午前中、陸中一宮駒形神社に参拝し、その足で平泉、中尊寺に寄ってみました。
2011年の世界遺産登録直後こそ、観光客でごった返していた境内も、今は大分客足が遠のいているようです。今日は冬場ということもあって、中尊寺境内は実に閑散としたものです。私はまず白山神社に詣で、その後中尊寺本堂に参拝させていただきましたが、どちらにも人っ子一人いない(苦笑)御蔭でゆっくりと参拝させていただきました。
では数少ない観光客はどこへ集まっているのかというと、中尊寺宝物殿である讃衡蔵と、金色堂に集中している。他の場所には目もくれないのでしょうかねえ。折角来たんだから、色々見て行けばいいのにと思うのですが、観光なんてものは、そんなものなんですかねえ。
まあ、私としては、世界遺産登録が単なる観光地化のためだけのものなら、意味など無いと常々思っておりましたし、元々静かな平泉が好きでしたから、観光客が減るのは一向に構わないのですがね(笑)いやいや、生活が懸かっている方々にとっては、そんな呑気なこと言ってられないでしょう。失礼いたしました。
さて、静かな境内をゆっくりと歩きながら、藤原4代の“想い”について考えていました。
初代清衡はその生涯の大半を戦乱に明け暮れて過ごし、二度と戦のない、理想の浄土を奥州に築くべく、その浄土の象徴として中尊寺建立に尽力しました。2代基衡、3代秀衡はその初代の理想を引き継ぎ、平泉の街を整備してきました。
しかしその100年の栄華も、源頼朝の手によって潰えます。頼朝は平泉の寺社を篤く保護しましたが、度重なる火災によって、そのほとんどは灰燼に帰し、往時の面影を伝えるものは、わずかに中尊寺金色堂及び経蔵のみ。
芭蕉翁が詠んだ如く「つわものどもが夢のあと」です。
私の中で、4代泰衡に対する評価は、二転三転しています。
巷間伝えられている通り、凡庸な人物だったのか、それとも実は、優れた人物であったのか。
平泉寄りの小説などを読んでおりますと、泰衡は大変優秀な人物であったかのように描かれていることが多く、私なども心情的には、そちらへ傾きたくなってしまいますが、
やはり凡庸、愚昧としか言いようがなかったのではあるまいか。
いずれにしろ、泰衡の代で平泉は滅びます。泰衡自ら幕を引いたようなものです。
その点だけは、逃れようのない事実。
泰衡の父、3代秀衡はその臨終の間際、「いざとなったら源義経を大将として戦え」と遺言を残します。
兄頼朝に追われ、平泉に逃亡していた義経。その義経を総大将として、頼朝の軍勢と戦え、と言遺したのです。
平泉には音に聞こえた精強な軍団が揃っていましたが、いかんせん一度も戦をしたことがない。対する頼朝の軍勢は歴戦の強者、経験値の高さではとても敵わない。しかも泰衡が総大将ではいかにも心もとない。
そこに戦上手の義経を据えることによって、戦の経験のない者達をも上手く使ってくれるだろうし、なにより義経の名そのものが、敵にとっては大きなプレッシャーとなる。
あわよくば、「抑止力」となるやも知れぬ。
そこまで考えての策だったように思われます。
しかし泰衡はこれに従わず、義経をだまし討ちにして殺害。義経の死を知った頼朝勢は好機とばかりに攻め上がり、ついに平泉は滅亡するのです。
平泉は、恒久平和の理想郷、此土浄土を顕現せんとして作られた都市だったといっていい。
しかしその平和を守るために、今にも攻めかからんとする敵を前に、いかにするべきかを、秀衡は考えた。
考えて考えて、義経という逸材を活用することを思いつきました。
しかしこの妙案を、息子の泰衡が潰してしまうかたちとなってしまった。
義経を差し出して、ひたすら恭順すれば、頼朝も攻め込むことはないだろう。この泰衡の甘い考えが、黄金の國平泉を滅ぼしてしまった。
この平泉の歴史から、現代人が学ぶべきものはなんでしょう?
平和を守るために、本当にすべきことは何なのか。
平和を守るために、秀衡が考えたことと、泰衡が採った行動とそれが齎した結果と。
今を生きる日本人一人一人に、この歴史的事実から学んでほしい。
それが、藤原4代が我々に伝えている“想い”のような気がします。
金色堂に参拝させていただいたのは、何年ぶりだろう。
なんせ、拝観料が掛かるもので(笑)地元民はあまりしょっちゅう訪れることはないのです。
久々の皆金色の御堂を前に、藤原4代の葬堂を前に、ひたすら感謝を捧げました。
奥州藤原氏が目指した恒久平和の此土浄土。黄金の理想郷が、いつか本当にこの世に顕現することを夢見て。