郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき2

2010年09月05日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき1の続きです。

 森有礼は、奇矯な人です。
 えー、私が勝手に言ってるんじゃありません。徳富蘇峰が言っているんです。「若き森有礼―東と西の狭間で」より、孫引きです。
「概して謂へは君は偏理家(シオリストTheorist)なり。奇矯(エキセントリックeccentric)なる偏理家なり」

 森有礼は過激な人です。
 えー、これも私が勝手に言っているんじゃありません。有礼を直に知っていた林董が言っているんです。
 「後は昔の記他―林董回顧録」 (ワイド版東洋文庫 (173))(近デジにあったと思います)に、森有礼が暗殺された話がありまして、そこに以下のようにあります。
 「森子は予の能く知る人なり。弊を撓め俗を正すに過激の手段を取りて憚からざる性質なり」

 森有礼が暗殺された理由は、暗殺者の西野文太郎が「有礼が伊勢参宮に際して杖で陣幕をあげたことが不敬だ」と思ったから、というのが当時の定説になっていたらしいんですが、林董は、これは有礼が故意にやったことではなく、うっかりやってしまったことだった、というんですね。ただ、普段から有礼は、「自分がまちがっていると思う俗風を正すときには過激な行動に出てやりすぎるので、こういう目にあった」ということなんです。
 このやりすぎの例としてあがっていますのが、林董が琴平宮の宮司さんから聞いた話です。
 有礼が琴平宮に参ったとき、宮司さんの家で昼食を出したら、それを食べずに「牛肉を所望」した、というんです。宮司さんが「ここにはありません」というと、「持ってきた肉が旅館にあるから取り寄せればいい」と、あくまで有礼は牛肉にこだわります。で、宮司さんが、「境内で獣肉を食べるのは禁制です」と断ると、「魚や卵はここに並んでいるのに獣肉を嫌うのは理屈にあわんぞ」と決めつけて、勝手に旅館から自分の牛肉をとりよせて食べた、そうなんですね。
 これは、林董にいわせると故意なんだそうです。理屈にあわないことを嫌ってやめさせようと、わざとやったのだというんです。
 いや、嘘かほんとうか知りませんが、文部大臣がやることにはさからえませんし、ほんとうだとすれば、やられた方には、権力者の嫌がらせとしか受け取れず、実際これでは、奇人、変人の類ですわね。
 えーと、こういった有礼の性格は、どうも、父親ではなく母親に似たもののようです。

 森家は、「小番」格の城下士でした。イギリスVSフランス 薩長兵制論争に表を載せていますが、「小番」というのは、薩摩藩では数少ない中級武士です。小姓与の西郷、大久保よりも家格は上。森家も代々、藩主の間近に仕えたといわれます。
 父親の有恕(ありひろ)は、温厚な人だったそうです。和歌、詩文にすぐれ、黒田清綱(洋画家・黒田清輝の叔父で養父)や税所敦子と唱和した歌草が残っているそうでして、八田知紀じいさまに、習っていたりもしそうです。晩年に歌集「漫吟百首」を私刊してもいます。 趣味人です。ただ、「仙骨の風があった」そうで、どことなく世離れはしていたようです。
 母親の里は、女丈夫でした。熱情的で、厳粛で、意志強固。男勝りでエキセントリック。毎朝、いくつもの神様を、熱心に祀っていたんだそうです。
 森夫妻は、五人の男子に恵まれまして、有礼は末っ子。母親のお気に入りの息子でした。

 長兄・喜藤太は、妻・広(旧姓相良)と息子有祐を残して、元治元年(1864)8月8日、27歳、禁門の変の直前に警備のために上京して、トラブルにまきこまれて死去したみたいです。遺児の有祐(文久2年生)は、背の高い、非常な美青年に成長したことが、下の本に見えます。

勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉 (中公文庫)
クララ ホイットニー
中央公論社


 15歳のアメリカから来た少女、クララ・ホイットニーは、同年代の有祐を、「「王子さまみたい!」「これほど洗練されて優雅な子はほかに日本にはいない!」「美の典型!」」と絶賛しているんですが、それは常と有礼の結婚後の話ですし、後で詳しく述べることにします。

 次男・喜八郎は、江戸の昌平黌で学んだ秀才で、青山家の養子となりましたが文久3年(1963)、病没しました。
 三男は12歳で早世。
 そして四男・横山安武です。天保14年(1843)生まれ。有礼より四つ年上です。森有礼全集に写真がありますが、明治になってからのものなんでしょう。総髪が自然な感じで、聡明そうな整った顔立ちです。
 安武は、これまた俊才の評判高く、望まれて、藩の儒学者・横山家の養子となります。この人は、明治時代には、かなり高名でした。森有礼の兄としてではなく、本人が明治3年7月26日、集議院の門に建白書をかかげて、割腹自殺して果てたんです。主君を諫めて、ではなく、政府を諫めての諫死です。
 近デジで「横山安武」で検索をかけますと、8冊出てきまして、その建白書の内容は明治10年発行の「維新奏議集」に載っています。簡単にまとめますと「新政府の役人は、下々が飢えているにもかまわず、虚飾を求め、自分個人の利益や名誉ばかりを求めている。ふさわしい人を官職につけるのではなく、縁故がはびこっている。朝令暮改で、法制もも定まらず、私怨で罪に陥れられる上、諸外国とのつきあいでも問題ばかり起こしている。このままでは国が滅びる」といったところでしょうか。
 大久保利通は日記に「(安武の)朝廷への忠義の志を感じるべきだ」と書いて、この政府批判を肯定していますし、西郷隆盛は碑文を書いて顕彰しました。西郷の碑文の文面は安武の小伝にもなっているんですが、近デジ「西郷南州翁百話」で見ることができます。
 えー、細かいことは省きますが、安武兄さんもエキセントリックですよねえ。憂国の情に燃えたとはいえ、後には、妻と幼い男の子が二人(次男にいたっては、この前年に生まれたばかりです)、養子先の母と伯母が残されたんですから。
 横山一家は、有礼と常の結婚時は鹿児島にいましたが、西南戦争の後、有礼が永田町の新居へ引き取り、以降、めんどうをみました。で、甥が戸主になっているこの横山家の籍に、いっとき、青い目と噂された有礼と常の長女・安は、入っていたわけです。

 末っ子の有礼は、弘化4年(1847)の生まれです。安政5年(1858)、11歳にして藩校造士館入校。長兄喜藤太に漢学を教わり、13歳のころ、林子平の「海国兵談」を読んで海外事情を知る必要を感じ、三つ年上の上野景範に英語を学びます。元治元年(1864)、洋学教育のための藩校・開成所が開設されると同時に、そちらへ移り、数少ない英学専修生となって、翌元治2年、18歳にして、選ばれて密航イギリス留学生となります。
 留学の話は、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1をご覧下さい。つけ加えますと、ですね。留学生のほとんどは20代です。10代は4人しかいませんで、町田申四郎、清蔵兄弟と、森有礼、長沢鼎です。清蔵くん14歳、長沢13歳の二人はとびぬけて幼く、有礼と申四郎が18歳で同い年なんです。この若さで、清蔵くんが後年まで、有礼を留学生の中心的な存在として記憶していたのは、よほどにアクが強くて押しの強い性格だったのだとしか、私には思えません。
 清蔵くんが帰国した後も有礼はイギリスに残っていますが、以降の話は、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上にまとめております。

 えーと、また文字数が多いそうでして、広瀬常と森有礼 美女ありき3に続きます。
 

 人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 広瀬常と森有礼 美女ありき1 | トップ | 広瀬常と森有礼 美女ありき3 »

コメントを投稿

森有礼夫人・広瀬常」カテゴリの最新記事