近藤長次郎とライアンの娘 vol5の続きです。
井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのか?なのですが、そこへ入ります前に、坂崎紫瀾が明治16年の「汗血千里駒」から「維新土佐勤王史」に至るまで、ずっともち続けました近藤長次郎の死の原因に関します「長州に頼っての留学が同志への裏切りと見なされ、自刃を迫られた」という説のうち、「長州に頼っての留学」は、本当だったのかどうか、考えてみたいと思います。
前回、私、慶応元年11月10日付け伊藤の書簡に「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」とあります長次郎の洋行につきましては、「団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航」で書きました肥前鍋島藩の石丸、馬渡、安芸の野村といっしょに行くつもりで、資金は薩摩の小松帯刀が出す話だったのではないか、と推測しました。
石丸、馬渡、野村の三人の洋行は、クラバーが所有する貨物帆船チャンティクリーア号で、長崎からロンドンへ直行したわけでして、食事代以外に船賃はかかりませんし、非常に安上がりです。しかも彼らは、ロンドンよりははるかに物価が安い、と思われますスコットランドのアバディーンで、グラバーの実家の兄さんの世話になっているのですから、薩摩藩の英国留学生などにくらべまして、滞在費も超格安、なはずです。
しかし、グラバーの持ち船が長崎からロンドンへ直行する機会は、頻繁にはなかったように思うんですね。
で、長次郎は、伊藤の書簡から察しまして、「長州のためのユニオン号の周旋でイギリス行きのグラバーの船に乗る機会を逃してしまった」のではないでしょうか。
紫瀾が明治16年から一貫しまして、「長次郎の洋行費は長州に頼ったものだった」としているのに対しまして、グラバーと伊藤博文は、後年の回顧談ながら、「長次郎の洋行費は小松帯刀が出すはずだった」としているんですね。これは、最初に計画されていました石丸、馬渡、野村との洋行の話だったものと思われます。
伊藤の回顧談につきましては、近代デジタルライブラリーの伊藤公直話 「詰腹切った近藤昶一郎」で見ることができます。
そして、中原邦平がグラバーに聞いた話が載っています、明治45年発行「防長史談会雑誌」のコピーが届きました。
これ、私、かなり大昔にコピーしてもらって持っていたはずなのですが、出てきませんで、また山口県立図書館にお願いしました。
長次郎の洋行費用につきまして、グラバーは次のように述べています。
問 上杉の洋行に就て旅費はどこから出しましたか。貴下がお出しになりましたか。
答 多分私がやつたのだらうと思ひます。小松帯刀が幾らか小遣をやり、自分は無代で彼へ地往けるように切符をやり、其他幾らかやつたろうと思ひますが、判然覚えて居りませぬ。小松が多分金をやつたでせう。
真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実 | |
山本 栄一郎 | |
文芸社 |
山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」は、近藤長次郎の洋行につきましても、詳しく考察しています。
参考にさせていただきまして、私なりに、貨物船密航が不可能になりました後の長次郎の洋行について、考えてみたいと思います。
慶応元年10月18日付け井上聞多宛の近藤長次郎の書簡が、「井上伯伝 中巻」(p147-151)に収録されています。その中に、以下のような一節があります。
「第三 書生彼之国之名前にて遠方御遣しの事、この義は今しばらく評議中なり」
「彼之国之名前」は、当然薩摩藩でしょうから、これは聞多が、「うち(長州)の書生を薩摩の名義で洋行させてもらえないかな」と長次郎に頼みんだことへの返答、と推測できます。「その件は、薩摩藩としては、もうちょっと相談させてくれ、ということだよ」ということです。
桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5で書いたことですけれども、中岡慎太郎が9月30日付けで故郷の親族に出しました手紙に、「先頃之思惑にては外国へ参り申度」云々、つまり、「外国へ行きたくて計画したけれど、用事ができて中止になった」とあります。
