大阪マダムの人生奮闘記

英語資格制覇の後はコミュニティー通訳デビュー。
愛しい息子のお世話と英語道。激忙専業主婦の徒然日記♪

2020年3月 息子の卒業式 ~そしてこの先は

2020年03月17日 14時54分33秒 | 息子のこと

無事、息子の高等部の卒業式が終わり、ほっとしています

今日は英語の話は横に置いて、親子で歩んだ12年間の学校生活をしみじみ思い出しながら一日過ごします。

大阪府支援学校の機関雑誌に今月掲載された原稿をここに貼り付けておきます。関心のある方は読んでね。ちょっと長いけど、息子と歩んだ18年とその想いです。

息子を支えていただき、応援してくれた多くの方々に感謝します。ありがとうございました。また親子で一日一日頑張って行きます。

4月から在住市の福祉施設に通所してまた充実した日々が送れますように

 

そしてこの先は


● 学校教育の修了

箕面の山々の四季の移り変わりを見ながら、息子を学校に送り続けた12年間がそろそろ終わりに近づこうとしています。雨の日も風の日も雪の日も、元気な限り送り届けました。

 息子賢也は生後間もない頃、肝臓と心臓に難病が見つかり、またその後、不慮の医療事故で脳症を患い、寝たきりになって、医療的ケアが必要となりました。その当時のことを思い出すと胸が苦しくなるし、あのとき事故に遭わなかったらどうだっただろうなどと思う事もずいぶん昔にやめました。今は事故後の息子の状態を受け止め、一日一日を大切に、息子とともに人生を歩んでいます。

 箕面支援学校小学部入学から12年間、この学校での支援教育を受け、学校生活を送ったことは、親として最大に誇らしいことだと思っています。息子の発達段階や体調を見て、様々な教育カリキュラムを提供してもらい、息子の発達の可能性を最大限引き出す努力をしてくれたと思っています。学校行事もほとんどすべて休むことなく体験できたし、多くの先生方に支えていただきました。
 二歳下に健常な子供を持って思う事は、「どんな発達段階、体の状態であっても、人は教育を受け、学び続けることがその人にとって、一度しかない人生を全うする上で、非常に有意義で大切な事」だということです。

 健常な子供が通う学校では、達成や成果を数字で表し、評価したり、それを子供も、先生も、親も期待し、目標にすることが多いのが現実です。ある意味、息子の場合の目標数字は、「元気に笑顔で一日を過ごし、学校生活を楽しみ、短いかも知れない人生を輝いて生きる年数」であったと思います。
息子は喜怒哀楽はありますが、自分で何ができるわけでもなく、健常な人々の社会生活と同じようなペースで過ごしたり、活動することができません。社会で普通に暮らすこと、普通に人生を送ることがこれほどまでに困難で、多くの人々の支えを必要とする我が子の人生は、意味があるのだろうか、と悩んだこともありました。

そんな息子であっても、日々の大半の時間を占める学校から帰ってくると、目が活き活きとしているのがわかりました。長期休みで家にいることが多いと息子が退屈そうにため息をつくこともありました。やはり息子にとって、この箕面支援学校での教育、学校生活、先生方がかけがえのないものであったと思っています。
 

 毎朝、息子を起こすときに抱きしめて、その日の体温を感じ、生きていること、体調安定であることを確認し、そして「学校に行く人!元気な人は勉強しに行かないと!」と声をかけて一日が始まります。夜寝る前にはベッドのそばで、学校から持ち帰った連絡帳を見ながら、「一日の振り返り」として話しかけ、そして「今日も一日ご苦労ちゃんでした!ようがんばって賢こかったな~!また明日!おやすみちゃん!」と語りかけてその一日を終えてきました。
そろそろそんな学生生活が終わろうとしています。

● 家族として

 息子は家族を理解しているのでしょうか。私にもわかりません。事故後、短命で健常な人生ではないと早い段階で予測ができ、事故を起こした病院から「兄弟をぜひ産んで下さい」と言われ、2年後、別の病院で娘を出産しました。

 この18年間、息子は家族の中心であり、すべて息子中心で回ってきたところがあります。小さい頃は入退院も多く付き添い入院で私もいない中、娘はほとんど祖父母に育てられてきました。本当に兄弟を持って良かったのか、娘がかわいそうじゃないのかと思ったこともありました。しかし、今思えることは娘にとっての「兄の存在」、息子にとっての「妹の存在」は日々の暮らしの中で、「お互いがいることで自分自身を高めていく」そんな関係にあるなということです。こういう環境で育ってきた娘の二年後の進学先は看護学部志望。妹に話しかけられて喜ぶ息子の姿を見るとお互いが共鳴しあい、影響しあって育っているように感じます。

