風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

我思う……

2016-06-07 08:19:53 | つぶやき



我思う、ゆえに我あり。なんてえことを申しますが、


岡潔先生によりますと、この場合の「我」とは、真我の「我」であって、小我の「我」ではないそうです。


小我の我を「我」だと思っているから間違える、真我の我が「我」だと気づかなくちゃいけない。


日本人ならそれができるはず、と、岡先生はおっしゃっておられる。


大概の人は、小我の我を「我」だと思っちゃってます。


しょうがねえなあ……。








昨日6月6日は「オーメン」の日、


なんてえことは、もはや誰も言いませんねえ。



オリジナル版の第1作は映像が綺麗でね、怖いとかなんとかより、そっちに感心してしまって、何度も繰り返し観たものです。

2作目以降は同じ監督なのに、急に映像の質が落ちてしまって、急激につまらなくなってしまった。

あれはなんでだろうねえ。惜しかったなあ。



いわゆる残酷シーンとかも、とてもスタイリッシュで、ある意味美しかった。ああいうものに美しさを感じる感性って、どうなの?と、思われる方もおられるでしょうが、

そうだったのだから、仕方がない。

特に、デヴィッド・ワーナーの首がガラス板で切断されるシーン。明らかに作り物だとわかる首なのだけれど、その首がスローモーションでクルクルと回転しながら宙を跳び、地面に落ちるまでの一連のカットの、カメラ・アングルからカット割りから、すべてがほぼ完ぺきで、めちゃめちゃ綺麗でカッコよかった。


オーメンはのちに、リメイク版が制作されるのですが、この時はCGで首切断を表現したのですが、これがメチャメチャつまらない!リアルっちゃあリアルなんだけど、味もそっけもない、全然つまらないシーンになり果てており、あきれ返ってしまったのを覚えています。





CGでありすれば良い?ホントにそうですか?



一生懸命知恵を絞って、アナログでいかに面白い、良い映像を作るか、創意工夫を凝らしていたころの映像には、人間のなんというか、

ぬくもり、とでもいうものが感じられます。

それが残酷シーンであろうが、怪獣であろうが、そこには「人」がいるんですよねえ。


何度も言いますけど、CGを否定はしません。CGにも随分と楽しませてもらってます。しかしね、


人々の創意工夫の結晶であるアナログ映像を、安易に否定する風潮は、私には頂けないし、


ある種の「危惧」すら、感じますねえ。





うかうかしてると、そのうちホントに、なにもかもが、





機械に乗っ取られるかも


知れないよ……。

東映スター・システムの極致 映画『ご存じいれずみ判官』 昭和35年(1960)

2016-06-06 06:36:32 | 時代劇










かつて、東映や日活は「スター・システム」、東宝は「プロデューサー・システム」などと云われていたそうです。


スター・システムというのは、とにかくスター俳優が一番エライ。あくまでスターさんを見せる(魅せる)ために映画を作る、ということらしく、対するプロデューサー・システムというのは、制作、監督サイドが俳優より地位は上で、俳優は制作サイドの支持通りに動く。



東映あたりの撮影所では、現場にスターさん専用の椅子が用意されていて、スターさんが座ると、なにも言わないのにタバコが差し出され、それを指に挟むと、何も言わないのに火のついたライターが差し出されたとか。まさに上にも下にも置かぬ扱い。


これが東宝の撮影所だと、スター中のスターである三船敏郎さんが、自らスタジオの庭先を箒で掃いていたそうな。

えらい違いですねえ。




その東映のスター中のスターであり、会社重役でもある片岡千恵蔵御大主演ですから、ひたすらに千恵蔵御大を「魅せる」ことに終始しており、細かいストーリーの粗なんかど返ししちゃってる(笑)






片岡千恵蔵最大のはまり役、遠山の金さんシリーズ第16作目にあたる映画で、金さんがまだ北町奉行に就任する前の話なんですね。


金さんは旗本の次男坊、兄に家督を継がせるために、わざと放蕩三昧を繰り返し、背中に彫り物まで入れて家を飛び出し、遊び人となっていました。

しかし、長崎奉行を務めていた父に、抜荷(密貿易)に加担していたとする疑いがかけられ、父の無実を晴らすために東奔西走する金さん。



もうね、冒頭の浪人者たちとのケンカシーンからして、かっこいいわけですよ。明らかな段取りだとわかる動きなんだけれども、実に華麗な動きで思わず見入ってしまう。リアルではないのだけれど、なんだろう、とても見事な歌舞伎を見せられたかのような感動を覚えるわけです。


