杉浦 ひとみの瞳

弁護士杉浦ひとみの視点から、出会った人やできごとについて、感じたままに。

・東京大空襲裁判~3月9日提訴します

2007-02-09 01:33:27 | 憲法問題
1945年3月10日に東京大空襲がありました。私もこの裁判を起こすことになり被害者のかたたちから直接お話をうかがうまで、戦争がこれほど悲惨なものだとは知りませんでした。

東京大空襲の被害実態 (弁護団のY弁護士の文章をもとに)

第二次世界大戦における日本のいわゆる内地における民間人の戦没者は約60万人。その内訳は、おおざっぱにいえば 
半分の30万人が広島・長崎の原爆による犠牲者、
残る30万人が三等分され、①東京大空襲、②沖縄戦、③その他の都市空襲等の犠牲者が、それぞれ10万人ずつとなる。

東京への空襲は130回、犠牲者11万人余であるが、その9割に及ぶ10万人余が、1945年3月10日の東京大空襲による犠牲者である。東京大空襲では、午前零時8分からわずか2時間余の空襲で、これだけの生命が奪われ、被災者は100万人、焼失家屋は27万余戸に上る。通常兵器による空襲では世界史上他に例を見ず、後の広島の原爆にも匹敵するほどの大被害と言える。

来襲したB29爆撃機は325機。その作戦は、先導隊がM47焼夷弾(大型ナパーム弾)約3,000発を投下し4方面に火の壁を作り、脱出口を塞ぐ。それから、その中のまだ燃えていない暗い地域を、日本の木造家屋向けに開発したM69焼夷弾約18万発で、碁盤目に一つずつ焼き尽くしていく。東京東部一帯は大火流に呑みこまれ、火の海の沸騰となった。 劫火により風速50メートルを超える烈風が吹き荒れ、烈風はふいごの役割を果たし、下町地域全体を巨大な火のるつぼに変えた。火は、空中に燃え上がるのではなく、地上を水平に走っていく。避難民でごった返す道路では、頭髪や衣服・荷物が高熱のため自然発火して、火だるまとなった人々が火点となり、火点が次々と結ばれて、群集の絶叫とともに道路に火流が走った。指定された避難場所は、ほとんどが地域の学校だったが、人々が殺到しラッシュ時の満員電車内のようになった鉄筋コンクリート造の講堂は、窓ガラスを一瞬にして溶かし生き物のように建物内に侵入した劫火により、白熱の溶鉱炉と化した。川に逃げ込んだ人々も、死から逃れることはできなかった。水面から首だけ出していた人々は、両岸から吹きつける熱風と火焔で、瞬時に頭髪を焼かれて焼死したり、酸欠により窒息死あるいは一酸化炭素により中毒死したりした。また、薄氷の浮いていたあまりにも低い水温は、人々を、ショック死、凍死、溺死させた。

「米陸軍航空軍史」には、「帰還飛行中の尾部銃手は、150マイルの距離から、なお東京の真紅の光芒を見ることができた。」と記されている。150マイル、すなわち、東京駅を基点に東海道を下れば浜松に相当する距離の洋上から、東京の地獄の劫火は、なお認めることができたのである。
世田谷方面からは、B29が過ぎ去った後に墨田、深川方面で、火炎の竜巻(火柱)が何本も1分おきくらいに次々と立ち上っては消えていくのが目撃されている。目撃者によれば、恐ろしい静寂の中、火柱が立っている間は、家や人が焼かれていく地鳴りのようなザワザワという音が聞こえ、さらに、そのざわめきの中から、弱々しく断続する人声のような高い音が、かすかに聞こえてきたという。それは、おそらく、火柱の下で、人々が発していた、家族を呼ぶ声、叫び、うめき、慟哭の集積音であったに違いない。



そして、この被害のひとつひとつには、親が子を失う辛さ、子が親を失う悲しさ・寂しさと傷や痛みや後遺症の苦しみが消えることのない長きに渡って残されることを想像しなければならないと思います。


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