風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

南部氏と「南部駒」

2015-03-17 21:56:20 | 岩手・東北




南部氏の祖、南部光行は、源義家の弟である甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の玄孫に当たり、ですから南部氏と甲斐の武田氏とは遠い親戚筋にあたります。

この光行が、源頼朝の奥州征伐に従って奥州へ下向し、その功績が認められ、奥州の北部、糠部(「ぬかのぶ」青森県から岩手県北部)の地を賜った。以来、明治に至るまでのおよそ700年、ほぼ同じ地域を領有し続けた。

もっとも、頼朝より賜ったとする伝承は、南部家の家伝にのみあるもので、それを証拠立てる客観的資料は存在しません。実際には鎌倉幕府滅亡から建武新政にかけての時期に、同地の代官として入部したのが最初ではないかとするのが、有力な説のようですね。

いずれにしろ、ほぼ同じ地域を6~700年近くも領有し続け、明治に至った大名は、南部家の他には薩摩島津家以外には存在しないそうです。




この、古代において糠部といわれた南部領は、古代より優良な馬産地として知られ、この地で産した馬「南部駒」は、現代で言うところの「ベンツ」並の価値があるとされていました。

奥州は良馬と良質の金属類の一大生産地であり、安倍氏、清原氏、そして平泉藤原氏ら、この地を実質支配していた一族は、その権益を有することで、莫大な富を得、特に平泉藤原氏は奥州一円を傘下に組み入れるほどの権力を得ていたのです。


御多分に漏れず南部氏も、この良馬を自身の地位安堵のために利用します。南部家13代当主守行は室町幕府将軍足利義持に、金1千両の他、馬100頭を献上しています。将軍家には殊の外喜ばれたとか。

24代当主南部晴政は織田信長に使者を送り、鷹と駿馬を献上して、天下統一の目指す信長のご機嫌を取っています。

また、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、26代南部信直は陣中見舞いとして鷹50羽と駿馬100頭を献上し、秀吉より本領を安堵されています。

もっともこの小田原攻めの際に、南部氏の領地だった津軽を任せられていた南部家家臣・津軽為信が、南部家よりもいち早く参陣し、津軽の地を秀吉より安堵されてしまい、南部家は津軽の地を家臣為信に奪われてしまいます。

しかし天下人秀吉に安堵されてしまった以上、意義は唱えられず、以来南部と津軽の確執は長く続くことになります。



それはともかく、南部信直は朝鮮出兵にも参加、肥前名護屋より帰国する際、徳川家康と同道し、家康より鷹や馬を所望され、その求めに応じています。

秀吉に唯一対抗しうる力を持つ家康とも、良馬を通して有効な関係を結ぶことが出来たわけです。

馬様様ですね。



信直の長男利直は父の死後家督を相続、関ヶ原合戦の際には徳川方の東軍に与し、上杉景勝を攻める為、最上利光の後陣に参加(慶長出羽合戦)し、家康の信頼を得、その後の大阪の陣にも参戦しています。家康と利直は個人的にも親しい間柄であったようですね。



面白いですねえ。こんな東北の片田舎の大名の話など、教科書には載っていないし、大河ドラマで何度秀吉や家康が出てこようが、南部氏の影すら描かれることはない。

それでも、そこには確実な歴史があった。激動の歴史の波を乗り切り、生き残った一族の歴史が、

確実にあった。



おそらく奥州南部領と中央との間には、良馬等を通じての古代よりの交易ルートが存在しており、そのルートを通じて中央の情報が南部家に齎されていたのではないか、なんてことを想像しますね。

南部家は代々、その時代ごとの中央の実力者と確実に誼を結んでいる。これは中央の情報が的確に齎されていたからこそではないか。そういう部分では、伊達正宗などよりも、中央の事情に明るかったかもしれない。

なんてことを考えると、ちょっとワクワクしませんか?(笑)まさに

馬様様です。




南部駒は南部家にとって大切なお家の財源だったし、南部領に暮らす庶民・農民にとっても、生活の糧を得るための大切な産業でした。

しかしなにより家族として、南部領の人々は馬を大切にした。

そして、神としても祀った。

それは古代より伝えられてきた習俗に違いなく、馬の神は「蒼前様」と呼ばれ、やがて蒼前様は関東以南より齎された「駒形」信仰や、仏教の「馬頭観音」とも集合し、北東北独特の信仰を形成して行きます。

岩手県滝沢市、鬼越蒼前神社に伝わる「チャグチャグ馬コ」は馬も“晴れ着”を着飾って、稚児をその背に乗せて「お参り」をし、馬の神に馬自らが参拝し感謝を捧げるわけです。

そこに馬と人との区別はなく、馬は家族同然に扱われている、と考えて良いのではないでしょうか。









その端的な例が「南部曲り家」です。馬と人との居住部分が繋がっており。家人は常に馬の様子を見守ることが出来る。

これはつまり、馬の糞尿等のニオイが家内に充満することでもあるわけですが、そんなことはお構いなしだったのでしょう。子供のうんちが汚いと感じないように、馬の糞尿やニオイを汚いとは感じなかったのかもしれない。

馬や牛の糞尿は当時、有機肥料として使われてもいましたからね、現代の我々とは、大分感覚は違ったでしょう。









このように大切にされてきた南部駒ですが、明治以降、交通機関等の発達により徐々に需要が減って行き、昭和初期には早くも、純粋種としての南部駒は絶滅してしまいます。

人間の身勝手といいますか……なんともはや、ではあります。






                   



南部家の家紋「南部鶴」の胸に、「九曜紋」が描かれているのが分かりますでしょうか。

九曜紋は北極星への信仰である「妙見信仰」と関わりがあるとか。

北極星。つまり「天御中主神」ですかねえ。

なんだか、ビビッとくるような……。