風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

冬の平泉

2015-01-26 17:21:21 | 黄金の國




午前中、陸中一宮駒形神社に参拝し、その足で平泉、中尊寺に寄ってみました。

2011年の世界遺産登録直後こそ、観光客でごった返していた境内も、今は大分客足が遠のいているようです。今日は冬場ということもあって、中尊寺境内は実に閑散としたものです。私はまず白山神社に詣で、その後中尊寺本堂に参拝させていただきましたが、どちらにも人っ子一人いない(苦笑)御蔭でゆっくりと参拝させていただきました。

では数少ない観光客はどこへ集まっているのかというと、中尊寺宝物殿である讃衡蔵と、金色堂に集中している。他の場所には目もくれないのでしょうかねえ。折角来たんだから、色々見て行けばいいのにと思うのですが、観光なんてものは、そんなものなんですかねえ。

まあ、私としては、世界遺産登録が単なる観光地化のためだけのものなら、意味など無いと常々思っておりましたし、元々静かな平泉が好きでしたから、観光客が減るのは一向に構わないのですがね(笑)いやいや、生活が懸かっている方々にとっては、そんな呑気なこと言ってられないでしょう。失礼いたしました。




さて、静かな境内をゆっくりと歩きながら、藤原4代の“想い”について考えていました。

初代清衡はその生涯の大半を戦乱に明け暮れて過ごし、二度と戦のない、理想の浄土を奥州に築くべく、その浄土の象徴として中尊寺建立に尽力しました。2代基衡、3代秀衡はその初代の理想を引き継ぎ、平泉の街を整備してきました。

しかしその100年の栄華も、源頼朝の手によって潰えます。頼朝は平泉の寺社を篤く保護しましたが、度重なる火災によって、そのほとんどは灰燼に帰し、往時の面影を伝えるものは、わずかに中尊寺金色堂及び経蔵のみ。

芭蕉翁が詠んだ如く「つわものどもが夢のあと」です。







私の中で、4代泰衡に対する評価は、二転三転しています。

巷間伝えられている通り、凡庸な人物だったのか、それとも実は、優れた人物であったのか。

平泉寄りの小説などを読んでおりますと、泰衡は大変優秀な人物であったかのように描かれていることが多く、私なども心情的には、そちらへ傾きたくなってしまいますが、

やはり凡庸、愚昧としか言いようがなかったのではあるまいか。

いずれにしろ、泰衡の代で平泉は滅びます。泰衡自ら幕を引いたようなものです。

その点だけは、逃れようのない事実。





泰衡の父、3代秀衡はその臨終の間際、「いざとなったら源義経を大将として戦え」と遺言を残します。

兄頼朝に追われ、平泉に逃亡していた義経。その義経を総大将として、頼朝の軍勢と戦え、と言遺したのです。

平泉には音に聞こえた精強な軍団が揃っていましたが、いかんせん一度も戦をしたことがない。対する頼朝の軍勢は歴戦の強者、経験値の高さではとても敵わない。しかも泰衡が総大将ではいかにも心もとない。

そこに戦上手の義経を据えることによって、戦の経験のない者達をも上手く使ってくれるだろうし、なにより義経の名そのものが、敵にとっては大きなプレッシャーとなる。

あわよくば、「抑止力」となるやも知れぬ。

そこまで考えての策だったように思われます。

しかし泰衡はこれに従わず、義経をだまし討ちにして殺害。義経の死を知った頼朝勢は好機とばかりに攻め上がり、ついに平泉は滅亡するのです。






平泉は、恒久平和の理想郷、此土浄土を顕現せんとして作られた都市だったといっていい。

しかしその平和を守るために、今にも攻めかからんとする敵を前に、いかにするべきかを、秀衡は考えた。

考えて考えて、義経という逸材を活用することを思いつきました。

しかしこの妙案を、息子の泰衡が潰してしまうかたちとなってしまった。


義経を差し出して、ひたすら恭順すれば、頼朝も攻め込むことはないだろう。この泰衡の甘い考えが、黄金の國平泉を滅ぼしてしまった。

この平泉の歴史から、現代人が学ぶべきものはなんでしょう?

平和を守るために、本当にすべきことは何なのか。



平和を守るために、秀衡が考えたことと、泰衡が採った行動とそれが齎した結果と。

今を生きる日本人一人一人に、この歴史的事実から学んでほしい。


それが、藤原4代が我々に伝えている“想い”のような気がします。










金色堂に参拝させていただいたのは、何年ぶりだろう。

なんせ、拝観料が掛かるもので(笑)地元民はあまりしょっちゅう訪れることはないのです。


久々の皆金色の御堂を前に、藤原4代の葬堂を前に、ひたすら感謝を捧げました。

奥州藤原氏が目指した恒久平和の此土浄土。黄金の理想郷が、いつか本当にこの世に顕現することを夢見て。

黄金の國【番外編】 ケロ平が行く!

2014-06-06 19:33:36 | 黄金の國



                      
                           柳御所跡公園(wikipediaより)





柳御所は奥州平泉藤原氏の政庁跡、「吾妻鏡」に平泉舘と記述された政庁の跡であろうとされています。

平成24年、この柳御所遺跡の発掘調査により、折敷(お盆)の破片に描かれた「カエル」の絵が発見されました。




  見えるかな?




