郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「龍馬史」が描く坂本龍馬

2010年11月14日 | 幕末土佐
 またまた突然です。
 「武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新」 (新潮新書)の著者、磯田道史氏が、龍馬暗殺について書かれているというので、読んでみました。

龍馬史
磯田 道史
文藝春秋


 全体が大きく3章に別れているんですが、最後の3章は付録といってよく、「龍馬を知るには、下手な伝記を読むよりも、直接、龍馬の書いた手紙を読んでみなよ」という話です。
 で、1章は、龍馬を中心に据えた幕末史。
 そして2章がまるごと、龍馬暗殺事件の解明です。

 龍馬暗殺について、現在、陰謀論が盛んです。よくは知りませんが、テレビで取りあげられているようですから、盛んなんでしょう。
 京都見廻組という定説は、動かしがたいということがさすがに知られてきまして、それでは話がおもしろくありませんから、「黒幕がいる!」ということで、ない謎を作ろうとしているのでしょうけれども、そういうテレビ局や出版社の都合は、わからないではありません。
 
 世間さまでは、「幕末といえば龍馬か新撰組」です。
 つくづく、司馬さんは偉大です。
 私もその口なんですが、司馬遼太郎氏の著作を読んで、あるいはそのテレビ化作品を見て、幕末に興味を抱いた人は多いでしょう。
 そういった人々の中から、漫画家や小説家、テレビ制作者、あるいは編集者が生まれ、龍馬と新撰組は、拡大再生産されているんでしょうね。

 なぜ、数多い司馬遼太郎氏の幕末作品の中で、龍馬と新撰組なのかといえば、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「新選組血風録」 の初期幕末作品は、娯楽に撤していて、とてもわかりやすく、おもしろいんです。
 ここで龍馬を選ぶか新撰組を選ぶかは、好みの問題でしょう。私は、「燃えよ剣」と「新選組血風録」の方が好きでした。

 私は、昭和30年代に書かれたこれらの司馬作品をリアルタイムで読んでいるわけではありません。
 したがいまして、おそらく、なんですが、龍馬と土方、どちらも幕末に青春をかけて夭折した男たちの物語に、もっとも影響を受けたのは、団塊の世代でしょう。
 それまで、西郷、大久保、木戸が維新の三傑とされ、彼らはいってみれば政治家であったわけなのですが、政治には清濁あわせ呑む側面も出てきますし、腹芸もあります。彼らが主人公では、「すっきり爽快青春物語」には、なり辛いわけなのです。

 しかも司馬氏は、竜馬と土方を、ちがう陣営にありながら、「合理的精神を持った新世代」として造形していまして、「新しい価値観で世を変えようとした爽快な若者の青春物語」をつむぎ出しているんです。
 それは、高度成長期にさしかかって、戦前を生きた父親の世代の既成の価値観を否定し、「親父たちの世代に属する政治家たちは薄汚い! 戦犯をかばうような奴らだ。俺たちの価値観が日本を変えるんだ!」と夢見た若者たちの気分に、ぴったりの物語、だったのではないのでしょうか。

 しかし、昭和30年代において、政治家たちの権威は巌のようにそびえていまして、いくら若者たちが逸脱して少々暴れたところで、日本という土台をささえる庶民の国家意識は強固なもので、しかも高度成長の上り坂。国はゆるがない、という安心感があってこそ、そういう夢物語に熱中もできたんです。
 司馬氏はもちろん、いわゆる「維新の三傑」の存在の大きさがわかっておられなかったわけではなく、それは前提として、「しかしね、維新は個人が成し遂げたものではなく、こういう新しい若者たちがいて、新しい価値観が生まれていたんだよ」というトーンで、あくまでも「夭折した若者の青春」を描いておられます。

 司馬氏における「合理的精神」は、「西洋的近代の受け入れ」の基礎となったもの、と考えられ、とすれば、司馬氏が語る明治維新は、「西洋型近代的国民国家の生みの苦しみ」であって、その大筋自体から、「龍馬暗殺、薩摩・土佐陰謀説」は生まれようがありません。

 ところがしかし、物語が拡大再生産されていきますうちに、特に龍馬は、「維新の三傑」にとって代わりまして、一人で幕末の政局を動かしえたかのような伝説の主人公になったんです、おそらく。
 しかも、ですね。どういう脈略か私には理解しがたいんですけれども、「大政奉還で平和的改革をめざした龍馬は議会制民主主義の旗手! 武力倒幕派は龍馬が邪魔だった」みたいな、?????な気分によって、明治維新は民主主義の挫折の物語として紡がれる、という、お口ぽっかーんな状況から、陰謀暗殺ミステリーがもてはやされるようになったのではないか、と、首をひねってみたり。