これ、ですね。私、長州が金を出して、近藤長次郎とともに、石丸、馬渡、野村と同じグラバーの貨物船で洋行する計画だった、と推測したのですが、非常に安上がりな話ですし、近藤長次郎の費用は小松帯刀が、中岡慎太郎の費用は長州が、ということで、まちがいはなかろうと思います。
しかし、実際に石丸、馬渡、野村が乗り込みましたグラバーの貨物船は、10月に出港しておりまして、風待ちで出港が遅れたことを考えますと、台風シーズンが終わりました9月末ころから、乗り込みメンバーは待機する話になっていたのではないか、と思われます。
とすれば、ちょうど中岡が故郷に手紙を出したころ、薩長同盟の周旋で、中岡も長次郎も、乗り込むことが不可能になったのではないでしょうか。
それで、新たな洋行話が持ち上がったのだと思うんですね。
おそらく、なんですが井上聞多が、「うち(長州)の書生を薩摩の名義で洋行させてもらえないかな」と長次郎に頼みました中には、中岡慎太郎がいて、田中光顕がいて、そして長州人もいたのではないか、と思われます。
えーと、ですね。翌慶応2年の4月には、幕府が、海外渡航を解禁します。
この解禁について、私、まったく調べておりませんので、どなたか詳しい方がおられましたら、論文など、ご教授くださいませ。ともかく、いつころから計画されたことなのでしょうか。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2に書いているのですが、慶応元年(1865)7月、横須賀製鉄所建設にともないます機材の購入と技術者雇い入れのために、柴田使節団が渡仏します。
やがて、新納&五代の薩摩使節団もパリに滞在し、火花を散らすのですが、薩摩藩は、密航していながら、欧州におきまして、独立国然としましたやたらに派手な動きを見せまして、洋行を幕府に隠すつもりは、もはやまるでないかのようなのです。
ここまで面子をつぶされますと、幕府としましても、渡航禁止に固執する方が変ですし、解禁に踏み切ろうという議論は、慶応元年の秋くらいから、あったのではないかと思います。しかし。
日本歴史学界の「日本歴史 453号」( 1986年2月発行 )p34-51に、犬塚孝明氏の論文「第2次薩摩藩米国留学生覚え書 日米文化交流史の一齣」が収録されております。
これに慶応元年10月13日付け、ですから、ちょうど長次郎が聞多宛に手紙を書いたころの、在京の大久保利通から薩摩の伊地知壮之丞(貞馨)と市来六左衛門(政清)に宛てた書簡が引用されております。
「木藤市助ほかに一人、遠行の志にて出立候。全体英の含みに候えども、大抵御談之の上、仏の方に差し出されたく、左候えば、ほかに両三氏これあり、左候て、新納、町田如き人を差し出されたき事に候。なにぶん崎陽(長崎)の方に両君のうちにても御出あい成たく候。おおよそ異船は横浜の方とあい考え候えども、彼方は形跡を潜め候ことむつかしきゆえ、探索だけのことにござ候」
なんだか、意味のとり辛い文面なんですけれど、犬塚孝明氏の後の解説を参考にさせていただきつつ、いいかげんな現代語訳を試みてみます。
「木藤市助ともう一人が、洋行したいと言い置いて、京都を発ちました。イギリスに行きたいという話なのですが、私はフランスに行かせる方がいいのではないかと思い、そうなれば、ほかに三人、行きたいというものがいます。さらに、今回の新納や町田のような、家老級の家の人にも行っていただきたいですね。長崎の方へ、両君もお出まし願えればいいのではないでしょうか。外国へ行く船便は横浜の方が多いと思うのですが、なにぶん幕府の目をくらますことがむつかしく、出発前に見つけ出される危険もありますから」
木藤市助は、高杉晋作とモンブラン伯爵で書きました。長次郎の死後になりますが、高杉晋作に詩を贈られました薩摩人で、アメリカに留学しながら、自殺しています。犬塚氏によりますと、尊攘派の過激分子で、英学の知識はまったくなかったそうです。
この時期になってきますと、薩摩藩では、攘夷派の猛者が洋行を望むようになっていまして、中岡慎太郎や青山のじじいも、その影響を受けたのかもしれませんねえ。
まあ、あれです。なにしろ薩摩藩には、広瀬常と森有礼 美女ありき3に書いておりますが、国学の大家にしまして、和歌のお師匠さま、「大理論畧」を著しました八田知紀じいさまがおられますっ!!! えーっ、八田のじさまによりますと、攘夷なんて、馬鹿のやること。日本人は大いに世界に出て、日本こそが神の国だと、世界に向かって説教するべきなんだそーなんですのよ、チェストーッ!!!
