郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき1

2010年09月03日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼の結婚について、森有礼夫人・広瀬常の謎 前編中編後編上後編下の内容を踏まえた上で、妄想をめぐらせてみたいと思います。
 まあ、あれです。一応、妄想といえども、まったく根拠がない、というほどではないんですが、歴史上の人物の男女の仲なんて、思い込みと妄想なしには、書きようがないですし。
 
 最初は、ちょっとまじめに、広瀬常の出身から。
 えーと、幕臣の家の出てあったことは確かなんですが、よくいわれるように旗本であったのか疑問がわきまして、近くの図書館で、簡単に見られる本を調べてみました。

 まずは、「寛政重修諸家譜 」です。
 これ、18世紀末までの幕臣の系図が載っている本なんですが、ごく下っ端は載ってないんです。
 で、これに載っている広瀬家は、一家だけです。初代が、延宝8年師走(1681年1月)に召し抱えられ、徒歩目付。4代目から名前に「吉」がつくようになりまして、勘定吟味方改役。小禄ながら旗本です。
 5代目の広瀬吉利(吉之丞)も勘定吟味方改役で、この人は、「江戸幕府諸藩人名総鑑 文化武鑑索引 下」に出てきます。評定所留役勘定です。
 この家の後継者は、安政3年(1857)の東都青山絵図(goo古地図 江戸切絵図23 東都青山)で、青山善光寺門前の百人町に見える「広瀬吉平」じゃないかと思います。善光寺は現存していまして、現在でいうならば地下鉄表参道駅付近です。
 ただ、これ、原宿村の百人組書き割りじゃないかと思いまして、だとすれば旗本が住むにはおかしいのではと、ちょっと???なんですが、伊賀同心は甲賀、根来同心が譜代だったのとちがって一代限り、という話もありますし、組頭は旗本なんでしょうし、すでに小禄の旗本屋敷になっていたのか、なんぞとあれこれ思いまどい、甲賀同心百人組や与力衆は書き割ってないのにここだけ百人組同心が書き割り???と思ってみたり、私、幕末の幕臣の職制も切絵図の見方も、さっぱりわかっておりません。詳しい方がおられましたら、どうぞご教授のほどを。
 
 ところで、「文化武鑑人名総覧」には、文化年間(1804~1817)の幕臣の名前がすべて出てくるみたいなんですが、広瀬吉利も含めて、広瀬姓は10名います。なんで「寛政重修諸家譜 」の方に出てこないのかと思いましたら、広瀬吉利をのぞく残りの9人は、みんな坊主、ほとんどが表坊主なんですね。
 表坊主は、江戸城で、大名や高級役人の給仕をする役職で、坊主頭です。情報通で、大名家などから付け届けがあって、実入りはけっこうよかったといわれますが、身分は低いんです。
 幸田露伴の生家が、この表坊主だったんだそうなんです。開拓使女学校時代の常の住所が、えらく幸田露伴の生家に近く、もしかすると、常の父・秀雄は表坊主だったのかな、とも思ったのですが、下の本を見まして、別の可能性も浮かんできました。

江戸幕臣人名事典
クリエーター情報なし
新人物往来社


 あとがきを読んでも、元になった史料がよくわからないのですが、国立公文書館内閣文庫・多聞楼文書「明細短冊」というもののようです。
 どうも、慶応末年まで記録があるみたいでして、常の実家をさがすのに時期はぴったりなんですが、かなりのぬけがあるらしく、広瀬姓は3名しか載っていません。
 森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」には、「駿藩分配姓名録」という書類があって、静岡へ移ってからの幕臣の名前と所在地がわかる旨、書いておられるんですが、まさかこれまで創作ではないように思えまして、だとすれば、静岡に移った広瀬姓の幕臣だけでも、少なくとも4家はあるみたいなんですね。

