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 風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

黄金の國【平泉編】~8~秀衡と義経

2013-08-14 21:56:27 | 黄金の國


義経については以前にも記事にしましたので、なるべく重複は避けるようにしたいですが、平泉を語るにおいては、やはり義経に触れないわけにはいきません。



義経を平泉に迎え入れるにおいて、秀衡はどのように考えていたのでしょう。当時は平家の勢力は全盛で、平清盛は絶大な権力を握っていました。そんな折にわざわざ源氏の御曹司を預かったのは何故か。

ある種の「保険」とでも捉えていたのではないでしょうか。いかに平家の権勢が絶大だといっても、天下はまだ治まっておらず、いつ形勢が逆転し源氏が台頭するか知れない。その時のためを考え、源氏の御曹司を匿っていたことは、源氏に恩を売ることになる。あるいはもしもこのまま平家の世が盤石なものとなり、源氏台頭の芽がなくなったときは、源氏の御曹司を“手土産”として平家に差し出せば良い。

世がどちらに転んだとしても、平泉の平和を守り切る。そのためには、冷酷非情ともとれる措置も厭わない。
政治家として、為政者として。奥州の民を守るため、秀衡はそう考えたのでしょう。

その義経が、兄・頼朝挙兵の報を聞いて平泉を出ることを決意した時、秀衡はどう思ったのでしょう。大事な駒に逃げられる!とでも思ったでしょうか。
それもあったかも知れませんが、それ以上に秀衡は、義経のことが心配でならなかったのではないでしょうか。長年義経のことを見ているうちに、秀衡は義経に対し息子のような感情を抱いていたのではないかと思う。平泉一の武者、佐藤継信・忠信兄弟を従者に付けて送り出したところに、それが現れていると私は思う。

義経は武者としての武術や軍略に秀でていた。おそらくは平泉にいたころから、その才を発揮していたことでしょう。とはいえ、平和な平泉でぬくぬくと育ち、世間というものを知らない。そんな若造が百戦錬磨の源氏勢に加わって、うまくやっていけるだろうか?利用するだけ利用されて、用がなくなればポイと捨てられる、なんてことにもなりかねない。佐藤兄弟を従けてやったのは、そんな義経を守ってやって欲しい、という思いからだった。
もちろん、義経の「監視役」という側面もあったでしょうが。


そして状況は、秀衡が危惧した通り、いやそれ以上に悪い方向へと進んでいきました。



兄・頼朝に疎まれ、追われる身となった義経が平泉に帰ってきたのは、文治3年(1187)のこと。もはや頼る所は、実の子の如くに育ててくれた秀衡の下しかなかった。
頼朝にも当然、それはわかっていることでした。行き場を失った義経が行き着く先は平泉以外にない。

武門による武門のための政権を目指す頼朝にとって、鎌倉の背後に当たる奥州に、もうひとつの武門政権が存在することは、はなはだ目障りなことだった。
それに奥州は、父祖頼義以来の宿縁の地。奥州を取ることは源氏重代の悲願。これを機に、一挙に平泉を落とす!

折しも、秀衡は病に斃れます。秀衡は病床に嫡男・国衡と後継・泰衡を呼び寄せると、義経を主君となし、国衡、泰衡ともに融和して義経に仕えよ、と遺言します。
国衡は先妻の子、泰衡は現妻の子。その泰衡の母は、元陸奥守で平泉の政治顧問・藤原基成の娘でした。嫡男国衡を差し置いて泰衡が後継者となったのは、そうした「血筋」によるところも少なからずあったかもしれず、そのため両者の関係には、微妙なものがあったのではないでしょうか。
今はまだ秀衡がいる。秀衡が重石となって押さえている。しかし秀衡亡き後は?
秀衡にとって、そこが最大の気がかりだったのでしょう。国衡に自分の妻を娶らせ、仲違いせぬよう誓約書まで書かせたといいます。そうして軍略の天才義経をあえてトップに据えることで、来たるべき頼朝軍との決戦に備えさせようとしたのです。
国衡と泰衡のどちらかをトップに据えたのでは、やはり不満が生じる恐れがある。それに軍略の天才義経のネームヴァリューは、それだけで頼朝軍へプレッシャーを与えることになる。瀕死の床にあって、秀衡が思い続けたのはただ一点。
平泉を守ること。



文治3年(1187)10月29日。藤原秀衡逝去。享年66歳。脊椎カリエスによるものとされています。

「北の王者」の死、それは平泉の運命をも急転させていくのです。

【続く】



【参考資料】
『東北 不屈の歴史をひもとく』
岡本公樹 著
講談社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター

『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社



黄金の國【平泉編】~7~三代秀衡とその時代

2013-08-08 22:08:34 | 黄金の國


「高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである」
「北方の王者にふさわしい威厳のある顔立ちと称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした顔が、これであった。

作家・大仏次郎(おさらぎじろう)は、昭和25年の藤原氏四代御遺体調査の際、秀衡棺の開棺に立ち会い、上記の感想を記しています。

大仏次郎が「北方の王者」と呼んだ秀衡は、調査の結果貴族的で理知的な顔立ちをしており、アイヌ民族ではなく、和人的な特徴を強く持っていた。

当時、蝦夷はアイヌか否かということが論争になっていましたので、この調査結果は論争の大きな進展に貢献しました。

蝦夷とは単に東北に住む人々の呼称に過ぎず、明確な民族的差異などなかった。ましてや奥州藤原氏は、京の藤原摂関家の血筋。にもかかわらず奥州に住んでいるというだけで、蝦夷と呼ばれ、蔑まれた。