 つーか、ですね。慶喜公が大人気!!!なのならば、まだ、気分としての薩摩黒幕話もわからないではないんですが、かならずしも慶喜公に人気があるわけではありませんで、龍馬人気の基礎が一介の浪人、それも土佐では上士から差別された郷士だったというところにありますのに、なんで????? です。
 そもそも、慶喜主導、あるいは山之内容堂や松平春嶽やら、武力倒幕反対派の諸侯主導で、四方八方おさまりがつきえる場面だったんですかね?????

 まあ、そういうことですから、龍馬暗殺ミステリーを語りますのに、「維新とはなんであったのか?」という問いをぬきにしては、お遊び推理ゲームにしかなりえません。
 したがいまして、磯田道史氏が、その作られたミステリーに真面目に取り組むにおかれまして、龍馬を中心に据えた幕末史を先にもってこられたのは、もっともなことです。
 著者ご自身、「龍馬の生涯をたどるうちに、自然と、幕末史の体系的知識が身に付くような簡潔な」歴史叙述を試みた、とされています。

 うーん。
 しかし、ですね。幕末史の要約ほど、難しいものはありません。
 まして、龍馬中心というのは、至難のわざ、でしょう。
 実際のところ、ですね。尊王攘夷から話をもっていきますならば、龍馬ではなく、中岡慎太郎を中心に据えた方が、幕末は描きやすいんです。
 前編を書いただけで放ってありますが、「寺田屋事件と桐野利秋 前編」で、私も一つの側面から、幕末史の要約を試みようとして、以下の慎太郎の言葉を引いています。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

 これほど、維新のめざしたものを端的に表現した言葉は、他にないと思います。
 
 龍馬では、なぜ描き辛いのか。
 簡単なことです。海軍は幕末の激動の「きっかけ」であり、維新の大きな「目的」でもありますけれども、変革の主体にはなりえないから、です。
 古今東西、変革の主体は陸軍です。清教徒革命にしろ、アメリカの独立戦争にしろ、フランス革命にしろ、プロイセンのドイツ統一にしろ、イタリアのリソルジメントにしろ、なんですけれども。

 さらにいえば、「海軍」は規模を要求します。
 この当時、パクスブリタニカの根源になっていましたイギリス海軍は、いわば脅しの見せ札です。例えは悪いんですが、原爆のような側面を持ち、イギリスは、明治維新から60年も昔のトラファルガーの海戦以来、大海戦はやっていません。
 そのイギリスとアメリカと、正規の常設陸軍が非常に小規模で、義勇軍に頼る割合が大きい、地方分権的な国におきましても、コーストガードは別にして、海軍は中央集権政府の元にあります。
 モンブラン伯爵のシリーズなどで書いてきましたが(不完全なものですが、「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」がわかりやすいかと思います)、海軍熱心だった佐賀と薩摩は、ともにそのことを悟り、薩摩は、薩英戦争を経ることによりまして、幕府に代わってその集権の主導権を握ろうとしましたがために、倒幕に傾いていった、といえなくもありません。
 
 したがいまして、「海軍を作る」ことにおいて、一介の浪人は無力ですし、また海軍自体は、決して政治的な存在とはなりえないのです。
 であってみれば、磯田道史氏は、海軍を志した一介の浪人を中心として簡潔に幕末史を語る、という難しい作業を、できうるかぎり、無難にこなされている、と、言っていいのかもしれません。

 しかし、不満は残ります。
 龍馬が土佐にいる間は、いいんです。
 脱藩にいたって、ちょっとちがうだろう、という話になってきます。
 土佐勤王党に対する久坂玄瑞の呼びかけにしましても、吉村虎太郎の脱藩にしましても、漠然とした尊王攘夷論の高まりで、起こったわけではありません。島津久光の率兵上洛がもたらしたもの、です。
 ここでも、時代を動かしていたのは、「陸軍」なのです。

 だからといってもちろん、脱藩後の龍馬が海軍を志したことに、意味がないわけではありません。
 ここで龍馬がわざわざ激動の中心をはずれて、海軍に向かいましたことは、その「海軍」にこそ変革の動機と目的を抱き、なおかつ、変革の主体となりえる規模の「陸軍」をかかえます薩摩に、龍馬を近づけることだったから、です。
 幕末における海軍と交易、そして外交という面から維新を描くことを、私はモンブラン伯爵を中心にしようとして、知識不足と力不足で、覚え書き程度のものも中断しておりますが、もし日本人を中心に据えますならば、五代友厚しかいないでしょう。
 