そう、リアルさは必須ではなかったんです。この美しい「段取り」に感激する感性、時代劇にはこの感性が大事。最初から金さんが勝つことはわかりきっているわけですよ。あとはいかにかっこよく美しく、立ち回りを極めるか。


そこが大事だったわけです。



金さんはスーパーマンです。絶対負けない、なんでもできる。加賀藩の家老がどうやら抜荷にかかわっているらしいと知るや、実にあっさりと屋敷の庭先に侵入し、庭の端っこに隠れているのに、なぜか座敷の奥で密談を交わしている悪家老(山形勲)らの会話がわかってしまう。


火事になれば町火消を助けて屋根にも上がるし、娘たちが異国に売り飛ばされそうになっていると知るや、その場に駆け付け大立ち回り。


そのときの金さんおなじみの極め台詞がコチラ。


「ご存じの金さんよ!といったところで吐いて捨てるほどある名前だ。それより名札替わりに金看板の、遠山桜を見せてやらあ!」

ここで片肌を脱ぐ金さん、見事な桜吹雪のいれずみが現れる。

「なんでえ、なんでえ、なんでえ!獲れたてのフグじゃあるめえし、目をひん剥いてなんてツラしやがんでえ!いくらひん剥いて見たところで、悪に濁ったてめえたちの目の玉じゃあ、眩しくってまともにゃあ見られめえ!おう、丁度月も十六夜だ、そびら匂う夜桜を、みごと誰か散らしてみるか!」



この胸のすくセリフが終わるまで皆さんお待ちになってる(笑)。セリフが終わってから斬りかかるんですよねえ。お約束です。



ここで極め付けのシーンが、

悪家老役の山形勲さんが、大立ち回りでバッタバッタと斬りまくっている金さんに向けて、やにわに拳銃を向けるんです。どうする金さん、絶対絶命。


どうやって逃げるんだろう?観客の皆さんはハラハラドキドキしながら見ている。ところが金さん、逃げられないんですね。

山形勲さんが至近距離から銃を撃ち、金さんはそのまま川へ落ちてしまう。


金さんがやられた!?



ああ、どうなっちゃうんだろう?観客は次の展開に期待します。


シーンは翌日、例の悪家老たちが、将軍様とともに能を見る場面に移ります。



鬼の面をつけて登場する能役者。そのセリフは悪家老たちの悪行の数々を列挙、告発する内容で、色めき立つ悪家老たち。


不届き千万と捕えられる能役者たち、しかし鬼の面をつけた者だけがいない。

と、そこへ、


「遠山金四郎、ただいま参上!」の口上を上げて、長裃に着替えた金さんが、文字通り鳴り物入りで能舞台に颯爽と登場します。

まさに歌舞伎ですね、これは。


将軍様の前に平伏した金さんは、この場で悪党どもの吟味をさせてくれるよう要請します。それを鷹揚に許す将軍様。この将軍様、話が分かり過ぎる、大丈夫なのか?


まあそれはともかく、将軍様の前で、吟味を行う金さん、その姿はまさしく北町奉行、遠山左衛門尉景元。

例によってとぼける悪党ども。決定的証人は金さんという謎の遊び人以外にいない。ならばその金さんを連れて来いとはやし立てる山形勲さん。

将軍様の前で肌をさらすのは不敬であるとためらう金さんですが、こうなっては致し方なし、




「おい、望み通り金さんと、素肌に描いた金看板、共々見せてやらあ!」



ジャジャーン!片肌脱いだその肌に描かれた桜吹雪、絶句する山形勲!


「花も吉野の千本桜に、比べて劣らぬ遠山桜だ!おめえたちの散らしたつもりのこの桜も、一度ならず二度までも、こうしておがめりゃ文句はあるめえ!」




この緩急自在のセリフ回し。呼吸音すらセリフの一部と化してしまう、千恵蔵御大の「時代劇口調」は、芸術の域に達してます。






こうして悪党どもは捕えられ、「これにて一件落着」と大団円。


いやあ、よかったよかった。



あれ?そういえば銃で撃たれたんじゃなかったっけ?あれどうなったの?


まったく、全然、なんにも、


その点に触れないんですけど???????