それに対し、奥州藤原氏は自ら「東夷の酋長」「蝦夷の族長」を名乗り、蝦夷であること、奥州人であることに積極的にアイデンティティを持った。

その蔑まれし奥州に此土浄土を築こうとした心理の根底に、ある種の「復讐心」はなかっただろうか・「傲慢」はなかっただろうか。

奥州藤原氏は本気で浄土を築くつもりだった。それは間違いない。でも最近、なにか「曲がってる」よなあ、という気がするのですよ。なんとなくね。

でもそれもまた、人間臭くて好きだったりするのですが。



秀衡が三代目を襲ったのは保元2年(1157)。秀衡36歳のときでした。

その二年後、平治元年(1159)に「平治の乱」が勃発。平清盛と源義朝の抗争は清盛の圧倒的勝利に終わり、義朝は討たれ、義朝の長男・悪源太義平は斬首。13歳の頼朝も処刑されるはずでしたが、清盛の母親の助命嘆願により助けられ、伊豆に流されます。義朝と常盤御前との間に生まれた牛若(後の義経)らは、常盤が清盛の愛妾となることで、後々出家することを条件に命を救われます。
清盛によって助けられた二人、頼朝と義経が、清盛の一代で築き上げた栄華を海の藻屑と消し去るとは…。

清盛とその一門の栄華は天下に並ぶものもなく、八年後の仁安2年(1167)、清盛は従一位太政大臣にまで上り詰め、政治権力をその一手に握ります。

「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた清盛と平家一門の天下には、当然不満を持つ者達が多かった。中央の情勢がにわかにきな臭さを帯びて行く中、遥か奥州にあって、秀衡は天下の情勢を見極めていたのです。



中央の流れに呑まれることなく、いかに奥州の平和と独自性を保つか。そしてその潜在的「国力」をいかに示し続けるか。

黄金と名馬をもって中央とのパイプを保持し、平泉にあっては浄土都市建設完成へ向けて邁進し続ける。京の宇治平等院鳳凰堂を模しつつ、それを上回る規模の無量光院を建立します。

嘉応2年(1170)には、秀衡は朝廷より、従五位下、鎮守府将軍に任命されます。それまで秀衡は、陸奥出羽押領使の職を拝命しておりましたが、実質的には鎮守府将軍並の軍事的統制力を保有しておりました。ですから改めての鎮守府将軍任命は、秀衡の持つ潜在的政治力が、公的に認められたことになります。
この任命の裏には、清盛の思惑が働いていたと言われています。つまり、いざというときは平家に味方してくれというサインですね。
秀衡も当然わかっていたでしょう。しかし秀衡は、あえて知らないふりをしたようです。安易に平家に擦り寄るようなまねはしなかった。

天下の情勢はどちらに転ぶかわからない。平泉の興廃は秀衡の思惑次第、平泉の生き死にはその双肩に掛かっていたのです。

【続く】




【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター



 

黄金の國【コラム】5 西行のこと

2013-08-05 23:33:47 | 黄金の國


歌人西行は平泉を二度訪れています。

一度目は天養元年(1144)頃のこと。いにしえの能因法師の歌枕の地を訪ねて奥州へ向けて旅立ち、平泉入りしたのが、「山家集」によれば旧暦の10月12日。現在の暦に直せば12月ごろでしょうか。

完封吹き荒ぶ中、西行は平泉に到着早々、その足で前九年合戦の古戦場、衣川柵跡を訪ねます。


        「とりわきて 心もしみて冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも」




西行の俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。秀郷流藤原氏の流れをくみ、鳥羽院の側近く仕える北面の武士でした。

それがなぜ出家したのか?これには諸説あります。中でもドラマチックなのが、待賢門院璋子とのラブロマンス。鳥羽院の中宮にして崇徳院の母、待賢門院との道ならぬ恋に破れ、世の無常を知り出家したとか。本当のところはわかりませんが。

秀郷流といえば、奥州藤原氏もまた秀郷流。西行とは親戚筋に当たります。その気安さもあったのか、西行は翌年の春ごろまでは平泉に滞在したようです。

西行が訪ねたころは、平泉は二代基衡の治世。平泉の都市整備が着々と進められ、堂塔40余、僧房500余と伝えられる毛越寺が造営の真っ最中でした。
草深き奥羽の地に、人口10万余の、当時としては大都市が建造されていた。
平泉の全盛期とも言える時代の真っ只中に西行はいたのです。

浄土を目指した平泉に、西行はなにをみたのでしょう。



平泉の春、西行は信じられぬ光景を目にします。平泉の町から、北上川を挟んで東側に聳える束稲山(たばしねやま)。その山全体に桜の花が咲き乱れていたのです。

西行は草花を愛でるのが好きだったようです。中でもお気に入りは、奈良の吉野山の桜でした。

「桜の花の下で死にたい」と言わしめるほどの西行でしたが、その西行ですら、束稲山の桜の見事さには感銘を受けざるを得なかった。「こんなの、聞いてねえよー」というくらいに。

