郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

英国へ渡った土佐郷士の流離 2

2007年02月15日 | 幕末留学
『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』

新人物往来社

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この本、著者の芳即正氏が、薩摩藩の幕末維新史料の専門家でいらして、幕末薩摩藩の動向を、久光を中心とした視点から、コンパクトにうまくまとめておられます。
以下、この本から、ばかりというわけではなく、他の資料や、私の解釈も多大にまじりますが、昨日書いた英国へ渡った土佐郷士の流離 の続きです。

「ここらへんが、このころの薩摩藩のやることのわけのわからなさ」と昨日は書いたのですが、細かく見ていくと、わからないわけでもないのです。上洛した久光は、浪士取締の勅命を受けたんですね。
つまり、浪士の策動を、孝明天皇が嫌がっておられ、久光は勅命にしたがって、上意討ちをしたわけです。さらに、田中河内介殺しについていえば、完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族で少しだけ触れましたが、田中河内介は、上意討ちにされた薩摩尊攘檄派とつながり、清川八郎などともいっしょになって、西日本の志士に、檄文をまいて歩いていました。それに、中山家の跡取り、忠愛卿もかかわっていて、青蓮院宮(中川宮)の討幕の密旨があるという話にまでなっていまして、孝明天皇が浪士の策動を嫌がっておられるとなりますと、皇子(後の明治天皇)の母系一族である中山家にとっては、非常に困った事態だったわけです。久光は、当主の中山忠能に会っていますし、隠蔽策を頼まれて、殺して口を封じる決意をしたのではないか、とも考えられるでしょう。

で、吉田東洋暗殺なんですが、これは他藩のことです。土佐勤王党が、土佐藩政を握ろうとしていた時期ですし、薩摩藩にとっては、他藩のうちわもめでしかありません。勅命とはなんの関係もないんですよね。

高見弥一が、薩摩人となることを選んだ最初の動機も、幕末における「勅命」のゆれ動き、にあったのではないかと思うのです。『流離譚』によれば、三人の暗殺者の中で、高見弥一はただ一人、藩外で活動していて、長州、薩摩藩士とも面識があったので、脱藩後の身の振り方を決めるに必要な人物として選ばれたのだろう、ということです。つまり、他藩士との付き合いに慣れていて、社交性があった、ということなのですが、同時に、土佐藩内の情勢の上にあった、久光上洛にともなう西日本一帯の志士活動のうねりを、熟知していたことになります。
それがなぜ、上意討ちという無惨な形になったのか、彼は真剣に知ろうとしたのではないでしょうか。
奈良原をはじめ、上意討ちにおもむいた薩摩藩士たちにしても、好きで同じ藩の仲間に斬りかかったわけではありません。ちゃんと聞く耳を持った者には、勅命があったことを説明したはずです。
その後の久光の動きも、勅命遵守が基本にあったことを知っていれば、長州主導で煮えたぎった京の情勢も、しごく冷静な目で見えてしまって、一歩引いてしまうことになるのではないのでしょうか。自分が、藩の重役殺しに手を染め、もはや故郷へは帰れない身になっていればこそ、なおさらに。
土佐勤王党の大儀が、彼にとっては、しだいに遠いものとなっていったのでしょう。

薩摩藩士であることを選び取った時点で、弥一は、部外者であることを選んだことにもなります。薩摩生まれの薩摩育ちでなかったからこそ、彼は、薩摩藩がその中心にあった激動に巻き込まれることもなく、血しぶきをさけて、静かな日常に埋没できた、ともいえるでしょう。そして、流離こそが彼の平安であったのだとすれば、海のむこうのイギリスを目指したことも、彼にとっては、新しい刺激を求めたというよりも、より郷里から遠い場所こそが、流離するしかないその心の均衡を、保証してくれそうに思えたからでは、なかったのでしょうか。


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