郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

森有礼夫人・広瀬常の謎 前編

2010年08月14日 | 森有礼夫人・広瀬常
 唐突ですが、現在、ちょっとまじめに、森有礼夫人・広瀬常の実像の謎を追っています。
 したがいまして、鹿鳴館のハーレークインロマンスと、アウトローがささえた草莽崛起の続き、ということになります。

 ネット上で知ったのですが、去年から今年の春にかけて、静岡新聞夕刊に、植松三十里氏が、広瀬常を主人公に『美貌の功罪』という小説を連載されたようです。本になっているわけではないですし、読めていないのですが、著者ご本人がブログで述べておられることや、読まれた方の感想をもとに推測しますと、これはどうも、従来からある説を元に書かれたもののようです。
 従来からの説といいますのは、「森有礼の最初の妻・広瀬常は、公使夫人としてイギリス在住時、あるいは帰国後の鹿鳴館時代に不倫をして、青い目の子を産み、離婚にいたった」ということです。ただ従来説では、「開明的すぎる森有礼に常夫人はついていけず、性格が弱くて不倫に走った」というような、どちらかといえばマイナスの評価が多かったのですが、植松氏は、常の外交官夫人としての苦悩に焦点をしぼり、知的な像を描き出しているようではあるのですが。
 私がもっとも気に掛かりましたのは、植松氏は、同じく常夫人を主人公とした森本貞子氏の小説が、従来説をまっこうから否定していることを、まったく意識しなかったのだろうか、ということです。


秋霖譜―森有礼とその妻
森本 貞子
東京書籍

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 上の本における森本氏の提起は、こうです。
 「常夫人は、不倫をしてはいないし、青い目の子を産んでもいない。森有礼との離婚の理由は、広瀬夫人の実家に養子に入って義兄弟となった広瀬重雄が、自由党激派に属し、政府要人暗殺を企てた静岡事件に関与して罪人になったためである」


 鹿鳴館の劇的な色恋スキャンダルが、実は深刻な政治劇だった……とは、仰天です。
 小説とはいえ、森本氏は、かなりきっちり史料にあたっておられるようで、検索をかけてみますと、森有礼に関する論文でも話題にのぼるような提起だったようです。
 しかし、どこまでこれが事実であったのかは、どうも史料不足で確定できないのではないのか、という感触もありまして、まあ、最初に話題にしたときにも、疑問は並べてはおきました。
 ただ、当時、自由民権檄派事件を引き起こした藪重雄が、広瀬家に養子に入り、常夫人の義兄弟となったこと自体は、疑っていなかったんです。それについては、森本氏が断定的な書き方をなさっていましたし、この事実がなければ、成り立たない小説なのです。
 しかし、改めて読み返してみますと、なんと!!!、あとがきには以下のようにあったんです。

 「常の実家広瀬秀雄家については懸命の調査にもかかわらず戸籍もなく、一家の墓もない。しかし藤枝市役所には静岡事件と関係のある藪家と広瀬家が親類の間柄であるとの戸籍が現存していたのであった」

 「藪家と広瀬家が親類の間柄」という表現は、微妙です。なにか手がかりはないのかと、さがしました。
 

自由民権運動の研究―急進的自由民権運動家の軌跡 (慶應義塾大学法学研究会叢書 77)
寺崎 修
慶應義塾大学出版会



 寺崎修氏の上の本には「広瀬重雄 静岡事件を中心に」という章がありまして、ごく短いのですが、重雄の経歴が載っています。
 これによれば、藪家の除籍謄本が静岡県藤枝市に残っているそうなのですね。
 藪重雄は、安政6年(1859)、幕臣の家の次男として江戸麹町三番町に産まれ、慶応2年(1866年)、16歳年長の兄・藪勝が家督を相続していることがわかるのだとか。しかしどうも、この除籍謄本には、重雄が常夫人の父である広瀬秀雄の養子に入ったと書かれているわけでは、なさそうです。
 寺崎氏は、重雄が「広瀬家」の養子になったことは書いておられるのですが、その広瀬家が森有礼の岳父の家だとは一言も書いておられず、であるならば、森本氏の断定には、実は根拠があるわけではないのではなかろうかと、疑念がわきます。
 じゃあ、森本氏がいわれる「藪家と広瀬家が親類の間柄」とはなになのか、ということなのですが、これは森本氏の小説P253-4に見えます「重雄には四つ年上の姉・つるがあり、幕臣・広瀬滝蔵家の養子・義正の妻となった」という部分ではないのか、と思うのです。本文中に、広瀬滝蔵家の戸籍は残っている旨、書いておられますし。しかし、同じ幕臣の広瀬姓といいましても、果たしてこの滝蔵家と、森有礼の岳父・秀雄の家と、親しかったかどうかは謎ではないのか、と思われます。

