郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

ヤッパンマルスと鹿鳴館

2005年12月04日 | 明治音楽
二本松少年隊でぐぐっていたら、詳しいページを見つけました。

幕末とうほく余話

東北の地方出版社のページみたいですね。
いえ、二本松少年隊のことだけではなく、幕末の軍楽について詳しく述べられていて、感激です。注目は、以下の部分。

『日本音楽の歴史』(吉川英史、創元社)に、「天保年間(1830~43)、長崎の高島秋帆はオランダ式鼓笛隊を作りあげた。彼はオランダ式兵学を学んで歩兵の調練を行ったので、それに伴う鼓笛隊が必要になったのである。これ以来、諸藩に新しい兵学や軍楽が行われるようになった」と書いてあった。
 高島秋帆は、長崎の町年寄で、独学で西洋流の砲術を研究し、「高島流砲術」を創始した人だ。幕府に洋式兵制の採用を建言し、天保十二年には、現在の東京都板橋区高島平の原野で、洋式大砲の実射を披露した。ちょうど中国ではアヘン戦争が起きていて、幕府も西洋の軍事力に注目し始めたころだ。
 しかし、これで鼓笛隊が広まったというのは、ちょっと時期が早いと思う。幕府はもちろん、諸藩もまだ、全面的な兵制改革の必要性を認識してはいない時期だからだ。やはりそれは、幕末のことだろう。

 たしかに、実際に鼓笛隊がひろまったのは幕末なのでしょうけれども、西洋軍隊の優秀性と、それを取り入れるには西洋音楽の導入が必要だ、という認識は、識者の間で、かなり早くからひろまっていたようなのです。
 例えば、長州の来原良蔵。たしか桂小五郎の親戚筋で、吉田松陰にも信頼された人ですが、文久二年に切腹して果てています。その彼が、若い頃から、首から太鼓を下げ、鼓手のまねをして歩いていたというのです。万延元年には、長州西洋銃陣の改革に努めています。
また、佐賀の江藤新平が幕末に藩庁へ出した建白書に、「西洋音楽を取り入れる」といった項目がありまして、読んだ当初は、なぜに音楽? と疑問を持ったのですが、西洋軍制を導入するにあたっては、西洋音楽が欠かせなかったんですね。
先日読んだ野口武彦氏『幕末伝説』の中にも、「赤房のラッパ」という一編があり、幕末歩兵隊の喇叭手に、スポットがあてられていました。『幕府歩兵隊』の方には詳しく、上記のサイトにある「日本人は行進ができなかった」という話も、出てきました。
以前になにかで読んだのですが、五稜郭に集まった旧幕軍の行進を、加勢したフランス軍人だったか、函館在住の外国人だったかが見て、「行進がまったくできていない」というような書き残しもあります。

以前、自分のBBSで、軍楽について情報を求めたことがあるんですが、そのとき解明したかった疑問は、なぜ日本の音楽は、流行り歌までが西洋音階、リズムになってしまったか、ということでして、中近東やインドなどでは、ごく最近まで、流行り歌は民族音楽だったんですね。
もちろん、明治新政府が、西洋音楽の普及をはかり、小学校から教育したからなんですが、それはなぜなのか、といえば、近代軍隊の歩兵に必要なリズム感を、国民一般につけさせるためでしょう。
ではなぜ、中近東やインドでは、その必要がなかったのか? と考えて、西洋軍楽の歴史に興味を持ったんです。
で、知ったのですが、もともとの西洋軍楽は、喇叭が中心で、太鼓は使っていなかったんです。西洋軍楽が太鼓を取り入れたのは、オスマン・トルコの軍楽の影響でした。
トルコ軍楽は、どうやら世界遺産になったようですね。無料で聞けるトルコ語のサイトを見つけていたんですが、ちょっと出てきません。
ともかく、影響を与えた方なのだから、性急に取り入れる必要はなかったのだろう、という結論です。
西洋音楽が、軍隊と密接に関係して発展を遂げたのならば、西洋舞踏だとて、そうです。下は、以前に映画『山猫』の感想で、紹介したサイトなんですが、きっちり解説してくれていました。

武闘と舞踏の関係

日本の舞踊にも剣舞もあれば黒田節もあるが、舞踊でいつも軍事訓練をしていたわけでなないし、踊りのお師匠さんが剣術の指南をする必要もなかったし、道場で舞踊を教えたのでもながった。
しかし、ヨーロッパの貴族社会、例えばフランスでは、バロック舞踏の教師が剣術と乗馬を教えていたのである。
図1はその道場である。バロック舞踏の動作はフェンシングや乗馬と共通したものがあるという指描も的外れではないのである。
貴族、騎士階級に限らないで、兵卒達の動きを見ても舞踏との関わりは深い。西欧の音楽にしろ舞踏にしろ、その西欧的特徴というものについて輿味を抱く人は少なくないと思われるが、歩兵の戦聞法を見てみると、まさに音楽と舞踏で西欧的と感じられた特徴がそのまま軍事技術とも関連し合っているのがよくわがる。
(中略)
集団の統一のとれた運動と団結力を期するには、歩調を揃えなければならないが、足並みを揃えるリズムを指令するのが太鼓などの打楽器で、旋律を付け士気を盛り上げたのが笛類であった。
軍団の隊長に旗手のほか鼓手と吹手が配されており、この隊長付きめ楽隊が兵士たちを奮い立たせ、整然と死地に赴かせたのである。
《キャプテン・デゴリーの鈷吹きのガイヤルド》という曲はよく知られているが、この笛吹きも、軍団の行進、戦闘、凱旋での勤め他、舞踏会では伴妻を行なったはずである。
ルネサンス舞曲では太殻を用いるが、太鼓そのものも、その使い方も軍事技術として発違したものの平和利用と言えるだろう。

こう見てきますと、幕末の少年太鼓手や喇叭手の孤影に、戯画のような鹿鳴館の舞踏会が、不協和音を放ちながら、重ならないでもないのですね。
最後に、軍楽が聞けるサイトを見つけました。
トルコのジェッディン・デデンもありますし、幕末維新のヤッパンマルスもあります。しばらく、聞き惚れてしまいました。

軍楽等のコーナー

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