その束稲山の桜に感動して読んだ歌が残されています。


       「ききもせず たばしねやまの桜花 よしののほかにかかるべしとは」


現在の束稲山には、当時のような大量の桜の木は植えられておりませんが、当時は吉野山にも引け劣らぬ、いや吉野山以上だったことが、この歌から測ることができますね。


この頃の西行はおよそ28歳くらい。そして2度目に訪れたのが、その42年後、文治2年(1186)でした。



東大寺再建のための砂金勧進と称し、西行は再び平泉を訪ねますが、その直前に西行は、源頼朝と面会しているのです。

頼朝が弓馬の道を西行に尋ねると、西行はそんなものは忘れてしまったといってはぐらかす。頼朝からプレゼントされた銀製の猫を、通りすがりの子供にあげてしまった等の逸話が伝えられていますが、実は西行は、頼朝のスパイだった!なんて説もあるようです。

平家滅亡がこの前年の文治元年(1185)。そして義経の行方が知れなくなったのが、ちょうど文治2年のあたり、そのタイミングで西行が平泉に赴く、しかも頼朝に面会した後に…。

義経の逃亡先の最有力候補は、いわずもがなの奥州平泉。いずれは平泉を滅ぼすことを画策していた頼朝にとっては絶好の好機です。なんとしてでも義経の情報を掴み、平泉討伐の口実としたい。頼朝は確実にそう思っていたはず。

おそらく頼朝は、それとなく西行に依頼したのではないでしょうか。平泉の内情を探り、報告するようにと。

それに対して西行がどう答えたかは、判然としません。しかしながら、頼朝より拝領した銀の猫を子供にあげてしまう行動からみて、少なくとも頼朝に対しては、快く思ってはいなかったでしょう。

世を捨て出家したはずの者をも、己の欲望に利用しようとする人間のあさましさ。西行はそんな乱世になにを思ったでしょうか。



西行が二度目の平泉訪問を終えたその翌年、源義経が平泉に落ち延びてきます。結局西行と義経はすれ違いで、会うことはできませんでした。


文治5年(1189)。奥州藤原氏は、源頼朝によって滅亡します。
その翌年、建久元年(1190)。西行はその生涯を閉じました。享年73歳。

なんだか微妙に、その人生と平泉の発展、滅亡がリンクしているように感じるのは、私だけでしょうか。



        「ねがわくば 花のしたにて春しなむ そのきさらぎの望月のころ」





                   




もうひとつ、西行の歌を


         「衣川 みぎはによりてたつ波は 岸の松が根あらふなりけり」



激しく打ち寄せる波に洗われる松が根とは。

奥州の人々のことか。

奥州が歩んできた道、そしてこれから歩むであろう道。その荒波を受けて、松の根の如くに黙ってじっと耐えてきた奥州の人々。その雄々しさを歌ったものでしょうか。

いや、奥州人に限らず、人は皆、かくあるべきなのでしょう。

西行は奥州平泉に、人のあるべき理想像を見たのだ。

私はそう、読み取りたい。








黄金の國【平泉編】~6~毛越寺浄土庭園

2013-08-02 22:25:34 | 黄金の國


                   
                     毛越寺金堂(平成元年落慶)


日本人にとって、浄土とはなんなのか。

浄土とはどんな姿をしているのか。

それを表現したのが、浄土庭園です。

浄土庭園とは、日本人が最も好む「理想郷」の世界を、庭というかたちで表現したもの、と言っていいのかも知れません。

もちろんそれには元ネタがあって、「大無量寿経」という経文に、浄土の姿が描かれているらしいのですが、それを基にして、はじめは中国あたりで作られ始めたようです。それが日本にも入ってきた。

日本に入ってきてから、浄土庭園は日本風に変化します。中でも際立って変化したのが、苑池の形状でした。

日本以前の苑池は、人工的な方形に作られていたんです。これが日本に入ってくると、もっと自然な形に変化していく。どうやら日本人は人工的な方形の池に違和感を抱いたようですね。

経典に記された浄土の池は、七宝に荘厳された四角形の池、人口の池なんです。東南アジアでも中国でも、それに倣ってその通りのものを造ろうとした。しかし日本では違いました。
日本人はもっと「自然美」を浄土に求めた。それは、日本独特の自然観、森羅万象隅々にまで命が満ち満ちた大自然こそが、日本人にとって最も浄土に相応しい光景だったということでしょう。


                    
                      毛越寺大泉ヶ池


池には「遣水(やりみず)」といって、川に見立てた水の流れが濯いでいます。これは池を海に見立てているわけですね。


                                                                   
       


         遣水



                                
                                  築山


                                      
                                         砂州



現在、毛越寺の本堂は池の南側にありますが、これは明治時代末期頃に現在の位置に建立されました。奥州藤原氏時代には、池の北向こう、塔山の麓に「円隆寺」と呼ばれる金堂が建っていました。
毛越寺の伽藍は鎌倉時代に焼失しており、この円隆寺も今は跡地を残すのみです。かつては、現在の本堂と池の間に南大門があり、南大門を潜ると目の前に大泉ヶ池が広がり、池の向こうには金堂円隆寺。さらにその後ろには塔山という小高い丘が聳える。
東に目を転ずれば、北上川の向こうに束稲山、観音山といった山々が連なる風景。
こうした山々を借景として、日本人の求めた浄土を表現したのが、毛越寺浄土庭園なのです。

                        
                           金堂円隆寺跡



平泉には浄土庭園がたくさんありました。中尊寺にも、金色堂の裏側に、現在はなくなっていますが、苑池の遺構が発見され、現在も発掘調査が行われています。

三代・秀衡は、金鶏山の東側に無量光院という阿弥陀堂を建てており(焼失)ここにも大きな苑池があった。平等院鳳凰堂を模したといわれる無量光院の苑池には夕方ともなると、金鶏山に沈む夕日がくっきりと映り込み、それは美しい光景だったでしょう。