 「いろは丸と大洲と龍馬 上」で書きましたけれども、司馬遼太郎氏は、あきらかに五代友厚がしたことを、龍馬がしたことに変換しています。
 海軍の創設と海外貿易。これは最初から、一介の浪人にはできないことです。大藩の保証があればこそ、できることでして、しかも、なぜ薩摩藩がそれを積極的になしえたか、といえば、「琉球という植民地」を持っていたから、です。植民地といいましても、形としましてはイギリスのインド統治に似て、入植はせず、琉球王朝を温存しました間接統治、です。
 「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」で述べましたが、すでに薩摩は、琉球を指導して、オランダ、フランスと修好条約を結んでいました。

 「一介の浪人が海軍と貿易に取り組んだ!」といいますのは、司馬さんが龍馬像に託しました夢でして、私が磯田道史氏の書いておられることに、もっとも違和感を持っていますのは、龍馬と海軍の関係です。
 海軍の話をしますならば、幕府が長崎で行いましたオランダの海軍伝習をぬきには無理ですのに、龍馬中心でありますばかりに、突然、神戸海軍操練所です。
 この当時、幕府の本格的な軍艦操練所は築地にありました。
 オランダの海軍伝習の途中から、幕府は諸藩をしめだし築地もそうでしたので、勝海舟が神戸に、諸藩士入門可の神戸海軍操練所を作ったわけなのですが、築地のそれにくらべれば、あきらかに劣ったものですし、どれほどの有益な伝習が行われたかは、疑問です。
 あるいは勝海舟は、薩摩藩懐柔のために、薩摩と連携して神戸海軍操練所を作ったのではないか、と、私は憶測していまして、少なくとも、ここに多数の薩摩藩士が入塾していましたことは、事実です。

 また、体系的に、ちゃんと調べているわけではないのですけれども、薩摩藩がグラバーなど、長崎のスコットランド商人の協力を得て、海軍の実地訓練を重視していたことはあきらか、でして、「薩摩スチューデント、路傍に死す」に出てきますが、亀山社中の陸奥宗光は、薩摩の世話でイギリスの船に乗り、帆船の使用を学んでいたのですし、「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」の前田正名の兄は、文久3年の段階で、蒸気船の釜焚として、薩摩藩の交易に従事していたんです。
 亀山社中、海援隊は、船壊しの名人としかいいようがなく、海軍への取り組みは、龍馬が主体ではなく、薩摩藩が主体です。
 それをまるで、龍馬が主体であるかのように書かれたのでは、「竜馬がゆく」の拡大再生産にすぎなくなってしまいます。

 それに関連もしてくるのですけれども、イギリスが手放しで薩長を応援した、ような書き方も、ちょっと違和感があるんですが、これに関しましては、「アーネスト・サトウ vol1」の冒頭にまとめておりますので、省きます。

 磯田道史氏の龍馬暗殺ミステリーそのものの解明は、大筋として、妥当なものです。
 あー、余計なことかもしれませんが、「人斬り半次郎」という言葉は、戦後に作られたものです(「続・中村半次郎人斬り伝説」参照)。
 そういえば、うちの母は最近、題名が恰好いいからと、池波正太郎氏の「人斬り半次郎 」を買ってまいりましたが、大昔から、私がもってるってば、もう!!!(笑)

 といいますか、戦前、桐野の赤松小三郎暗殺をそこそこ正確に述べていました有馬藤太の「維新史の片鱗」は、桐野と龍馬は薩長同盟以来の長いつきあいだったことを証言していますし、「中井桜洲と桐野利秋」で書いておりますが、中井は桐野と個人的に親しく、この当時海援隊に属して、「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」にありますように、大政奉還の建白書に手を入れました(慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」佐々木高行日記)。

 龍馬の功績、といいますならば、中岡慎太郎たち、多くの土佐脱藩士が長州の懐にとびこみましたのに対し、海軍を通じて薩摩の懐にとびこみ、両側から薩長を結びあわせ、そしてなにより、自藩土佐を倒幕勢力にひきずりこんだ、ことでしょう。
 その要に、中井桜洲はいたといってよく、これは磯田道史氏もはっきりと書かれていますが、龍馬と海援隊は、あきらかに土佐を倒幕にひきずりこむ側に属しているんです。