 で、「幕臣人名辞典」の方なんですけれども、3名のうち2名は、役職からいって、文化年間の坊主の家の後継者っぽいんですね。一人はあきらかに表坊主ですし、もう一人は奧膳所の小間遣なんですが、似たような役職なんじゃないのか、と思います。
 そしてもう一人、嘉永7年(1854)、新しく幕臣となった広瀬寅五郎がいました。「もしかして、この広瀬寅五郎が、秀雄?」と、思わず決めつけてしまいそうになりましたのは、なかなかに経歴がおもしろいんです。
 本国正国ともに下野です。嘉永7年に同心株を買ったらしく「御先手紅林勘解由組同心」となります。先手組同心というのは、よく時代劇に出てきます八丁堀の町方同心とはちがいまして、番方です。江戸城の門の警備とか将軍警護とかが代表的な役目でして、弓組とか鉄砲組とかもあったりします。
 この「紅林勘解由」、検索をかけてみましたら、興味深い話がひっかかりました。「日本聖公会歴史の落ち穂」というサイトさんの名取多嘉雄著「一人の宣教師と3人の日本青年」というページなんですが、飯田榮次郎という元幕臣が大正8年に自叙伝を書いていまして、その中に「慶応元年から紅林勘解由にフランス式兵学を学び初め」とあるそうなのですね。
 先手組は軍隊に近く、といいますか、もともとは軍隊ですので、組ごと慶応年間からフランス式兵学を、というのは、ありえないことではなさげです。幕府がフランス兵式を導入した時期は微妙ですけど、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書いておりますが、フランス公使レオン・ロッシュの来日が元治元年(1864)で、同時に横須賀製鉄所の話が持ち上がり、横浜に仏語伝習所ができたのが翌慶応元年(1865)です。
 寅五郎は、安政年間(虫食か汚れで何年かわからないみたいです)に「箱館奉行支配調役下役過人」とやらになっているらしいんですが、これは、もしかしますと、紅林組が箱館奉行所勤務になったのかもしれません。元の史料が虫食いらしく、ずいぶん空白があるんですが、元治元年(1864)には講武所勤番になり、江戸へ帰っている様子です。
 えーと、ですね。安政5年(1858)には、栗本鋤雲が箱館奉行支配組頭になって赴任していまして、翌安政6年、函館開港で、フランス人宣教師メルメ・カションがやってきます。カションは、嘉永7年から琉球に滞在して日本語を勉強し、安政5年、日仏修好通商条約締結時には通訳を務め、ともかく、日本語ぺらぺらでした。カションは鋤雲と親交をもって、互いに言葉を教え合い、小規模ながらフランス語学校を開き、そこに箱館奉行所の役人が勉強に通って、横浜仏語伝習所の核ができていたんですね。鋤雲はもともとは医者ですから、カションに協力して、病院と医学校設立を企てるのですが、鋤雲は文久3年には函館を離れ、これは挫折します。
 講武所勤番となった広瀬寅五郎はといえば、田安仮御殿の火災に際して、火付盗賊改方に出向している様子。しかしこれが何年のことか、また虫食いらしく、わかりません。その同年、また「箱館奉行支配定役」になって経歴が終わっていますから、函館で維新を迎えた可能性がありそうなんです。

(追記)うっかりしてました! 広瀬寅五郎で検索をかけますと、慶応2年には、あきらかに函館にいますね。北海道庁の公式ホームページに、「函館奉行所履歴明細短冊」があがってまして、名前がありますわ。あきらかに、最後の函館奉行・杉浦誠の下で働いています。

 最後の箱館奉行・杉浦誠は、明治2年から開拓使に奉職していまして、常の父の秀雄が、もし、函館奉行所にいたことのある寅五郎だったとしますと、娘の常が開拓使女学校へ入学したというのも、話がわかりやすくなるんです。

 同心株といえば、樋口一葉の父親なんか、維新直前の慶応3年に買っているんですよね。甲斐の百姓で、身分違い(相手の女性が富農の娘)の恋をして、駆け落ち同然に江戸へ出て、苦労した結果だとか。
 そして、ですねえ。「広瀬寅五郎」も、検索をかけてみますと、ちょっとびっくりするような話があったんです。
 コトバンク-広瀬寅五郎です。
 「下野(栃木県)粟谷村の金井仙右衛門(せんえもん)の使用人。嘉永3年(1850)仙右衛門の子仙太郎をたすけて,主人の敵金井隼人を討った」

 出典は、講談社の日本人名大辞典みたいなんですけど、出身が下野で、幕臣の広瀬寅五郎と同じですよね。「金井仙太郎」もコトバンクにあります。

 「金井仙右衛門の子。下野(栃木県)粟谷村の富農。炭山をうばわれ刺殺された父の仇金井隼人らを討つため,久保克明に剣術をならう。嘉永3年(1850)隼人父子を討って12年ぶりに復讐をはたす。江戸の勘定所に自首したが不問に付された」

