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 風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

「攘夷」と「討幕」はイコールではない?

2017-09-30 04:37:30 | 歴史・民俗





幕末の頃、「尊王」という概念と、「大政委任論」とがセットになった「尊王佐幕」思想が、武家の間では常識となっていたことは以前記事にしました。



それとは別に、外国人排斥を訴え、場合によってはテロも辞さないという「攘夷」思想も、時勢が激しく動いていく中で台頭していきます。



しかし、この「尊王佐幕と「尊王攘夷」は、必ずしも対立する概念ではありませんでした。



幕府は天子様より政事の一切を委任されてる。だから、


攘夷もまた、将軍の名のもとに、幕府が全国の武士に号令をかけて、攘夷を決行するのが筋であり、本来勝手気ままに行うべきものではない。


以前にも書きましたが、孝明天皇は攘夷論者ではあったけれども、従来の大政委任論を遵守する立場を崩そうとはしませんでした。ご自身の御妹君であられる和宮を、将軍家の御台所に輿入れさせたのも、皇室と将軍家との関係を盤石にするためであり、幕府を潰そうなどと云う意図は露ほどもなかった。



攘夷は幕府が行うべきもの。勝手に行われたものは、ただのテロなのです。




この筋論にこだわったのが、近藤勇でした。近藤ら多摩の田舎道場試衛館一派は、将軍の京都上洛を警固する浪士の一般募集に参加し、京へ上ります。しかしこの浪士募集を画策した清河八郎(庄内藩脱藩浪士)が攘夷決行を主張し、浪士たちを引き連れて江戸にもどろうとします。

これに近藤一派は、攘夷を行うのは幕府であるべきであると、どこまでも筋を通すことを主張、清河らと袂を分かち京に残ります。


近藤勇はバリバリの尊王攘夷論者でしたが、元々が農民であった近藤や土方歳三らは、農民であったがゆえに、より武士らしくあろうとしたのでしょう。武士は筋目を通すもの。だから清河のような跳ね上がり者の主張にはとことん反対した。


後に「新撰組」の名を賜る彼らは、どこまでも武士として、会津藩や幕府への恩義に報いるため、戦い続けることになるのです。



この近藤勇の主張のように、「尊王佐幕」と「尊王攘夷」とは、なんの矛盾もなく繋がっていたのです。純粋に武士であろうとすればするほどに、この二つの概念はより強固に繋がっていたわけで、この筋を通すことにこだわった者たちから見れば、筋を通さず手前勝手に攘夷決行を叫ぶ者は武士などではなく、


危険な「テロリスト」に見えたことでしょう。





筋のあるなしに関係なく、攘夷論の内包するナショナリズムの激烈な高揚感は日本中を席巻し、結果幕府は潰れてしまいます。


しかし、攘夷を叫んで樹立された薩長政府が実際に行ったことは、攘夷とは180°真逆の西欧文化追従でした。



抑々イギリスから資金や武器の提供を受けていた彼らにとっては、攘夷論などハナっから幕府を転覆させるための手段に過ぎなかった

とも云えるでしょう。





薩長に純粋な思いがなかったとは言わない。しかし私としては、より純粋であろうとしたために滅びていった新撰組や会津藩に、思いを寄せずにはいられませんね。






こんな「純」なる人達が、二度とバカを見ることのないような世の中であってほしいものです。

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6 コメント

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Unknown (玲玲)
2017-09-30 09:13:14
当時の元々の武家社会は、自分で草履も履くことができないお坊ちゃん達も多かったでしょう。

型としての武士も、大名ほど少なかった時代に武士であろうとした新撰組は美しく見えます。

水戸学について色々考えていましたが、何故光圀さんは取り入れたのか、家康公が学んだこともあったのか。
本当は諸刃の剣でも、勤皇を主としたかったのか。
私は個人的に水戸の人間と余り合う人がいないのですが、水戸の斉昭公の銅像を見るたびに、藩政は改革したけれども、長く御三家でありながら幕政に携わることが出来なかった怨念でも詰まっていたのか、とか、慶喜くんは将軍にさせたい為に親のエゴで生まれた子供だったのか、とか。
色々思います。
きっと、水戸学や朱子学は自分を認めて欲しい欲に簡単に火をつけれるもんなのか、とか思います。
それでも日本人はベースに神道があったから、ここまで火の海にならなかった。

誰もが天皇を自然と敬う気持ち、謙虚さがあったことを自分で思い出さなきゃですね。
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Unknown (たま♪)
2017-09-30 10:20:29
薩長は元々、自分達の藩が潤うことが目的だったといわれてますよね。坂本龍馬は武器商人で、薩長は、我が藩の利益と復興のための戦いだったと。そうなのだろうな~、と私は思います。
それでも明治天皇が即位して良かったと薫兄者が言うのはナゼですか?
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Unknown (薫風亭奥大道)
2017-09-30 13:38:16
玲さん、斉昭公が幕府に出した建白の数々は、それは酷い、というか稚拙なものだったようですね。よっぽど認めて欲しかったんだろうな~。水戸藩は御三家の中でも、尾張や紀州に比べて格下扱い。光圀公もそんな現状に不満を持っていたのかも知れませんね。
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Unknown (薫風亭奥大道)
2017-09-30 14:00:59
たま♪さん、具体的にこうだから良かったというわけではありません。明治帝の御即位はある意味「神意」だったのだろうと思っているんです。もし明治帝の即位がなかったら、今頃日本はなくなっているんじゃないか位の需要事だったのだろうと。
神は悪をもお使いになるといいます。敢えていいますが長州のならず者どもを使ってでも、成し遂げなければならなかったのだろうと。
まあ、そうとでも思わなけりゃやってらんねーよ!という部分もありますしね。
神意は人が行動を起こさなければ成らない。ともかくも行動した御蔭で神意は成った。それはいい。でもその行動の過程で行われた、およそ人間を棄てたとしか思えない蛮行の数々は、やはり白日のもとにさらすべきだと思いますね。たった150年前に、日本人が同じ日本人に対して行った、人倫に悖る悪逆非道な蛮行の数々を白日の下に晒し、受けとめ、反省し、次代へ繋げていかなきゃならない。
でなきゃ人はまた、同じことを繰り返します。
このことがあるから私は「日本人は残虐なことはしない」などという能天気な主張など信じない。
日本人だって、やるときゃやるんですよ。
歴史から学ぶとはそういうことだと私は思う。
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Unknown (たま♪)
2017-09-30 16:40:18
私も「神意」におおむね賛成です。
神意のために長州を利用した存在が居ただろう、と思います。
それでもって、アメリカ様を利用しなければ日本は生き残れない、という内容に反対する人達は、左翼の中でも良心的な方々についてですが、
時々、会津藩の方々とダブります。

長い物に巻かれることが出来ない不器用さ、と、頑固さは、生きる上で、気の毒ではありますが大損になってしまうのだろうな、と思うのでした。

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Unknown (たま♪)
2017-09-30 18:52:19
ネット上での話ですが、戦後のアメリカ兵の日本人(主に女性)への残虐暴行行為が語られている記事がありました。
兄者と同じように、真実を世間にさらさなければという思いだろうな、と思います。
被害者は、心に傷を負った方々は、どちらを望んでいるのだろう、そのような記事があった方が良いのか、ない方が良いのか、私にはわからない、と思いました。とりあえず読みたいとは思えなかったので読みませんでしたが。
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