朝廷の直臣となって、藩主や門閥をさしおき、中央で行政を担うようになりましたと同時に、その地元では藩政改革が行われ、名目上は藩主が知事であったにもかかわらず、藩政の実権は、下級藩士が握るようになっていました。
一方、薩長土肥以外の西日本の藩では、一般には藩主と藩士や領民の関係は、それほどの激変は見せず、多くの領民(藩士ではなく)にとっては、慣れ親しんだ制度の方が暮らしやすいですから、廃藩置県で藩主(知事)が東京住まいとなり、藩政と関係がなくなることに抵抗を感じ、お殿様お引き留め運動が各地(西日本)で起こります。わが松山藩でも起こっております。

島津久光は藩主(知事)ではありませんから、東京住まいの必要はなかったのですが、この事態に激怒。西郷、大久保への不満を募らせたといわれます。

そして、藩が消滅した、ということは、琉球、朝鮮の問題が、クローズアップされてくる、ということでもありました。
まず、琉球です。琉球はそもそも薩摩藩の支配下にあり、徳川幕府への朝貢は、薩摩を通じて行われておりました。そして嘉永6年(1854年)、日米修好条約が結ばれた直後、薩摩藩の指導で別個に琉米修好条約を結んでおります。同時にオランダ、フランスとも条約を結びましたし、また琉球は、清国の朝貢国でもありましたので、ただちに日本の領土だとは主張しづらい状況でした。ですから、とりあえず琉球は鹿児島に属するとしていたわけなのですが、藩がなくなるとなれば、それも改めるしかありません。
廃藩置県以降の状況は、菊川正明氏の以下の論文に詳しく、明治5年以降の年譜では、この論文も参考にさせていただきます。

置県前後における沖縄統治機構の創設

で、朝鮮です。
朝鮮も琉球と同じく清の朝貢国です。実質からいえば、清とのつながりは琉球よりはるかに強いのですが、まあ、それは置いておきます。
江戸時代の朝鮮通信使は、朝鮮側の認識では、決して徳川幕府への朝貢ではありませんでしたし、幕府もそうではないことを承知していたのですが、日本において一般には、琉球使節と並べて見られ、朝貢と受け止められておりました。
この藩政時代の朝鮮との外交関係を、一手に担っていたのが対馬藩です。
対馬藩は、釜山に草梁倭館という10万坪にもおよぶ居留地を借り受け、日本人町、というよりも対馬人町を作ってもおりました。対馬藩の役人や商人が住んでいたわけです。

草梁倭館

この居留地、朝鮮にしてみれば、対馬藩に貸しているのであって、新政府が支配する日本に貸しているわけではありません。朝鮮は、明治新政府を認めていなかったんです。
対馬藩が消滅してしまった以上、朝鮮側からは、草梁倭館を維持する理由は無くなります。しかし、明治新政府としては、当然、日本人居留地として確保しておきたいところです。

廃藩置県の直前に起こった辛未洋擾とは、アメリカの清国公使フレドリック・ロー が、慶応2年(1866)に起こったシャーマン号事件の補償と開国を求めて、長崎で艦隊を編制し、江華島に陸戦隊を上陸させた事件です。戦闘においては、アメリカ側優勢であったともいわれますが、結局、朝鮮側は交渉に応じず、アメリカは目的を遂げることができませんでした。艦隊編制は長崎で行われているわけですし、当然、駐日アメリカ公使デ・ロングも協力したものと思われます。
この事件で、朝鮮側は多数の戦死者を出していますし、攘夷意識は極度に高まり、明治新政府への不審の念も高まっていました。
ここらへんの状況は、以下の吉野誠氏の論文に詳しく書かれていますので、関心がおありの方はご覧下さい。

明治初期における外務省の朝鮮政策


ただ、ですね。上の論文のように征韓論を思想的に語ってしまいますと、朝鮮問題は、欧米諸国も注目し、それぞれに意見を持った外交の問題であるにもかかわらず、です。まるで日朝二国間で話が完結しうるような変なことになりまして、当時の現実の外交関係から遊離しますので、とりあえず、事実関係のみを見ることをお勧めします。
なお、この難しい時期に一時ですが、朝鮮外交を担ってきた対馬藩士も、草梁倭館の住人たちも、佐賀藩と同じ伊万里県人となっていたことを、確認しておきたいと思います。これは、対馬藩の飛び地が、佐賀藩にあったためだと思われます。

そして、さまざまな問題を留守政府に預け、まずはアメリカへ出向いて行った岩倉使節団は、駐日アメリカ公使デ・ロングに先導されていたことも、です。

次回、明治5年に続きます。


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