日本人にとっての浄土とは、金銀財宝が輝き渡るようなところではない。海が広がり山が聳え、川が流れて風が靡く、そんな自然の風景。

此土浄土を目指した平泉。この平泉を抱く大自然そのものが浄土なのだ。浄土庭園はそれを示すためのもの。



浄土は「ここ」にある。

【続く】


【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

                                    






黄金の國【平泉編】~5~二代基衡

2013-07-30 21:59:51 | 黄金の國


奥州藤原氏二代・藤原基衡については、その生没年がはっきりしないのですが、近年の研究では、大体康和5年(1103)頃だろうとされています。父・清衡が平泉建設に着手し始めた頃です。

奥州随一の都が出来て行く、その成長と発展をその目で見つめながら育ってきた。おそらくは父・清衡の薫陶を受け、自らもまた、平泉を此土浄土にすべく貢献することを心に誓ったことでしょう。



初代・清衡没後、その跡目を巡って、基衡とその異母兄・惟常との間に争いが生じます。結果基衡が勝利し、惟常は越後まで逃亡しますが基衡はこれを赦さず、軍勢を差し向けて惟常を誅しました。
こうした基衡の果断な行動に、奥州藤原氏はやはり武門の家柄であり、基衡は武門の棟梁であることを改めて感じさせます。



基衡は初代・清衡の意志を継いで、ひたすら平泉の町の整備に心血を注いだようです。なかでも毛越寺の建立はその白眉です。
古代の奥州街道(奥大道)を達谷窟から平泉中心部へ向かっていくと、突然目の前に豪壮な南大門が現れる。平泉の入り口に毛越寺の門を配置し、鄙びた田舎の風景から一転して絢爛たる仏国土が目の前に開ける。
この心憎い演出は、旅人の心理的効果を狙ったもので、これによって平泉=仏を中心とした都=平和な文化都市というイメージを植え付ける為だったと思われ、京に対するある種の挑戦であったのかも知れません。
京人が蔑む奥州に、こんな凄い文化都市があるぞと。

毛越寺建立時、基衡は京の仏師・雲慶に金堂の本尊の製作を依頼します。その代金として基衡が雲慶に送った品々がスゴイ!金百両、鷲の羽百羽分、アザラシの皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布二千反、糠部(ぬかのぶ)産の名馬五十頭、白布三千反、信夫毛地摺千反、その他山海の珍宝の数々。気が遠くなるほどの物量ですね。
三年後に本尊が完成。それはそれは見事な仏像で、出来栄えに満足した基衡は、ボーナスとして雲慶に生美絹(すずしのきぬ)を舟で三隻分送りました。
雲慶は大層喜び「これが練絹ならもっとよかった」と戯れを口にしたところ、後でこれを聞いた基衡は、これを真面目に受け取り、気配りが足りなかったと早速練絹を三隻分送ったとか。

正直どれほどの財力なのか見当もつきません。これだけの財力と権力を手に入れたなら、いかな人格者であろうとも、鼻高々となってしまうでしょう。基衡の代には、平泉の影響力は白河以北全体に広がっていったと思われ、知らず知らずの内に、基衡は天狗になっていました。

しかしその、天狗の鼻がへし折られるような事件が起こります。



京の都より、陸奥守として藤原師綱なる人物が奥州に下向してきます。
この師綱、さほど才覚のある人物ではなかったようですが、忠義一筋に白河院の側近く仕え、ついには陸奥守に任命された人物。非常に生真面目で融通の利かない人物だったようです。
着任早々、基衡なる蝦夷ずれが実質的権力を握っていることに憤りを感じ、朝廷の権威を示そうとします。朝廷より宣旨を賜るとまず信夫荘(福島市内)に入り、検知を断行しようとします。
信夫荘の管理者は、基衡の乳兄弟でもある佐藤季春。基衡は季春に、検知の拒否を命じ、季春はこれに従います。
朝廷の代理者たる陸奥守に従わず、基衡の命に従う。そこには中世武家社会の如き主従関係が、すでにして出来上がっていたのです。
鎌倉幕府は平泉の体制を手本にしている、とはよく言われることですが、すでに基衡の時代には確立されていたのですね。

師綱に派遣された検注使たちは、武力行使に及びますがあえなく敗北。これを知った師綱は激怒し、基衡に使者を送り、従わなければ合戦に及ぶと通告します。
これにはさすがの基衡も動揺します。いかに基衡が絶大な権力を持っているといっても、それは朝廷より与えられる官位官職があればこそ。陸奥守と合戦に及ぶということは、朝敵になるということ。朝敵になってしまっては元も子もない。

主人・基衡の窮状をみた季春は、すべての罪は自分にありとして、師綱の下に出頭します。基衡は季春の助命を嘆願し、師綱に砂金一万両をはじめ、多くの絹や名馬を献上しますが、堅物の師綱は頑として受け付けず、季春は首を討たれました。
主人のために自ら命を捨てる。まさに武士道です。この季春のまさに“命掛け”の行動に、師綱もこれ以上のごり押しは出来ないと判断したのでしょう。結局、検知は行われませんでした。季春はその命を持って、基衡を守ったのです。