「イギリスよりフランスに行かせる方がいい」という部分は、果たしてこの時点で日本に手紙が届いていたかどうかわからないのですが、もしかしますと、技術系の分野でロンドンでは日本人が通う適当な学校がなく、薩摩藩の第一次イギリス留学生のうち、ボードウィン門下の蘭方医留学生、中村宗顯(博愛)と朝倉(田中静洲)は、フランスに行っていまして、それが影響したのかもしれません。そこらへんのことと、新納&町田家の家柄につきましては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1をご参照ください。
続きます「両君の長崎へのお出まし」がなんのことかと思うのですが、木藤市助が横浜からアメリカに渡る世話をしましたオランダ改革派教会の宣教師ブラウンが、ですね、本国のミッション本部宛書簡に「薩摩藩主の弟たちが留学する計画があり、木藤たちはその準備のためにそちらへ行く」というようなことを、書いているんだそうなんですのよ。つまり、実現はしませんでしたけれども、どうも、島津家の御曹司を留学に出そうという話が、あったようです。
えー、藩主の弟君の洋行計画があったとしますならば、ですね。
大久保のおフランスへのこだわりは、あるいは、セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いたの新納とうさん(刑部)が、「大久保さあ、欧州貴族の共通語はフランス語ごわす!」と手紙に書いた、とか。
そして、この時点ではまだ、薩摩藩にも、幕府が海外渡航の解禁を考えている、という情報は、入っていなかったようです。大久保は、「横浜からでは目につきやすいので長崎がいい」と言っていますし。
およそ8ヶ月後、慶応2年7月3日、実際に木藤がアメリカ留学に旅立ちましたときには、解禁されていまして、木藤は横浜からアメリカの船で太平洋を越えています。
あるいは、ですね。井上聞多が、「留学生も薩摩の名義を借りて」と思い立ちましたのは、沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州に書いておりますが、8月のはじめころ、沢村惣之丞は開成所のオランダ語教師として薩摩にいまして、大久保も薩摩に帰っておりまして、そこへ、小松帯刀の帰藩にあわせ、近藤長次郎が井上聞多を連れて、薩摩入りします。
このとき聞多は、薩摩がまた留学生を送り出す、という話を聞いて、さっそく、「長州人もまぜて欲しい」と、とりあえず大久保と小松に頼んでいたのではないでしょうか。
結局、薩摩の第二次留学計画は二転三転しまして、藩主の弟たちは洋行しておりません。そして、沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州でご紹介しましたが、中岡慎太郎が日記に「岩下方平と新納刑部は子供を海外留学に行かせるために、それぞれ知行を五百石出した」と書き付けております私費留学の新納、岩下少年はフランス留学で、モンブラン伯爵の世話になっておりますが、残りの藩士達はみな、費用が安くてすみますアメリカ留学に変更になりました。
しかし、犬塚氏によりますと、その第一陣、仁礼景範、江夏蘇助、湯地定基、吉原重俊(大原)、種子島敬助は、慶応2年3月26日、幕府の渡航解禁直前に、長崎を出港しました。彼らは、上海経由、喜望峰まわり、ロンドン経由でアメリカに行っていまして、ロンドンで一週間、薩摩藩英国留学生たちの案内で見物しております。
つまり、ですね。彼らは、第一次英国留学生のような派手さはありませんで、アメリカの帆船(おそらく貨物船)で、この旅をしたようですが、イギリスへよっているのですから、長州から留学生を頼まれましたら、イギリスまでいっしょに連れていくことは可能でしたし、それほど高価な旅でもなかったんですね。
私、長次郎が生きていましたら、この第二次の薩摩藩米国留学生に同行し、そしておそらく、中岡慎太郎と田中光顕、あと長州人がいく人か、とともに、イギリスへ行く話になっていたのではないか、と思います。
長次郎の最初の洋行は、伊藤の書簡によれば、どうも、ユニオン号の周旋で、長州のために行けなくなったわけですから、お詫びの意味で、長州からも多少の資金援助は、ない方が失礼な話、ではないでしょうか。
「井上伯伝」に、ユニオン号の扱いにつきまして、下関でちょうどもめている最中、慶応2年12月10日付けの伊藤博文から桂小五郎(木戸)宛の書簡が載っています。以下、引用です。
「井上先生出足の節、委曲談じ置き申し候ことにつき、御聞きとりくださるべく候ところ、英ミニストルの論は、幾重も密々御熟慮御謀り、まづ廟算を厚く御取極めの上、薩へ御談合あられたく、反覆熟考仕候へは、これすなわち皇威回復の基ともあいなるべきかと存じ奉り候。さすれば、千載の一時、機を失うべからざる事につき、ひとえに御尽力あられたく、伏願い奉り候。上杉もこれが為に英行したき存念にござ候ところ、ミニストル左様の主意これあり候へば、実にこの間に力を尽くしてみたしと雀踊しおり候。とくと井上先生より御聞きとらるべく候。私崎陽(長崎)行つかまつり候へば、上杉もぜひ同行したきと申す事にござ候。さすれば無理に蒸汽(船)でなくても、陸行にても苦しからずと存じ奉り候」
これまた、意味がとり辛い文面なのですが、ご参考までに、以下、超いいかげんな現代語訳です。
