風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

「切り放ち」にみる日本の心

2019-04-01 10:37:19 | 時代劇

 

 

 

 

 

「火事と喧嘩は江戸の華」などと申しますが、江戸の町は本当に火事が頻繁にありました。

 

時代劇によくありますね、火事になったとき、牢屋に入っていた囚人たちを一時的に開放するというシーン。あれは本当に行われていたことです。

 

 

事の起こりは明暦3年(1657)に発生した「明暦の大火」です。江戸市中の3か所から発生した火事は、江戸城天主閣をはじめ江戸市中の市街地をほぼすべて焼き尽くし、死者の数はおよそ10万ともいわれている大火災です。

 

この折江戸の小伝馬町にある老屋敷を取り仕切る牢屋奉行(囚獄)石出帯刀吉深は、独断で囚人たちを一時的に開放(切り放ち)することを決断します。

牢屋奉行は町奉行の配下であり、禄高は三百俵、身分は一応旗本ですが、お目見え以下つまり将軍との謁見はゆるされていない低い身分でした。

ですから「切り放ち」などという重要な決定を独断で下すなど、本来は許されません。手順としてはまず牢屋奉行から町奉行に答申し、さらには町奉行から老中にお伺いを立て、老中がこれを承認してはじめておこなわれるべきことです。しかしそんなことをしている時間はない。そんなまどろっこしいことをしている暇に、囚人たちは焼け死んでしまう。

 

いかに罪人とはいえ、生きたまま炎に巻かれるのを見過ごすわけにはいかない。

 

石出帯刀は切り放ちを行う際、囚人たち、期限内に必ず戻ってくるように云います

「戻ってきたならその報いは必ず行う。ただしもし戻ってこなかったなら、雲の果てまでも追いかけて必ず捕まえ、一族郎党に至るまで成敗する」と。

囚人たちは涙を流し、手を合わせて感謝したと伝えられています。

 

もしも囚人たちが戻ってこなかったら、御役御免だけでは済まされないかもしれない。最悪切腹、家名断絶ともなりかねない。

石出帯刀にとって、これは文字通り命がけの決断でした。

 

 

火事が終息した後、はたして囚人たちは戻ってきました。それも一人も欠けることなく

死罪の者も含めて、全員が戻ってきたのです。

 

これに感激した石出帯刀は、「このような義理堅い者たちを死罪に処するなど、後々国家の損失につながる」と、老中に全員の罪一等を減ずる処置を行うよう具申し、これが許され、帯刀は囚人たちの義理に報いることができたのです。

 

 

以後、火事の際の「切り放ち」は制度化され、江戸期を通じて行われ、明治以降、戦前に至るまで制度として残されていました。関東大震災や東京大空襲の際にも、この「切り放ち」は行われたそうです。

 

 

それにしても、囚人たちはよくぞ戻ってきましたね。囚人たちにしてみれば、命がけの越権行為で自分たちの命を救おうとしてくれた牢屋奉行の恩義には報いねばならないという思いがあった。

 

犯罪者には、裏社会にはそれなりの価値観、倫理観というものがある。たとえ犯罪者であっても、裏社会に属するものであっても、いや、むしろなればこそ、

約束は守る、義理は返す。必ず。

 

それが流儀。

 

とはいえ、囚人全員が約束を守ったというのは凄いことですね。この時代の日本人は概ねこうだったのかと思うと

 

なにやら、身震いするほどの感激を憶えます。

 

命がけで囚人たちを助けた牢屋奉行の「情」と、それに報いようとした囚人たちの「義」と。

 

義理と人情を量りにかけりゃ~♪なんて歌がありますが、義理も人情もどちらも大切にしていたのが、かつての日本人でした。

 

こうした日本人の「美しい」心、大切にしたいですねえ。