まっ、いいか(笑)





リアルとはまったく真逆、まあなんと見事な虚構の世界か。



こうした虚構を虚構として楽しめる、


なんというか、心の余裕みたいなものを、以前の日本人は持っていたのかもしれませんね。


こういう感性、素敵だなと思いますねえ。


リアルリアルと、なんでもリアルでなきゃいけないみたいな風潮は、私には感性の摩滅のように思える。


リアルリアルと、そんなにリアルが良いかい!?


エンタメくらいは、虚構を虚構として楽しむ「余裕」が欲しいですねえ。



以前の日本人は


素敵でした。



こういう時代劇を莞爾と楽しめる、そんな日本人が、


私は好き。






時代劇はファンタジー。そのファンタジーを支えるのは、リアル非リアルを越えた域にある「表現力」。

往年の東映時代劇大スター、片岡千恵蔵。その大スターの称号は



伊達じゃなかった。







『ご存じいれずみ判官』
原作 陣出達朗
企画 玉木潤一郎
脚色 高岩肇
音楽 万城目正
監督 佐々木康

出演

片岡千恵蔵

丘さとみ
小暮美千代

千秋実

進藤英太郎

柳永二郎
阿部九州男

徳大寺伸
片岡栄次郎

山形勲

月形龍之介

昭和35年 東映映画

映画『羅生門』 昭和25年(1950)

2016-06-05 03:48:19 | 映画










真実は一つ。



しかし、真実は人の数だけある、ともいえる。


しかして、その深層にある「真理」はまた、一つ。


「一即多、多即一」。



これがこの世の理。



真理を掴めるか否かが鍵、か。





多くは語りません、語る必要もありません。

どうか観ていただきたい、そして考えるのではなく、



感じていただきたい。



現代にこそ、必要な映画、かもしれない。










『羅生門』
原作 芥川龍之介
企画 本木荘二郎
制作 箕浦甚吾
脚本 黒澤明
   橋本忍
撮影 宮川一夫
音楽 早坂文雄
監督 黒澤明

出演

三船敏郎

京マチ子

森雅之

志村喬
上田吉二郎

加東大介
千秋実


昭和25年 大映映画

玉井詩織生誕祭

2016-06-04 00:00:01 | ももクロ









ももクロの5人の中で、一番「つかみどころ」のない子。私にとっての玉井詩織とは、そんな子です。

杏果の歌のような特化したものもなく、他のメンバーのような強い個性もあまり感じられない。


あえていうなら、その足の長さに頭の回転の速さ、ツッコミの鋭さなどは特徴といえば特徴ですかね。


この子をどのように形容したらよいかわからず、「正統派アイドル」なんて書いたこともありますが、実は正統派というほど、アイドルアイドルしているわけでもなく、むしろ5人の中では、一番常識的なのかもしれない。


「普通」の子、というべきなんだろうか。


いや、普通と言ってしまうと、またちょっと、なにか違う。


普通というのとは、微妙に違うのです。



うーむ、やっぱりうまく形容できない……。




ただ、この子がいなければ、やっぱりももクロは成り立たないんですよね。まあ、ももクロの場合、どこかのアイドル・グループとは違って、この5人以外ではももクロにならないんですよね。

入れ替わったり抜けたりだとか、絶対あり得ない。


そういう意味では、やはりしおりんにも、ももクロメンバーとしての重要な役割があるんですよね。


うまく形容できないけれども、ももクロには絶対必要な存在。


それが、玉井詩織。




21歳、おめでとう。








土方正志著『震災編集者 ~東北の小さな出版社〈荒蝦夷〉の5年間~』

2016-06-02 06:18:53 | 
 









〈荒蝦夷〉(あらえみし)は宮城県仙台市にあって、書籍の編集、出版を事業とする小さな会社です。

民俗学者・赤坂憲雄教授の提唱する「東北学」を主体とした雑誌『季刊・東北学』をはじめ、そのインパクト溢れる社名からも察せられるとおり、どこまでも東北にこだわった視点からの出版物発行にこだわる、小さいながらも気骨溢れる会社です。