乳兄弟にして友人、そして最高の家臣であった季春を、自らの慢心のために失ってしまった基衡の心中はいかばかりであったか。



仁平3年(1153)、京にあって「悪左府」の異名を持つ藤原頼長が、高鞍荘(岩手県一関市)をはじめとする五つの荘園の年貢増額を求めてきます。それは従来の税率を3倍から5倍に引き上げるという、かなり強引な要求でした。基衡はこれに毅然と対応し、要求された税率の半分以下の値で決着させます。
以前の基成なら、一切受け付けなかったかも知れません。しかしこの時の基衡は、相手の面目を保ちつつ、決して相手に呑まれることなく平泉の利益を守りました。晩年の基衡は単なる武辺者ではない、政治家としてのしたたかさを身に着けていました。



「悪左府」頼長はその三年後の保元元年(1156)、崇徳上皇を旗印として「保元の乱」を起こしますがあえなく敗北。戦場で受けた傷が元で死亡します。中央ではその後、平清盛が台頭し、時代は源平合戦の時代へ突入していきます。
「保元の乱」より1~2年後の頃、基衡はその生涯を閉じました。推定年齢54歳前後であったと言われています。

その全人生を、平泉の町の整備と発展に捧げた生涯でした。



次回以降、基衡の建立した毛越寺に迫ってみたいと思います。

【続く】




【参考資料】

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都」
大矢邦宣 著
河出書房新社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター

『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社




黄金の國【平泉編】~4~金色堂の謎その2 金鶏山

2013-07-26 23:07:11 | 黄金の國


平泉の町の中心部には、三つの丘陵が聳え立っています。

中尊寺の建つ関山丘陵。毛越寺の裏側にある塔山。

そして、金鶏山。


金の鶏を埋めたという伝説があり、その金鶏を求めて盗掘された跡もあるようですが、残念ながら発見されることはなかったようです。

実際に埋められていたのは、金の鶏ではなく、経文でした。

金鶏山は「経塚山」だったのです。


経塚山というのは、経文を収めた筒や甕などを、山の頂などに塚を築いて埋めた、その山(丘)のことです。何故そんなことをするのか。

この世に仏の教えが絶えた末法の世が来て後、56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に下生し、この世に浄土を築きあげる。

その弥勒下生までの間、大事な経文を失ってしまわないように、そうして弥勒下生の後には、その経文を掘り出し、弥勒の下へ馳せ参じるために、経文を大事にしまっておく。
そのために築かれたのが「経塚」であり、その経塚のある山を「経塚山」と呼んだのです。

弥勒下生までの56億7千万年間、経文を大事に納めておく。金鶏山はそのための山だったのですね。



さて、この金鶏山の東側に、平泉の政庁である「平泉舘」、別名「柳の御所」が建っていました。
つまり、柳の御所から見てちょうど西側に、金鶏山が聳えていることになります。

西、太陽が沈む方角であり、西方浄土があるとされる方角に、経塚山を作る。篤く仏教に帰依し、西方浄土に往生することへのあこがれが、そのような配置を形作った、かのようにも思われます。

いや、ちょっと待って下さい。藤原清衡が築こうとしたのは此土浄土です。あの世の浄土ではなく、この世の浄土なんです。

果たして、単に「あの世」へのあこがれだけで、配置されたものなのでしょうか。



ところで、「金鶏山」とはどういう意味でしょう。

鶏は夜明けの到来を告げる鳥。天岩戸神話では常世の長鳴鶏などともいい、太陽つまりアマテラスを「呼ぶ」鳥だとされていました。

金は太陽の光を表しているのでしょう。つまり金鶏山とは夜明け、太陽が登る山、という意味ではないでしょうか。

金鶏山の東側には柳の御所、平泉の政庁があります。そこは奥州藤原氏の政治的枢要であり、栄華の中心だった。
東は太陽が登る方向です。

太陽というのは、夕べに一度死んで西に沈み、翌朝復活して東から登る。
これは、一度死んだ藤原氏が、太陽の如く再び蘇るであろうことを暗示しているのではないでしょうか。



ここで、弥勒下生について考えてみます。

56億7千万年後、兜率天浄土におられる弥勒菩薩が如来となって下生される。かいつまんで言うと、その際に極楽往生した者達が仏となってこの世に復活するというんです。

よくわからないのですが、どうやら弥勒は、大事な経文が納められているところに下生されるらしい。日本全国に経塚が作られたのは、その地に弥勒が下生することを願ってのことらしい。
しかも浄土に往生したもの達が仏となってこの世に復活する。

つまり、金鶏山を弥勒下生の地とし、清衡はそこに仏となって再び復活することを望んだ。

そのための用意は周到です。金鶏山のすぐそばには、清衡の遺体を保存した金色堂がある。
復活しようにも、肉体がなければ復活できないでしょ?だから清衡は、己の肉体をずっと保存しておくために、
金色堂を作ったのです。

金箔には防腐作用があるそうです。しかも金色堂の建材はすべて青森ヒバ。
青森ヒバもまた、非常に強い防腐作用がある。藤原三代の遺体がミイラ化したのは、決して偶然ではない。意図的な保存だったのです。



清衡は此土浄土となった奥州を見たかったのでしょう。そして仏となって、奥州の人々を導こうと思った。
金色堂も金鶏山も、そのための装置だったのです。



清衡の成そうとしたことが正しいか間違っているかは、この際おいておきます。ともかく清衡は、奥州を本当に浄土にしたかった。永遠の此土浄土としたかった。
それをすべて、己の手で成したかった。