 時期と出身地はあいますし、同一人物だとして話をまとめますと、こういうことでしょうか。
 下野の富農・金井家に仕えていた広瀬寅五郎は、主人が親族に財産を奪われて殺されたので、その息子を助けて、嘉永3年に仇討ちを成し遂げ、4年後に同心株を買って幕臣になった、と。
 この寅五郎がもし、常の父・秀雄だとしますと、おもしろいんですけどねえ。可能性は、十分にありますよね。


 ともかく、です。いえることは、常は確かに幕臣の娘でしたが、どうも、旗本のお姫さまだったわけではなさそうです。表坊主の家だったか、同心株を買った成り立て幕臣だったか、ともかく、御家人かあるいはそれ以下の下級武士で、幸田露伴か樋口一葉の家程度、と考えればよさそうなんですよね。その生活の実態は、下の本が参考になります。これ、御徒の幕末維新自分史でして、同心だったとすると、もうひとつ格が低いかも、なんですが。

幕末下級武士のリストラ戦記 (文春新書)
安藤 優一郎
文藝春秋

 
 ここから先は、妄想です。結局、常の父親が正確にどういう幕臣だったのか、家族構成はどうだったのか、さっぱり資料がありませんので、妄想するしかないんです。
 と、いうわけでして、一番おもしろそうな広瀬寅五郎=秀雄説でいってみたいと思います。
 
 黒船襲来の15年前、天保9年(1838)のことです。
 下野足利の粟谷村は、絹と織物の里です。富農の金井家は、織元でもあり、先代仙右衛門の弟・繁之丞は、京の西陣へ遊学し、美しい模様織物を考案して、生き神様と崇められておりました。しかし、その繁之丞も10年前に死去し、親族の間で、財産争いが起こったのです。
 広瀬寅五郎は、金井家の食客となっていた医者くずれの流れ者の子でしたが、非常にかしこく、現当主・仙右衛門に見込まれて、使い走りをしながら、金井家の跡取り、仙太郎坊ちゃんのお相手をしたりもしていました。寅五郎が15の時、恩人仙右衛門は親族の金井隼人に刺し殺され、争いの種だった炭山が奪われました。
 苦節12年、寅五郎は、仙太郎坊ちゃんとともに剣術修行に励み、剣の師匠の助けも得て、ついに、仇討ちを果たしたのです。
 寅五郎は、坊ちゃんとともに江戸へ出て、関東取締役出役の元締め、勘定所に自首しましたが、お咎めがないばかりか、江戸で評判の美談となり、寅五郎もすっかり有名人になったのです。
 寅五郎は、以降も、金井家の絹織物の取り引きでたびたび江戸を訪れていましたが、勘定所に自首した際に係だった広瀬吉平に、同姓のよしみもあって気に入られ、江戸へ出るたびに原宿村の自宅を訪れたりもしておりました。
 吉平 「わが家は清和源氏じゃが、そちもそうか?」
 寅五郎「へえ」
 吉平 「ならば、そちの祖先も大和か?」
 寅五郎「いや、父は甲斐の医者のせがれでしたが、家業を嫌い出奔しましたような次第で、武田の流れと聞いとります」
 と、まあ、最初はこんな感じで。

 そこへ、ペリー来航です。仇討ちを果たしたときは、すでに20代の後半。なにか新たな挑戦をと焦り、新論を愛読なんかしていました寅五郎は、ふってわいた黒船騒動に、武士になって国を守りたい!と思い立ち、吉平に相談したんですね。
 で、嘉永7年(1854)、寅五郎は吉平の世話で同心株を買い、百人組同心・高橋家の娘を娶り、幕臣になったんです。名のりは源秀雄。
 翌安政2年(1855)5月、長女・広瀬常が誕生します。
 常が三つになった年、秀雄は、紅林組の一員として、箱館赴任となります。
 それから元治元年(1864)までの6年間、一家は函館で過ごし、この間に次女が生まれました。
 
 常が、3つから9つの年まで函館で過ごしたとなりますと、その間に五稜郭の新しい奉行所ができたことになりまして、父親の秀雄は、大洲藩出身で五稜郭設計者の武田斐三郎と知り合っていたかもしれませんし、だとすれば、開拓使女学校時代の常の東京の住所、「第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」というのは、大洲藩邸の長屋に住まわせてもらったのかもしれなかったり。常は手習いで、フランス語を学んでいたりしたかもしれなかったり。とはいえ、なんせ、もとが妄想です。