「井上聞多先生がそちらへ向かいまして、細かいことは話しておきましたので、お聞き取りください。イギリス公使パークスの論は、あくまでも内密の内によくお考えになって、深謀をめぐらして取り決めた上、薩摩へ話し合いをされるべきで、よくよく考えてみましたならば、これが朝廷の権威を回復する基ともなろうかと思います。だとすれば、これはまれな機会で、時期を逃すべきではなく、上杉(長次郎)もこのために、イギリスに行くつもりでいるのですが、イギリス公使にそのような考えがあるのなら、間に立って力を尽くしてみたいと、張り切っております。じっくりと聞多先生よりお聞きになってください。私、長崎へ行きますが、上杉もぜひいっしょに行きたいということです。無理にユニオン号ではなくても、陸行でもかまわないと思っています」
なにより、です。「イギリス公使パークスの論」とはなにか???でして、わけがわからないのですが、中原邦平が次章で解説していますところでは、高杉晋作とモンブラン伯爵に書いております五代友厚のものすごい反幕プロパガンダにつながる話です。
モンブラン伯爵につきましては、アーネスト・サトウ vol1に書いておりますが、在日イギリス公使館の若き日本語通訳官アーネスト・サトウに並びまして、薩摩の味方につき来日までしまして大活躍したわけなのです。しかし薩長の元勲たちの、これだけはものの見事な連携で、その足跡が歴史から消されまして、中原邦平にわけがわかっているのだとは、とても思えません。
とはいいますものの、中原邦平が書いております大筋がまちがっているわけではなく、おおざっぱにいえば、フランスに対抗しまして、イギリスが薩長の後押しをする、という話です。
実際フランスは、レオン・ロッシュの公使着任により、元治元年の半ばくらいから幕府よりの姿勢をとり、排他と独占に基づく貿易を指向まして、在日イギリス商人の多大な反発を買っていたんですね。
だいたい、私がこのブログを始めましたのは、えー、桐野利秋(中村半次郎)ゆえではなく、実はモンブラン伯爵に関する情報をどなたかもってきてくださらないものかと、せっせと書き始めたわけでございまして、結局、ブログゆえに得られた情報といいますのはほとんどなったのですけれども(それまでの友人がくださった情報は大きかったですけれど)、ともかく、横須賀製鉄所と生糸交易と薩摩藩幕末イギリス留学生と幕末維新の英仏兵制論争は、すべてモンブラン伯爵がからみますので、このブログの大きなテーマです。
そして……、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4を書きました時、このテーマに、近藤長次郎も大きくかかわっていたことを知ったのですが、いや……、私、龍馬のまわりにこれほど優秀な人材がいたことをこれまで知らずにいまして、驚きました。
ともかく。
伊藤の手紙が書かれました慶応元年の12月は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書いておりますように、五代友厚のフランスでの策動はすでに終わっていましたが、まだ帰国の途にはついていませんし、寺島宗則のイギリス政府への働きかけは、まだ本格化しておりません。
しかし。
考えてみましたら、五代と寺島は、藩庁と関係なく動いていたわけではないのですから、日本国内で、この年閏5月に公使として着任しましたハリー・パークスを、薩摩へ招く動きはすでにあったでしょうし、薩摩が中心となった雄藩連合構想も、あるいは形になりつつあったかもしれません。
そして、パークス本人はともかく、通訳官のアーネスト・サトウは、なにしろ長州には海上交通の要所下関がありますし、すでにもう、雄藩連合には長州を加えるべきだと考えていて、イギリスはそれを後押しすると、伊藤、井上に語ってしまった可能性があります。
高杉晋作とモンブラン伯爵で、慶応2年3月、高杉晋作は、伊藤とともに薩英会談に同席して、その足で洋行しようと考えますが、実はこの薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう、ということこそ、伊藤が書簡で「上杉(長次郎)も間に立って力を尽くしてみたいと、張り切っております」と書いたこと、だったんじゃないんでしょうか。
長次郎の死で、長州を代表する高杉の薩英会談同席をセットできる人材は、消えてしまったわけです。
こうして見て参りますと、長次郎の洋行は長州に頼ったものとは言い難く、むしろ長州の方が、長次郎を仲介として薩摩に頼りたい、ということだったと、わかって参ります。
にもかかわらず坂崎紫瀾が、「長州に頼っての留学」と一貫して書き続けたにつきましては、やはりこれは、高松太郎から出た話だったろうとしか、思えないわけなのです。
それで、肝心の井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのか?なのですが、長くなりすぎてしまいました。
グラバー談話のコピーが届いたことは、すでにお話ししましたが、実は、これを読んでいますうちに、墨塗り部分には、グラバー談話も関係するのではないだろうか、という感を強くしまして、勝手ですが、次回に続きます。
今度こそ、ちゃんとお話できようかと思います。
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