なんという想いの強さでしょう。私はこの清衡の奥州を思う気持ちに打たれます。




次回からは二代基衡。基衡の建てた毛越寺を中心に、記事を進めていきます。

【続く】



【参考資料】

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『平泉の世紀 古代と中世の間』
高橋富雄 著
NHKブックス






黄金の國【平泉編】~3~金色堂の謎その1 阿弥陀仏と六地蔵

2013-07-20 21:06:09 | 黄金の國
  

               

                 中尊寺金色堂 覆堂
                 〈wikipediaより転載〉


中尊寺境内の中心部南西に金色堂が建立されたのは、1124年(天治元)清衡69歳の時です。

その4年後、清衡は73歳で逝去します。その遺体は、金色堂の須弥壇(仏壇)の内部に遺体のまま納められました。

金色堂は初めから、清衡の葬堂として作られたのです。

堂内には須弥壇が三つあり、中央が清衡、左に二代基衡、右に三代秀衡の遺体が納められています。
もっとも、最初に作られたのは中央の須弥壇だけで、左右の須弥壇は基衡、秀衡がそれぞれ亡くなった際に新たに追加されたものです。
彼らは皆、この目映いばかりの皆金色の葬堂に埋葬されることを望んだ。

それは何故か。

単なる成金趣味なら、自分たちの邸宅を金色で満たせばよい。しかし彼らは、そんなことを一切しなかった。金色で埋め尽くされたのは、この金色堂ただ一つ。他には一切ありません。

葬堂のみが、金色で満たされねばならなかった。




金色堂の御本尊は阿弥陀如来。

阿弥陀様は西方浄土、つまりあの世の浄土におられる仏様です。浄土の主催仏とでも言ったら良いでしょうか。

阿弥陀はサンスクリット語でアミターバ。これは「無量光」などと訳されます。その光は十方を遍く照らし、その障碍となるものはなにもない。金色の光は阿弥陀浄土を表している、と推察されます。

奥州藤原三代は、阿弥陀浄土に眠っておられる…うーん、しかしそれだけだろうか?

藤原三代の遺体は火葬されることなく、そのまま葬られた。しかもその遺体はミイラ状となって、現在も金色堂の中に眠っておられます。遺体には特に防腐処置を施した形跡はないようなので、ミイラ化は偶然かとも考えられますが、はたしてどうでしょうか?

ここで注目されるのが、須弥壇に祀られた尊像の構成です。阿弥陀堂ですから、阿弥陀仏がおられるのは当然として、普通は有り得ない六地蔵が共に祀られているのです。
阿弥陀堂に六地蔵が共に祀られる例は、ここ金色堂の他にはありません。非常に珍しい例です。なぜ金色堂だけが、このような変わった構成となっているのでしょうか。


                 

                  金色堂 須弥壇
                 〈wikipediaより転載〉




地蔵尊は、末法の世より56億7千万年後の弥勒下生までの間、六道輪廻を繰り返す衆生の苦しみを救う、身代わりとなってくれる菩薩です。つまり地蔵尊は、弥勒信仰と深い関わりがあるのです。

金色堂と弥勒信仰との関係を解くカギが、中尊寺が建つ関山丘陵のすぐ側にありました。

平泉に中心にある小高い丘。その名を「金鶏山」といいます。

【続く】



【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社


『中尊寺 千二百年の真実』
佐々木邦世 著
祥伝社黄金文庫




 

黄金の國【コラム】4 骨寺村荘園と中尊寺鎮守白山神社

2013-07-17 21:26:22 | 黄金の國


中尊寺の月見坂を登り切り、本堂を通り過ぎて金色堂を左手に見ながらさらに奥へと進んだ先に、中尊寺鎮守、白山神社が御鎮座されています。

創建は嘉祥2年(849)と伝えられています。慈覚大師円仁が、加賀一の宮白山ヒメ神社の御神霊をこの地に勧請したのが始まりとか。

中尊寺が建立される遥か以前から、関山丘陵には白山神社が鎮座されていた?しかしこれには別の伝承もあって、それのよると、この白山神社は元々、現在の岩手県一関市本寺地区にあったものを、現在の地に移したものだとしています。




本寺地区はその昔、骨寺村とよばれていました。

面白いのは、この地区に伝わる伝承です。かつてこの本寺(骨寺)にあった寺を関山丘陵に移築して建立したのが、中尊寺であると言うのです。

本寺には「平泉野」という地名があって、ここにかつて寺があったのだと、その寺を移したのが中尊寺だと言うのですね。かの白山神社の伝承と合わせて、非常に興味深い話です。



岩手県一関市の西端に位置し、岩手、宮城、秋田三県に跨って聳え立つ霊峰・栗駒山。

修験者達の霊場として開かれましたが、その遥か以前より、土地の人々には「神の山」として信仰の対象となっていたであろう、そんな御山の、岩手県側の登山口に当たるのが、本寺(骨寺村)地区です。

栗駒山頂には、山の御神霊を祀る駒形根神社が鎮座され、本寺地区にはその里宮が鎮座されています。

この本寺駒形根神社の建つ場所には、かつて白山神社が鎮座されていた、という伝承があるのです。

中尊寺内に移られた白山神社跡地に、栗駒山の御神霊を祀る神社が建てられたとするなら、これを極めて安直に、短絡的に考えるならば、

「栗駒山の御神霊とは白山神である」

とも成り得ますね。

所謂被差別には、白山神を祀る神社が極めて多く、また関東以北、特に東北地方において、白山神社は非常に多く分布している、ようです。

被差別民と、蝦夷と呼ばれた東北の民との共通点、それは所謂国津系、

日本列島の先住民ということでしょう。

かつて日本列島においては、白山神が篤く信仰されていた、とするなら、中尊寺に白山神社が鎮座される訳が、何となく見えてきませんか?



