大阪マダムの人生奮闘記

英語資格制覇の後はコミュニティー通訳デビュー。
愛しい息子のお世話と英語道。激忙専業主婦の徒然日記♪

わが子と生きる (支援学校 HP 手記 掲載文) 

2013年11月12日 19時10分26秒 | 息子のこと
 親の想い~わが子と生きる~

障がい児の母であること
小学部 保護者 母 

もうすぐ小学部を卒業。毎朝、箕面の山を眺め、息子を支援学校に送る。こんな日が来ることなんか思ってもみなかった。賢也が小さい頃は毎月入院。そして24時間の付き添い。目の前の息子だけを見て、痰の吸引とおむつ交換で一日が終わり、空を見上げることも、季節の移り変わりに気づく心の余裕もなかった。


■試練
生後三か月の時。ぜんそく様気管支炎と診断され、入院した総合病院の会議室に呼ばれた。事務長、小児科部長、看護婦長、その他大勢の座る中、私たち夫婦にこう告げた。
「息子さんの処置に重大な医療過誤がありました。申し訳ありません。脳に重い障がいが残り、今後、歩いたり、話したりすることはできないかもしれません。」と。

その二日前、容体が急変したとNICUに呼ばれ、駆けつけた時には息子は土色で、数名のドクターに囲まれ、心臓マッサージを受けていた。何が起きたのか理解できなかった。その時には何も告げられなかったから。人工呼吸管理中に担当看護師が接続回路を間違え、両肺に穴が開き、どんどん送られた空気が心臓を圧迫し、心停止するという医療事故だった。「なんということをしてくれたのだ。取り返しのつかないことを・・・。あなたたちが息子のこと忘れることがあっても、私は絶対に、あなた方の過ちを一生忘れないし、決して許さない。」そう罵倒したことを覚えている。

今にして思えば、子供に障がいがあることを自分のせいだと責める母親にならずに済み、攻撃できる相手がいたことは、当時、せめてもの心の救いになったのかもしれない。私たち夫婦は、転院せず、その病院で二年半の間、息子の治療に専念する決断をした。その方が息子に最善の治療、環境を与えると判断したからだ。

地獄のような日々が続いた。障がい児の母親になること。正直、あの事故の時に息子は死んでしまったほうがよかったのじゃないか。食べることもできなくなり、人間として生きている価値があるのか。自分の人生の中で、「どんなに努力しても変えられない、最大の挫折」だった。どんなにあがこうとも、絶対に健常児にはなれない。障がい児、それも一生寝たきりの最重度。事故後一か月経過して撮った脳のCT画像は脳が委縮し、半分ほどの容積になっていた。努力して何かができるレベルじゃない。何十冊も、答えを探して、親の手記本、発達障がいの本、療育の本を読んだ。いろいろな人からの励まし、希望のある言葉は、すべて自分には届かなかった。

そのような怒涛の日々の中、ふと思った瞬間が来た。「答えはない」のだということを。「答えがないのが答え」であり、自分がこの息子の人生を引き受け、自分が答えを出してやるしかないと。自分が答えをだし、決断するためには自分がしっかりしていなければならないことを。事故後、別人のようになり、無表情のまま、病室の天井を見つめていた息子が半年ぶりに笑った。涙が溢れ出た。


■あきらめ
二年後、長女を出産した。もう一人健常児を産めば全てが相殺されるような気がした。何が相殺できたのか。未だ答えはでていない。息子は事故を起こした病院に預け、長女は他の病院で出産した。正直なところ、そのころ、二人は育てられなかった。息子の度重なる入院付き添いで病院から出られず、新生児を育てられるはずがない。産んだだけで、半年ほど両親に預けたきり。長女を引き取った時には離乳食が食べられるようになっていた。健常な子供はこれ程、簡単に成長、発達するのかとびっくりしたのを覚えている。

息子が3歳の時、阪大病院で精密検査を受け、肝門脈欠損症、心房中隔欠損症が基礎疾患であることも判明した。根本治療は肝移植しかないこと。脳のダメージがあるために移植待機者にもなれないこと。息子は医療事故がなかったとしても大変な運命を背負ってきたこと。夫婦で天命をまっとうさせる決意をした。夫婦で息子を抱いて泣いた。

■一日一日を過ごす ~母として、一人の女性として~
母として、健常児の世界と障がい児の世界を行き来して思うことがある。健常児には社会はあらゆる選択肢を用意してくれているということだ。教育を受ける学校、そして社会に出て働く場所、当然のように生きていける社会・・・。親が闘わずとも、何かしらの道がある。ところが、障がい児にはその選択肢が少ない。教育以外に、医療、福祉と、健常児ならば考慮の要らない分野まで複雑に絡む。その中で障がい児の母親は健常児の母親より、「賢明」であらねばならないと思った。
 
介護で親子がひきこもりがちの中、自分の考えや主張は社会通念に通用するのか。視野が狭くなっていないのか。常に自分たち親子を客観的に見る自分を置かねば感情の渦にのまれてしまう。息子が皆に愛され、助けられ、本人の手足、目、耳、口に代ってやり、最良の環境を選択し、進ませるには、母が賢明であらねばと思った。そのためには様々な分野の情報、人々の意見を取り込み、自分の判断力を養い、母として決断する「強い軸」を作らねばと思った。

最初、死んでしまった方がよかったと思った息子が、今は愛おしい。一人、また一人と息子の友達が逝ってしまう中、次は自分の息子じゃないのかと怯える夜がある。息子の介護ベッドが仏壇に代わり、その前で自分は寝て、年老いていくのかという恐怖がある。息子を失うことを乗り越えられるのか。一日でも長く生きていてほしい。それでも、自分よりは先に逝ってほしい。母親が誰か、わからなくてもいい。自分が産んだという事実、わが子だと自分がわかっていれば。何もできなくてもいい。体が温かく、その体を抱いてやれるのなら。

一方、一人の女性としてもすっくと立ち、凛として生きたいと思う。「障がい児の母」としてだけで終わる人生でありたくはない。「母親」「一人の女性」、その両輪のバランスがあってこそ、「障がい児の母」としても、ちゃんと立っていられる気がするのだ。


年々重くなる息子。年々気力体力が衰える自分。先がどうなるのか考えたらきりがない。息子が笑顔でその日を終え、次の朝、また生きていてくれて、学校へ行く準備をし、バギーに乗せて、送る。その一日一日のつながりが、短いかもしれない息子の人生の大部分になるだろうから。
また明日も、季節を感じ、賢也を支援学校へ送ります。