代表を務める土方正志氏は北海道出身。大学の4年間を仙台で過ごし、卒業後東京の出版社に就職。その後フリー・ライターとなって活動しておりました。


2000年に拠点を先代に移し、〈荒蝦夷〉を立ち上げます。

そして2011年、東日本大震災……。




この書籍は、被災地にあって書籍の編集・出版を職業とする一人の男の、濃密な5年間を綴ったドキュメントです。



なんといいますか、書の端々から、「怒り」「口惜しさ」「悲しみ」「虚しさ」「焦燥感」といった、土方氏がこの5年間感じ続けていたであろう感情が立ち上っているんです。

書ききれなかったこと、書きたくても書けなかったことはたくさんあったでしょう。被災地に暮らす出版人として、一人の被災者として、自分はなにをすべきなのか。それを考え続け、苦悩、苦闘し続けた土方氏の5年間が見えるようです。



私も一応、あの震災を経験しておりますが、私などの経験はとても「被災」などと呼べるようなものではありません。私は自分のことを「被災者」だなどと思ったことは一度もありません。

沿岸の市町村の受けた甚大な被害に比べたら微々たるもの、私なんぞが「被災者」などと名乗ってはバチが当たりますよ、ホントに。


でも仙台は違います。仙台が受けた被害は、私の町などよりも遥かに大きい。特に海沿いの地域が受けた被害は筆舌に尽くしがたい凄惨なものです。



そんな仙台に暮らす一編集者がなすべきこと……やはりそれは、「伝え続ける」こと。

東京発信ではない、あくまでも被災地からの、地元からの視点で発信し、伝え続けること。


未来の子供たちのために、二度と悲劇を繰り返さないために。



彼、土方氏の、〈荒蝦夷〉の「闘い」は、現在進行形です。





細かいことを言えば、彼、土方氏の政治的思想的心情には、私とは相いれない点が多々あるようです。

が、まあ、そんなことは小さなことです。〈荒蝦夷〉が行っていることは、東北の、大自然溢れる東北が歩んだ歴史や文化、伝統といったものを紙に綴り、後世に伝えようとするもの。それもあくまで東北からの視点にこだわったもの。


私も東北人として、東北を愛し、東北の歩んだ悲しい歴史に涙したものとして、

この〈荒蝦夷〉の出版姿勢は、高く評価したい。



ガンバレ、荒蝦夷!!



********************


最後に、私信を一つ。


土方君、君とは大学の4年間を通じて、面白い付き合いをさせてもらいました。

思えば君とは、バカなことも随分一緒にやった……というより、君が行うバカな行為に、私は一方的に巻き込まれていただけ、という方が正しいかな(笑)。


でもあのころから、君はある点でとても純粋だったし、「熱さ」を持った男だった。どうやらその点は今も変わらないようだね。


君の活躍を、とてもうれしく思う。


ガンバレ、土方!!







『震災編集者 ~東北の小さな出版社〈荒蝦夷〉の5年間~』
土方正志著
河出書房出版社

BLACK SABBATH [Black Sabbath] 1970

2016-06-01 05:41:27 | 今日のメタル










トニー・アイオミ(ギター)

オジー・オズボーン(ヴォーカル)

ギーザー・バトラー(ベース)

ビル・ワード(ドラムス)

1968年に上記の4人によって結成されたバンド、ブラック・サバスは、度重なるメンバー・チェンジや活動停止を繰り返しながら、現在に至るまで活動を続けている老舗中の老舗バンド。

ホラー映画を上映している映画館に、長蛇の列ができているのを見たギーザー・バトラーが、「怖い音楽を演奏したら売れるんじゃないか!?」と直感したところから、このようなサウンド・スタイルが出来上がったそうです。

いかにも怖そうですが、実際には悪魔主義者でも反キリストでも何でもないわけです。しかしそのイメージのために、誤解されている面が多々あるようですね。


こうしたオカルトっぽいイメージは、後続のへヴィ・メタル勢に多大過ぎるくらい多大な影響を与えたようです。

オカルトと芸能事は元々結びつきやすい。これは洋の東西を問わないようです。特にロックは、その反社会性をことさらに強調するために、オカルトを利用した面もあるように思いますね。

なかでもへヴィ・メタルは、オカルトをある種ファッション化させ、そのスタイルの一部として定着させた。

その大本がこちら、ブラック・サバスだといってよいでしょう。


ヴォーカルのオジー・オズボーンは、ソロになってからも、そのオカルトのイメージを大いに利用し、大スターとなっていきました。



良くも悪くも、へヴィ・メタルのイメージを作ったバンド、それが


ブラック・サバス。