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「後戸の神」と翁 ~芸能民の神~

2016-09-07 05:23:13 | 歴史・民俗






毛越寺常行堂




岩手県平泉町の毛越寺では、毎年正月20日に行われる祭礼「二十日夜祭」にて、「延年の舞」が舞われます。

この延年の舞を含めた一連の催しを総称して「延年」と呼ぶのですが、これは能楽のルーツである散楽、猿楽や、その他様々な民間芸能が混然一体となったもので、芸能事の一大博覧会のようなものだったようです。


しかし時代とともに徐々に廃れていき、現在では極少数の社寺において、「延年の舞」等ほんの一部のみが伝えられてきています。



この常行堂の守護神として祀られている神を、摩多羅神(またらじん)と申します。

この摩多羅神、常行堂の御本尊であられる阿弥陀如来の真後ろにある扉の中に、「隠されて」祀られているんです。このことから摩多羅神は「後戸の神」と通称されているのです。





延年の舞




かつて、「」と呼ばれた被差別民がおりました。

河原に住み、業及び皮革業を生業とし、また芸能民でもあったとか。


なかでも芸能を生業としたものたちを「宿(夙)の者」と呼び、寺社の保護のもと、雑役に従事しながら勧進興行なども行っていたようです。


抑々芸能事とは神に奉納する神事でありました。それは遥か縄文の昔より行われてきたもので、彼ら「」とは縄文の遺児であり、宿の者たちとは、縄文の神に芸能を奉納することを生業としていたものたちの遺児でありましょう。


芸術芸能とは神との感応があって行われるもの、とかつての日本人は考えていたようです。だから、芸術芸能をよくする者たちは、常民にはない、神と感応することのできる特殊な能力をもった、「神に近い」人たちだと思われていた。



だからこそ彼らは「畏れ」られ、遠ざけられた。

その「畏れ」はやがて「恐れ」を呼び、忌避の観念を生み、そうして彼らは差別の対象となっていった……。



能の創始者である観阿弥、世阿弥親子は、この宿の者たちを統率していた唱聞師(しょうもじ、民間の陰陽師)であったようです。その親子の創始した芸能を足利義満に認められ、手厚く保護を受けるようになります。そうしてやがて能は、武士にとって必須の教養となっていったわけです。



さて、この宿の者たちが祀っていた神を「宿神」と申し上げます。


金春禅竹の『明宿集』には、「翁を宿神と申し上げる」との記述があり、能における「翁」こそが、宿の者たちが奉ずる神なわけです。

また、摩多羅神が祀られているところには必ず能(猿楽)や延年の歌舞があり、特に摩多羅神に捧げるために行われていると思われることから、この摩多羅神こそが「宿神」ではないか、とする説も成り立ち得るでしょう。

摩多羅神は一面夜叉神、忿怒神の属性を持ち合わせており、一方の翁は実に穏やか。この静から動への起伏の激しさは、まさしく芸術芸能そのものだといってよいのではないでしょうか。



ところで、この摩多羅神、その正体はシバ神である、とする説があるようなんですね。

さらにこのシバ神、実はスサノオである、ともいわれているのです。


御存じの方は御存じでしょうけどね(笑)



縄文の遺児である被差別民、宿の者たちが奉じていた神がスサノオだった。

忿怒神から穏やかな翁まで、この起伏の激しさはまさしくスサノオにピッタリだと、思いませんか?



スサノオは芸術芸能の神であり、それを特に奉じていたのが被差別民であった。なんか、


ありそうな話だと思いませんか?




翁面

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