仏教の教えを持って奥州に恒久の浄土を築く、一方で「東夷の酋長」蝦夷の頭領を自認する清原にとっては、奥州の民が先祖代々祀ってきた白山神を、蔑ろにするわけにはいかないという思いが強かった。

中尊寺の僧はほぼ全員が世襲だそうですが、後を継ぐに際しては、白山神の「許可」を得なければならない、という話を聞いたことがあります。具体的にどのような儀式を行うのか解りませんが、白山神社はなにげに中尊寺の重要事項に深く関わっている。



中尊寺には、古来よりの東北の民の信仰の伊吹が、その底流深く流れている。

私にはそんな気がします。


黄金の國【平泉編】~2~清衡と仏教

2013-07-16 22:45:33 | 黄金の國


清衡はどこで、仏教を学んだのでしょうか。


岩手県北上市稲瀬町に、極楽寺という小さな寺があります。

いまでこそ小さな寺ですが、かつてこの寺の周辺「国見山」一帯には、数多くの堂塔伽藍が立ち並び、奥州の仏教の中心的な役割を果たしていました。

胆沢城が軍事的に蝦夷を抑える私設なら、国見山の寺院群は宗教的に蝦夷を慰撫する施設だったのでしょう。それが時代の流れと共に、中央の支配力が低下し、安倍氏が台頭するにしたがって、国家の経営から安倍氏の経営へと移って行く。文字通り、蝦夷のための仏教施設となっていきます。

清衡は、豊田舘(岩手県奥州市江刺区)から平泉へと移るおよそ20年の間に、おそらくこの国見山において、仏教を学んだのでしょう。多くの仏典を読みふけり、なかでも傾倒したのが「法華経」だったのでしょう。

法華経の持つ「悉皆平等」の思想に、清衡は魅かれたのだと思う。



仏の下にすべての存在は平等。ならば蝦夷であろうとも、中央の人々となんら変わることのない、平等な存在である、ということになる。

奥州に対する差別を無くし、二度と中央から攻められることのない、永遠の平和を奥州に齎す。

仏教を中心とした、この世の浄土を建設することで、清衡はそれを達成しようとした。

決して、あの世の浄土ではありません。この現実世界に浄土を現出させる。奥州に浄土を建設し、恒久の平和を奥州に齎す。

それが、清衡の描いた夢…。



平安中期頃から東北には、中央とは違った独自の仏教文化が育っていました。

一本の桂の木から仏像を彫り出す「一木作り」。鉈を使って仏像を彫り込んで行き、その鉈の痕が生々しく残ったままの仏像「鉈彫り」等々、それは大自然の中で育った木々一本一本に神(仏)が宿っており、それが今しも立ち現われんとするかのようで、それは大自然そのものに神を見い出す、日本古来の信仰が色濃く残る、いかにも東北らしい仏教表現です。
これらの仏像は素木のままで、金箔などが貼られることはありません。自然そのまま。

これに対し、京の仏教文化は絢爛豪華。清衡は、この京の仏教文化をも積極的に取り入れようとします。それは単に京文化を模倣しようとしたのではありません。

京の文化から学ぶべきものは学び、やがては京と対等の、いや、京をも超えるほどの「文化力」を身に着けること。この「文化力」によって、初めて奥州は、差別されなくなる…。

差別が無くなれば、むやみに攻められることも無くなるだろう。それが、清衡が仏教を中心とした文化力に託した夢でした。



長治2年(1105)。清衡は平泉の関山丘陵において、寺院の造営に着手します。

長治2年のうちに、最初院(多宝寺)が完成。本尊は釈迦如来と多宝如来。嘉祥2年(1107)には、高さ15メートルにも及ぶ二階大堂(大長寿院)が作られ、本尊は三丈(約9メートル)の阿弥陀仏で、脇侍の仏像も丈六(約4.8メートル)だったと伝えられています。
源頼朝が鎌倉に永福寺を建てる際、この二階大堂の威容に負けないだけのものを造ろうとしたことは有名です。

その他主要な堂塔が40余、僧房が約300。落慶供養が大治元年(1126)ですから、一大霊場完成まで、21年の歳月を要したことになります。清衡はその2年後、73歳で逝去します。まさに生涯を掛けた一大事業でした。



さて、中尊寺といえば金色堂ですが、この皆金色の阿弥陀堂が建立したのは、天治元年(1124)。清衡69歳の時です。

次回はこの金色堂を掘り下げてみたいと思います。

【続く】



参考資料

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター







黄金の國【平泉編】~1~清衡の目指したもの

2013-07-13 22:59:26 | 黄金の國


                    

                       奥州藤原氏三代
                       〈wikipediaより転載〉



平泉は奥州の中央、などと言われますが、これは単なる比喩ではありません。

平泉の中心的な宗教施設、関山中尊寺が建つ関山丘陵の辺りは、ちょうど北緯39度地点に当たります。奥州の最南端、白河関が北緯37度1分。最北端にあたる十三湊(青森県五所川原市)が北緯41度1分。
つまり、関山丘陵の北緯39度は、文字通り「奥州の中央」になるのです。凄いでしょ(笑)