小さい頃は家族旅行をよくしました。沖縄、北海道、グアム、セブ島など、親の自己
満足だったかもしれませんが、とにかく家族一緒に遠出をしました。
グアムの海で息子が浮き輪に入って娘と二人で笑っている写真は家族の宝物です。

 私は出産し、子育てが一段落したら、社会での自己実現や就労をしたいと望んで
いました。しかし、息子の難病や障害、入退院や通院の多さなどでそれができず、30代、40代では息子の存在を疎ましく思ったことがありました。50代に入り、心身ともに息子の介護がきつくなってはきましたが、ふと、「自分が死ぬときに人生でしなかったことで一番後悔することは何か」と考えた時、自己実現や就労ではなく「息子の世話に手を抜き、あれをしてやればよかった、こうしてやればよかったと思うこと」だという答えが出たのです。何だか、雲が晴れた気がしました。生まれたときより、事故に遭ったときより、今、日々一日一日と愛おしさが増し、息子が生まれてきてそばにいて笑ってくれることが有り難いと思っています。


この子がいるから日々頑張れていて、何の変哲もない、家族と過ごす普通の日常が
一番幸せと感じるのです。

●そしてこの先は

 支援学校小学部に入学した時、息子と同じような医療的ケアが必要なお友達は3人
いました。中学部にあがる頃にはお友達3人はもう、先に逝ってしまい、息子だけになりま
した。「10歳くらいまでです」と医者に言われてその年齢をヒヤヒヤしながら過ぎ、気がつ
くと、高等部を卒業する日が目の前に来ていました。

 学校という、守られた温かい環境、人々の支えの中で過ごし、今後福祉の環境で息子はどのように過ごすことになるのだろう。どんな人々の支えで生きていくことになるのだろう。母として息子とこれからどんな風に関わり、様々な決断を息子の代わりにしてやらねばならないのだろうと思っています。
  この先、どんな喜び、試練が待っているのでしょうか。
健常な子供を持った親にはない心配があります。「自分が病気になったらこの子は誰が
看てくれるのか」「いつか息子との別れが必ず来る」そう怯えてきた18年間でした。「怯え
る自分」と「覚悟をする自分」が毎日どちらかが大きくなったり小さくなったりのせめぎあい
で日々進んできたように思います。

 箕面の山の景色の変化を日々感じ取れなくなるのが本当に寂しい。毎日息子の準
備をして車に乗せ、運転して連れて行くことがここ数年、自分に負担になってきていたの
で、春から自宅前で福祉施設の車の送迎があることは有り難いです。親も子も、年齢に
応じた変化を受け入れていくことが大切で、その時期が来たと思っています。
これから起きる様々なことも、あらがうことなく、自然の流れとして受け止めて行こう
と思っています。


 賢也を支えてくれた多くの先生方、人々に感謝して、生きている喜びを感じて前に進みます。
12年間の貴重な日々を支えていただきありがとうございました。

賢ちゃん、これからもまた一緒に頑張って行こうね。

                     

 

 

 


わが子と生きる (支援学校 HP 手記 掲載文) 

2013年11月12日 19時10分26秒 | 息子のこと
 親の想い~わが子と生きる~

障がい児の母であること
小学部 保護者 母 

もうすぐ小学部を卒業。毎朝、箕面の山を眺め、息子を支援学校に送る。こんな日が来ることなんか思ってもみなかった。賢也が小さい頃は毎月入院。そして24時間の付き添い。目の前の息子だけを見て、痰の吸引とおむつ交換で一日が終わり、空を見上げることも、季節の移り変わりに気づく心の余裕もなかった。


■試練
生後三か月の時。ぜんそく様気管支炎と診断され、入院した総合病院の会議室に呼ばれた。事務長、小児科部長、看護婦長、その他大勢の座る中、私たち夫婦にこう告げた。
「息子さんの処置に重大な医療過誤がありました。申し訳ありません。脳に重い障がいが残り、今後、歩いたり、話したりすることはできないかもしれません。」と。

その二日前、容体が急変したとNICUに呼ばれ、駆けつけた時には息子は土色で、数名のドクターに囲まれ、心臓マッサージを受けていた。何が起きたのか理解できなかった。その時には何も告げられなかったから。人工呼吸管理中に担当看護師が接続回路を間違え、両肺に穴が開き、どんどん送られた空気が心臓を圧迫し、心停止するという医療事故だった。「なんということをしてくれたのだ。取り返しのつかないことを・・・。あなたたちが息子のこと忘れることがあっても、私は絶対に、あなた方の過ちを一生忘れないし、決して許さない。」そう罵倒したことを覚えている。