 寺崎氏の論文で見るかぎり、藪重雄が広瀬姓になったについてわかることは、新聞紙上に広瀬姓で重雄が登場する時期からして、原口清氏が「明治11年頃のことではないか」と推定なさっている、ということのみです。

 (追記)原口清氏の「明治前期地方政治史研究〈下〉 」(1974年)を、図書館で見てきました。
 重雄が広瀬家に養子に入ったについての資料は、飯田事件の際の公訴状の以下の部分です。「被告実家ハ姓ヲ藪ト称シ、元ト東京麹町富士見町ニ居住セリ。被告出デテ広瀬家ニ養子トナリ、同家ヲ相続セリ」
 原口氏によれば、重雄は明治11年に広瀬家を相続したと推測でき、そうだとすれば、このとき、重雄は19歳なんだそうです。
 うわっ!!!!! これって、要するに徴兵逃れですね。そりゃあ、元旗本の家の子が一兵卒にはなりたくないですわね。だとすれば、便宜的に跡取りのない家に籍を入れただけ、かもです。
 あと、この本で、重雄と「広瀬家」のかかわりを見ることができるのは、明治19年2月19日付の警察の報告書です。「広瀬重雄ハ、 去ル十四日着京、四谷区四谷鮫ヶ橋南町六番地広瀬政良方ニ止宿ノ旨当地通ニ越セリ」とあるんですけど、四谷鮫ヶ橋って、ものすごい貧民街だったみたいなんです。これが養子先と関係ありだとすれば、ますます常夫人の実家とは関係なさそうで、これから少々、以下の文章を書きかえます。


 そして、この明治11年です。
 藪家の静岡での住まいは、旧田中藩(四万石)、現在の藤枝市にありました。
 田中藩主は本多家でしたが、江戸城明け渡しの後、徳川宗家が駿府70万石となって移封されるにつき安房に移されたのですが、藩校日知館は、どうもそのまま、移住してきた幕臣の手に移って運営され、その後、どうも養正舎という小学校になったらしいのですね。
 藪重雄はこの養正舎で教育を受け、卒業の後、小学校教師に採用されます。しかし、小学校教師の職にあきたらなくなったのでしょうか。
 明治10年から12年にかけて、重雄は東京に遊学し、共慣義塾と、広瀬範治の私塾で学びます。
 共慣義塾というのは、南部盛岡藩主が明治になって、人材育成のために東京に作った英学塾です。重雄より三,四歳年上の原敬や犬養毅も一時学んだ、といいますから、当時、東京で評判の英学塾だったのでしょう。原敬は盛岡の出身ですが、犬養毅は岡山の人です。藩外からの入塾も盛んであった反面、かなりの学費がかかったようです。

 さて、問題は、「広瀬範治の私塾」です。
 重雄が明治11年ころに広瀬家の養子となり、ちょうどその時期に広瀬範治の私塾で学んでいたのだとしますと、この広瀬範治は重雄の養子先となにか関係があるのだろうか、と推測するのが普通です。
 やはり森本氏も、なさっているのです。なさっているのはいいのですが、ここで、大きな勘違いをされています。
 なにが勘違いかって………、森本氏は、重雄の姉が嫁いだ広瀬滝蔵家の養子が、上京して四谷鮫ヶ橋(鮫河橋)に住んでいたことなどから、「広瀬範治の私塾」とは幕臣広瀬氏一族がはじめた私塾で、その中心人物が広瀬範治。重雄は、範治の教えを受けながら、この私塾で子供たちに教えていた、となさり、「広瀬範治は幕臣の広瀬氏」と断定しておられるんです。
 ちがいます!!!!!

 えー、インターネットは便利です。広瀬範治で検索をかけると、すぐに出てきました。
 広瀬範治とは広瀬青邨のことなんです!!!! つまり広瀬淡窓の養子であって、九州豊前の出身です。
 幕臣じゃありません!!!!!
 かんがくかんかく(漢学感覚)というサイトさんが詳しいのですが、個人ブログは信用がならないという方は、近デジで、「広瀬青邨」で検索をかけてみてください。明治40年発行の「大分県偉人伝」と明治43年発行の「先哲百家伝」に、小伝が載っています。
 広瀬淡窓の咸宜園は、大村益次郎や長三洲が学んでいた幕末九州の超有名漢学塾で、広瀬範治は淡窓の養子になって塾主を務めたのですから、新政府に知人は多いのです。誘われて奉職していましたが、明治10年に官職を辞し、東京神楽坂で私塾「東宜園」を開いたんです。
 重雄は、幕末以来の名声を慕って、超一流の漢学塾で学んだのであり、貧民街で元幕臣の親戚が細々とやっていた私塾なんかじゃないんです。
 また広瀬青邨(範治)は、ついこの2年前の明治8年には、咸宜園門下で岩手県令となった島惟精に推挙され、岩手県に奉職しています。つまり、岩手県の南部藩主が主催して名声を得ていた英学塾・共慣義塾を重雄に紹介したのも、広瀬青邨であった可能性が高いのです。
 