 で、もう一つだけ、磯田氏の述べられていますことへの疑問。
 磯田氏は、薩摩黒幕説が蔓延します理由について、「薩摩藩は、他者観をもたれていた」ということを、一番にあげられています。
 薩摩黒幕説は、戦前に蜷川新氏の著述があったにしましても、けっして、主流であったわけではありません。冒頭で述べていますように、戦後も、ごく最近になってからのブームです。
 それを、幕末京都におきます薩摩藩の人気のなさから語りはじめますのは、ちょっとおかしなことだと思います。

 磯田氏は、禁門の変におきます京都の長州人気、薩摩・会津の人気のなさから、「他者観」を持ち出されるわけなんですけれども、そういう理屈でいきますと、江戸におきます西南戦争時の西郷隆盛大人気の理由が、さっぱりわからなくなります。
 禁門の変当時の京都におきます、長州人気、薩摩不人気の理由は、はっきりしています。高々と尊王攘夷!をかかげました長州を、8.18クーデターで追い落としたことが、まだ尾を引いていたんです。

 外国との交易は、物価をつり上げましたし、シルクが主要交易品となり、海外へ流出していましたことで、絹織物が盛んでした京都の産業は、壊滅状態です。京都庶民の正義は、攘夷!にこそ、ありました。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」に詳しく書いておりますが、外国と交易している、という理由で、長州藩が長崎丸、加徳丸という、薩摩藩が運用しておりました商船を攻撃し、しかも、「外国と交易している薩摩の方が悪い!!!」と、京都で自藩者を無理やり切腹させ、薩摩商人の首をさらすという理不尽な宣伝を行ったわけなのですが、京都庶民がそれを受け入れたのは、薩摩が他者だったからではなく、京都庶民も海外交易を憎んでいたからです。

 で、龍馬暗殺当時なのですが、薩摩は舵をきり、その人気の長州と手を結ぶ方向へ向かっていたのですから、京都庶民の気分から、薩摩黒幕説が誕生するわけはありません。
 鳥羽伏見直後の薩摩の不人気は、やはりなんといいましても、これまた、あまりにもあからさまな攘夷否定です。直後、京都の薩摩藩邸に政治顧問としてモンブラン伯爵を迎えていましたことを知ったときには、私でさえも、目が点になりました。
 確かに「薩摩藩は、なにをするやらわからない」ということは事実ですし、その現実主義が、しばしば薩摩藩のしていることを、他者にとってわかり辛くしていたことも事実ですから、磯田氏の薩摩藩解説が、まちがっているわけではないんですけれども。

 薩摩藩黒幕説につながる戦後の状況を、もし、戦前にまでさかのぼって考えますならば、龍馬を世に知らしめました明治16年発表の「汗血千里駒」が、土佐自由党の坂崎紫瀾によって書かれ、その土佐自由党弾圧の最前線にありましたのが、薩摩閥の三島通庸、だったことです。
 いえ……、それ以前に、土佐自由党結成のきっかけは、明治6年政変にあり、政変によって薩長藩閥政治を確かなものにしましたのは、大久保利通ですから、政府中枢にいます薩摩閥は、誕生当初から土佐自由党にとっては敵でして、しかし、自由党の一部が西南戦争に加担しようとしましたように、かつての薩摩藩そのものが敵だったわけではないんですけれども、戦後それが、奇妙な方向にねじまがったイメージとなった可能性はあるのではないか、と、私は憶測しています。

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2 コメント

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Unknown (勝之丞)
2010-11-25 19:14:29
変革の主体は陸軍ですよね。私もそう思います。それにしても、坂本龍馬は、過大評価というか、実像からかけ離れた評価割れていると思います。
「一介の浪人が海軍と貿易に取り組んだ」とバーチャルな龍馬像を広めたのは、司馬遼太郎だけではなく、坂本藤良という人物の存在も大きいと思いますけれど。
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坂本藤良氏の (郎女)
2010-11-26 21:12:21
著作は、読んでいないのですが、おしゃるように孫正義氏みたいなビジネスおじさんが、大きな勘違いをする原因なんでしょうねえ。
 磯田氏に関していえば、松浦玲氏の勝海舟過大評価がひびいている感じもします。
 私、龍馬の人柄はいいんだろうと思うんですけれども、いい人って、あんまり大きなことはできなかったりするんですわよね、往々にして(笑)
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