今にして思えば、子供に障がいがあることを自分のせいだと責める母親にならずに済み、攻撃できる相手がいたことは、当時、せめてもの心の救いになったのかもしれない。私たち夫婦は、転院せず、その病院で二年半の間、息子の治療に専念する決断をした。その方が息子に最善の治療、環境を与えると判断したからだ。

地獄のような日々が続いた。障がい児の母親になること。正直、あの事故の時に息子は死んでしまったほうがよかったのじゃないか。食べることもできなくなり、人間として生きている価値があるのか。自分の人生の中で、「どんなに努力しても変えられない、最大の挫折」だった。どんなにあがこうとも、絶対に健常児にはなれない。障がい児、それも一生寝たきりの最重度。事故後一か月経過して撮った脳のCT画像は脳が委縮し、半分ほどの容積になっていた。努力して何かができるレベルじゃない。何十冊も、答えを探して、親の手記本、発達障がいの本、療育の本を読んだ。いろいろな人からの励まし、希望のある言葉は、すべて自分には届かなかった。

そのような怒涛の日々の中、ふと思った瞬間が来た。「答えはない」のだということを。「答えがないのが答え」であり、自分がこの息子の人生を引き受け、自分が答えを出してやるしかないと。自分が答えをだし、決断するためには自分がしっかりしていなければならないことを。事故後、別人のようになり、無表情のまま、病室の天井を見つめていた息子が半年ぶりに笑った。涙が溢れ出た。


■あきらめ
二年後、長女を出産した。もう一人健常児を産めば全てが相殺されるような気がした。何が相殺できたのか。未だ答えはでていない。息子は事故を起こした病院に預け、長女は他の病院で出産した。正直なところ、そのころ、二人は育てられなかった。息子の度重なる入院付き添いで病院から出られず、新生児を育てられるはずがない。産んだだけで、半年ほど両親に預けたきり。長女を引き取った時には離乳食が食べられるようになっていた。健常な子供はこれ程、簡単に成長、発達するのかとびっくりしたのを覚えている。

息子が3歳の時、阪大病院で精密検査を受け、肝門脈欠損症、心房中隔欠損症が基礎疾患であることも判明した。根本治療は肝移植しかないこと。脳のダメージがあるために移植待機者にもなれないこと。息子は医療事故がなかったとしても大変な運命を背負ってきたこと。夫婦で天命をまっとうさせる決意をした。夫婦で息子を抱いて泣いた。

■一日一日を過ごす ~母として、一人の女性として~
母として、健常児の世界と障がい児の世界を行き来して思うことがある。健常児には社会はあらゆる選択肢を用意してくれているということだ。教育を受ける学校、そして社会に出て働く場所、当然のように生きていける社会・・・。親が闘わずとも、何かしらの道がある。ところが、障がい児にはその選択肢が少ない。教育以外に、医療、福祉と、健常児ならば考慮の要らない分野まで複雑に絡む。その中で障がい児の母親は健常児の母親より、「賢明」であらねばならないと思った。
 
介護で親子がひきこもりがちの中、自分の考えや主張は社会通念に通用するのか。視野が狭くなっていないのか。常に自分たち親子を客観的に見る自分を置かねば感情の渦にのまれてしまう。息子が皆に愛され、助けられ、本人の手足、目、耳、口に代ってやり、最良の環境を選択し、進ませるには、母が賢明であらねばと思った。そのためには様々な分野の情報、人々の意見を取り込み、自分の判断力を養い、母として決断する「強い軸」を作らねばと思った。

最初、死んでしまった方がよかったと思った息子が、今は愛おしい。一人、また一人と息子の友達が逝ってしまう中、次は自分の息子じゃないのかと怯える夜がある。息子の介護ベッドが仏壇に代わり、その前で自分は寝て、年老いていくのかという恐怖がある。息子を失うことを乗り越えられるのか。一日でも長く生きていてほしい。それでも、自分よりは先に逝ってほしい。母親が誰か、わからなくてもいい。自分が産んだという事実、わが子だと自分がわかっていれば。何もできなくてもいい。体が温かく、その体を抱いてやれるのなら。

一方、一人の女性としてもすっくと立ち、凛として生きたいと思う。「障がい児の母」としてだけで終わる人生でありたくはない。「母親」「一人の女性」、その両輪のバランスがあってこそ、「障がい児の母」としても、ちゃんと立っていられる気がするのだ。


年々重くなる息子。年々気力体力が衰える自分。先がどうなるのか考えたらきりがない。息子が笑顔でその日を終え、次の朝、また生きていてくれて、学校へ行く準備をし、バギーに乗せて、送る。その一日一日のつながりが、短いかもしれない息子の人生の大部分になるだろうから。
また明日も、季節を感じ、賢也を支援学校へ送ります。