 これって、どうなんでしょうか。
 広瀬青邨の妻子については、さっぱりわからないのですが、あるいは重雄が養子になった広瀬家とは、青邨に関係した可能性も、ありえるんじゃないんでしょうか。
 もっとも、重雄の姉が幕臣の広瀬家に嫁いでいるそうなのですから、その関係で幕臣広瀬家の養子に入った可能性ももちろん高いのですが、それが広瀬秀雄、つまり森有礼の岳父の家であったとは、根拠のない想像にすぎないのではないのか、と思えます。
 つけくわえます。
 徴兵逃れのための養子だったとすれば、養子先が元幕臣の親戚である可能性は高まりますが、常夫人の実家だった可能性は、ゼロに近いのではないでしょうか。だいたい、公訴状で「広瀬家を相続した」となっているんですから、すでに戸主の死亡した家に養子に入ったようですし。

 そして……、もし仮に重雄が常夫人の義兄弟になっていたとしましても、そのことが常夫人と森有礼の離婚理由にはなりえなかったのではないのか、とも思えるのです。
 これは、偶然以外のなにものでもないのですが、常夫人が「青い目」と噂された女の子を産んで離婚にいたるまでの日々は、重雄が激化事件にかかわって逮捕された時期と、ぴったりと重なっています。
 記録の上からいって、「青い目」だったかもしれない女の子・安の出生は、明治17年(1884)12月8日です。近藤富江氏は、鹿鳴館貴婦人考 (講談社文庫)において、「実際の誕生日は、それ以前かも知れない」としておられますが、これはおっしゃる通りでしょう。
 「若き森有礼―東と西の狭間で」によりますと、イギリスに公使として赴任していた森有礼と常夫人は、この年の4月14日に帰国。常夫人は、6月12日から鹿鳴館で開かれたバザーには出席していますので、すでにイギリスで妊娠していて、6月末から12月8までの間に出産した、ということになりそうです。

 重雄は、安出生とされる日の前日、明治17年12月7日、逮捕されます。飯田事件、名古屋事件の関係者と接触し、政府転覆の挙兵について話し合っていた、というのです。結局、この件では、証拠不十分で無罪となりますが、翌18年10月27日、判決が出るまで獄中にいました。
 重雄が再び逮捕されたのは、19年の6月12日です。予審が始まるのが9月で、公判は翌20年の7月。このときの裁判記録で、重雄は広瀬姓ではなく、藪姓にもどっています。
 森有礼と常夫人の離婚は、書類上、19年の11月28日です。

 えーと、です。要するにこれって、偶然以上の意味が果たしてあるのだろうか、ということなんです。
 重雄が、例え常夫人の義兄弟になっていたとしましても、です。養子なんですから、養子縁組を解消すれば、それで終わりです。事実重雄は、静岡事件によって縁組解消に至っていますし、これが離婚理由になどなるのでしょうか? 
 だいたいこの時期、西南戦争関係者はまだ大赦を受けていませんで、全員が国事犯です。政府の中枢にいる薩摩閥の要人で、国事犯の親戚を持たない者の方が、珍しかったでしょう。

 もう一つ、これは前々からの疑問なんですが、森有礼と伊藤博文の関係についても、森本氏は勘違いなさっています。「伊藤が森の能力を認めて文部大臣に起用したのは、森のイギリス公使時代(明治15年)に欧州へいったときのことで、森は伊藤に深く恩を感じていた」となさっているのですが、伊藤と森の縁は、もっと早くからありました。
 岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保で書きましたが、岩倉使節団アメリカ訪問時、伊藤は森に心酔して、親分の木戸孝允との関係をこじらせるほどだったんです。木戸は森を嫌いぬいていまして、この直後、駐米公使(正確には初代少辮務使)を辞した森は、教育行政に携わることを望むのですが、木戸の反対で実現せず、大久保利通のはからいで外交畑にとどまります。
 重鎮の木戸、大久保亡き後、維新当初から外交に携わった薩摩出身の寺島宗則が条約改正に失敗して外務卿を辞任し、伊藤は後任の外務卿に盟友の井上馨を起用し、それと同時に、森有礼はイギリス公使に任じられているんです。当時のイギリスはアジア外交を牛耳っていた世界一の大国で、条約改正にイギリス公使が果たす役割は最重要です。つまり伊藤は、岩倉使節団以来、藩閥を超えてずっと森の能力を買っていたわけで、森の方はといえば、政治力こそありませんが自負心は強く、伊藤が能力を買ってくれることは喜んでいたでしょうが、恩にきて恐れ入るような玉ではありません。
 
 まあ、そんなわけでして、私はいま、「秋霖譜―森有礼とその妻」の最大のテーマに懐疑的なんですが、森本貞子氏は、他にも常夫人の実像に迫る史料を提示してくださっていまして、次回以降、それを検討してみたいと思っています。


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