藤原清衡の時代に、そんなことまでわかっていたのだろうか?ともかく、この奥州の中央において清衡が成し遂げようとしたもの。

それは奥州の地に、「この世の浄土」を現出させること。





思えば遥か昔、アテルイの、いやアテルイ以前の時代から、東北は折あるごとに中央から攻められた。詐取の対象となった。

何故これほどまでに、東北は、奥州は攻められ続けなければならないのか。清衡は考えました。どうすれば、

中央から攻められずにすむのか…。

中央が東北を攻める理由。それは一言で言えば、差別です。

東北の、奥州の連中は、蝦夷などは、我々よりもずっと劣った野蛮人。王化の恩恵に沃することを好しとしない憎き奴腹。

攻めることも致し方ない。そう思っているのです。

ならば、清衡は考えます。ならば

中央に負けないだけの、文化を持てばよい。

いかに武力で勝っても、それだけでは守りきれないのは、歴史が証明しています。ならば文化力を持つしかない。

その当時の我が国において、最高の文化的権威を誇っていたもの。それは仏教です。

清衡は仏教を中心とした文化都市を奥州に築きあげ、中央に負けない文化を育て、此土浄土を奥州に現出させることで、中央から二度と攻められることのない。蔑まれることのない“國”を作ろうとしたのです。

清衡は実の父も、弟も、妻や子供も、すべて戦で亡くしています。清原自身、戦に継ぐ戦を繰り返す半生を送ってきました。戦の怖さ、虚しさを身に染みてわかっていた。

もう二度と、奥州に戦は起こさせない!



清衡はその有り余る財力を使い、京都から多くの僧侶を呼び、超一流の仏師や職人を平泉に集めます。それは幕末、日本を守るために西洋列強から学ぼうとしたのと、基本的精神は同じです。

単なる京文化の模倣ではない。やがては京文化を越えて、奥州独自の文化を築き上げる。和魂洋才という言葉がありますが、それに倣って言えば、

「奥魂京才」といったところでしょうか。



清衡はまず、奥州を南から北へ繋ぐ道路、奥州街道(奥大道・おくだいどう・おくのおおみち)を整備し、1町(約109メートル)ごとに、金色の阿弥陀仏を描いた卒塔婆を立て、旅人の目印とします。そうして奥州の中心、衣川関へと至る関山丘陵に一基の塔を立てました。

この塔が、中尊寺の始まりでした。塔は奥州の中心であることを示すためのものであり、この関山丘陵一帯に堂塔伽藍を多数建立することで、平泉は仏を中心とした“國”であることを内外に示す意味があったのでしょう。奥大道を行き交う人々は必ず衣川関を通らねばならず、つまりは関山丘陵を通らねばなりません。

旅人は一人残らず、奥州の中心に建つ寺の中を、必ず通ることになる。仏の功徳を、旅人にも与えよう。奥州の“中”心にある、“尊”い寺(中尊寺)で。

ではここで、中尊寺落慶の際、清衡が奏上したという「中尊寺供養願文」に示された恒久の平和思想を、ここに掲げましょう。


   国を護る大寺院の建立にあたり供養し奉ります。

   五色の旗で飾った仏堂に釈迦三尊を、三重塔に大日如来と弥勒菩薩を安置しました。

   瓦葺きの蔵には、紺の紙に金と銀とで経を写した一切経を納めました。

   鐘つき堂を造り、梵鐘を吊るしました。

   その鐘の音は、世界のあらゆる人のもとに届き、苦しみをやわらげ、心を清らかにすることでしょう。

   陸奥の地では、官軍の兵と蝦夷の兵とが争い、古来より多くの命が失われました。

   毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も、数多く殺されてきました。

   その骨は朽ち果て、陸奥の土くれとなっておりますが、鐘を打ち鳴らすたびに、

   罪無くして命を奪われたものたちの霊が慰められ、極楽浄土に導かれることを願っております。

   五百の僧が、釈尊の教えをすべて記した五千巻の一切経を読み上げました。

   その声は天にも達したことでしょう。

   以上のように善行を積む本意は、ただ国家鎮護を祈るためであります。

   幸いにも白河法皇様が統治なさる世に生まれ合わせ、

   安らかに過ごすこと三十年にも及びます。

   今、杖に縋る年齢となり、最後の勤めに、仏道を広める以上のことがあるでしょうか。

   平泉は東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武、四方を神仏が守る理想の地です。

   平泉を都とし、陸奥は恩寵あらたかなる国となりました。

   わたくしは、戦乱で父と叔父を失い、母と妻と初めての子を殺され、

   弟とは骨肉の争いを余儀なくされました。

   殺生に手を染めたこの身が、思いがけなくも蝦夷の棟梁となり、

   陸奥の民が心やすらかに暮らせる国をつくることができました。

   これを仏の慈悲と呼ばずして、なんと呼びましょうか。

   願わくばこの世界中に、仏の道の根本である、万物皆平等の教えが広まらんことを。

   天治三年三月二十四日 藤原朝臣清衡

   (「中尊寺供養願文」現代語による抄訳)




次回以降、清衡の思想、仏教に託した理想を掘り下げて行きたいと思います。

【続く】



参考資料

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』

大矢邦宣

河出書房新社


『東北・蝦夷の魂』

高橋克彦

現代書館