 一家が江戸へ帰った元治元年、三女の福が生まれます。
 えーと。前述の通り、寅五郎が秀雄だったとしまして、次の函館赴任がいつなんだか、さっぱりわからないんです。
 とりあえず、単身赴任だったことにします。長女の常は年ごろになりかかってますし、下に二人、女の子が増えたんですから。
 明治元年、常は13歳。数えでいえば14歳で、嫁に行ってもおかしくないお年頃。しかし広瀬家には男子がいませんし、婿養子をとるつもりで、とりあえず婚約していた可能性はありそうです。同心仲間の次男かなにかで、函館では常といっしょにフランス語を習っていたりしまして、選ばれて、横浜でフランス軍事顧問団の伝習を受けていました。

 戊辰戦争がはじまり、秀雄はお奉行さまとともに江戸へ引き揚げてきましたが、常の婚約者は脱走。そのまま行方不明になります。
 一家は、静岡への移住を決意しますが、母親の実家・高橋家は、そのまま原宿村で帰農する道を選びます。
 静岡での苦労の中、母親はお産で死に、娘たちのためにも、秀雄は江戸へ帰ることにしました。
 次女と福子は、母親の実家に預け、秀雄は常と二人で大洲藩邸の長屋に住まわせてもらうことができました。
 江戸でできる仕事はないかと、函館での上司で、常の婚約者の父親、いまは開拓使に勤めています福島某に相談しましたところ、「函館へ行くならともかく、江戸では難しいが、今度開拓使仮学校に女子の部ができるので、常さんを通わせては? 授業料がいらないで洋学が学べる。うちの娘も通わせる」との話。
 福島某の娘は、函館で常といっしょに手習いした仲。
 婚約者の行方不明で、未亡人気分の常は、洋学を学んで身を立てたい!と、喜んで、その話に乗ります。
 常は評判の美人。縁談はあるんですが、本人、結婚する気はありません。許嫁だった人に義理立てしているといいますよりも、外見に似合わずもともとが自立心旺盛で、できれば手習いの師匠かなにか、もしかしますと、このころから女医を考えていたかもしれませんし、父を助けて一家の柱になりたいと思っています。
 まあ、縁談がくるといえば、新政府の役人になって江戸へ出てきた田舎士族からで、我が物顔の田舎者への反発もあったりしましたり。

 明治5年(1872)9月、17歳の常は、15歳4ヶ月だとさばをよんで、開拓使女学校に入学します。
 もともと、ご直参とはいえ下層の同心一家。贅沢をしていたわけではないのですが、静岡での暮らしは、食べるに事欠くぼろ小屋生活。
 ひろびろとした増上寺の境内(現在芝公園)、りっぱな建物が寄宿舎で、教材も食事も無料。わずかながら小遣いももらえ、オランダ人の女性教師から英語も学べて、常ははりきっていました。
 実はこの年、開拓使は函館に医学校も開設していまして、お雇いアメリカ人外科医・エルドリッジが、英語で産婦人科の講義をはじめ、産婆教育論を展開していたんです。(「理想のお産とお産の歴史―日本産科医療史」参照。もっともエルドリッジの任期は2年できれ、明治7年には函館を離れて、函館の医学校は閉鎖されるんですけれども)
 えー、そんな情報を常が知っていたか、なんですが、秀雄が維新を函館で迎えたとしますと、函館の開拓使には最後の函館奉行・杉浦誠がいまして、秀雄の同僚も複数奉職していたことになります。「女学校から医学校へ進めるかも」と、常は期待していた、かもしれません。
 ところが明治7年、常は、それどころではない、とんでもない災難にみまわれます。

 災難の中には、もしかしまして、一見幸運なような森有礼との出会いも含まれるかもしれませんで、それもこれも、常の美貌ゆえ。
 美しいということもなかなかに、大変なことのようです。
 で、その災難を語ります前に、次回は森有礼につきまして、どーいうお方だったのか、手に入りました大変貴重な資料もありますし、ハイカラ啓蒙生真面目人間的な従来の像は、ちょっとちがうかな、ということで、独断と偏見に満ちて、語ってみたいと思います。


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