カエルを擬人化した絵で、京都の高山寺に伝わる「鳥獣戯画」に描かれたカエルによく似ていますね。



   鳥獣戯画(wikipediaより)



岩手県では、平泉が世界遺産の指定を受けた6月29日を「平泉の日」と定めたとか。そのイベントに合わせて、発見されたカエル君の絵を現代風にキャラクター化し、先日そのキャラクターが発表されました。

その名も「ケロ平」(けろひら)。



                
                    http://www.pref.iwate.jp/seisaku/manga/005758.html




                  
                       http://www.pref.iwate.jp/seisaku/manga/005758.html




柳御所遺跡からは、大量のからわけや、大陸から博多を経由して平泉に渡ったと思われる白磁の壺などが発見されています。かわらけとは、酒を飲むときに使う平碗で、使い捨てなんです。これが大量に発見されるということは、頻繁に宴会が行われていたということでしょう。それはおそらく、政治的意図を持った接待の意味もあったでしょう。


そんな酒の席で「京では今時このようなものが流行っておるとか」と、お盆の裏にでもさらさらと書き記した御仁がおられたのかも知れませんね。

そのような情報が比較的短期間で入ってくる状況にあったわけだし、またそうした興趣を解する精神的な文化も成熟していたと思われます。

こうした出土物を通して、当時その場に生きた人々の伊吹を感じることが出来ますね。






歴史とは、人が生きた証しであります。

その時代その場所に、確実に「生きた」人々がいて、その方々が命を繋げてきた、その繋がりの中に我々は生かされている。

出土物を通して、そうした事を感じるのも、一興かと。






鳥獣戯画はマンガの元祖とも言われます。そういえば、岩手県は漫画家さんの在住率が結構高いように思われます。もっとも全国的に有名な方は少ないみたいですが(笑)

日本では漫画であったり、人形浄瑠璃のような、人間以外のものを使って、人間世界を風刺したり、人情の機微を描いたりする文化が伝統としてあって、それが現代のマンガ文化やアニメーション、特撮物などに繋がっていると私は考えます。

日本のマンガやアニメは最早世界的なものです。コスプレや、アニソンを日本語で歌うことは、今や世界中の「オタク」さん達の常識。

アニメが生み出したキャラクターはやがて、日本のヴィジュアル系バンドや、きゃりーぱみゅぱみゅ、ももいろクローバーZなどのアイドルと結びついて、日本のサブカルチャーの世界的浸透度を増していきました。

やがてそれは、「日本語」そのものへの関心を生むことになる。




つまり、松たかちゃんはももクロに足を向けて眠れないってことさ(笑)







で、結局なにが言いたいかというと、このケロ平、どう思いますか?


かわいい……ですか????????




なんか、妙にリアルというか……。




もうちょっと、なんとかならなかったのかなあ……。

黄金の國【総論】日本の中の東北 ~今私が思うこと~

2013-11-17 15:32:16 | 黄金の國


東北の歴史を熱心に語りたがる方々の中には、ややもすると反中央的、反天皇制的であり、「東北独立」などと有り得ない夢を語る方々もおられるようです。

東北にはかつて、大和とは違う王国が存在し、それを大和が侵略、征服したのだ。その後大和は歴史を改ざんし、「日本」という国名を奪った。
東北と大和は違うのだ。だから東北は独立する権利がある!

…とまあ、こんな論旨のようです。

東北に果たして「国」と呼べるだけのレベルの王権が存在したのだろうか?正直疑問です。五世紀から六世紀にかけての頃には、岩手県のほぼ中央、胆沢平野に前方後円墳(角塚古墳)が築かれており、これは大和朝廷の勢力下にあったことの考古学的証明と見るべきで、大和と違う独立国があったとは、にわかには考えられない。例え文献は改ざん出来ても、考古学的資料を改ざんするのは難しいでしょ?

確かに奥州藤原氏のような「地方政権」と呼べるような独自の政治体制を執っていた時期もありますが、奥州藤原氏の権力基盤はあくまで朝廷より与えられた官位官職にあります。朝廷の後ろ盾無しに、奥州藤原氏の権力は有り得なかった。これは日本版“冊封体制”というべきもので、とても独立国家とは言えません。

ではアテルイの時代に独立国はあったのか?これも難しいですね。少なくとも「国家」と言えるだけの規模を示すような考古学的資料は発見されていませんし、海外の文献にも見られない。

中国の文献『旧唐書』等に、倭国と日本とを別々の国のように記している記事があるので、これを根拠に大和政権とは違う「日本国」があったのだ、と主張するむきもあるようです。
そういう考え方も出来なくはないですが、これは単純に、唐側が日本の意図をよく理解できなかったということではないでしょうか。
倭という国名は中国側が付けたもので、これは冊封体制の下では宗主国が臣下の国々に対して行う当然の行為でした。日本側はそれを嫌ったんですね。日本は唐の臣下ではない、対等の独立国である。それを宣言するために、自ら「日本」という国号を名乗った。
唐側はそれがよく理解できなかった。「えっ、どういうこと?倭と日本って違う国なの?同じなの?」その困惑が、そのような記事となって表された。
冊封体制から抜け出そうとする国があるなど考えられなかったのでしょうね。日本はその考えられないことを成し遂げ、今日まで続けてきたのです。

これは凄いことです。





東北地方を「ひのもと」「日高見」と呼ぶ風は古くからあったようです。

「ひのもと」はやまとことばですから、「ニッポン」「ニホン」よりも古い言い回しかもしれない。だからこそ、その東北の呼名を大和が盗ったのだ、という説が出てくる。

日本とは「日が昇る国」という意味です。これは東の果てに有り、天照太御神を祀る国としてはまことにふさわしい国号です。その視点は西から見た視点であり、おそらくは日本列島を目指して西方からやってきた人々が、自分達が赴くべき「聖地」に対し憧れを込めて呼んでいた地名ではなかったでしょうか。そして東北地方はその「ひのもと」の国の中のさらに東の果てにある、「ひのもとの中の聖地『ひのもと』」だった。
東北を「ひのもと」と呼ぶ風は、おそらくそうした故事に由来するのではないかと、私は想像します。

日本は最初から「日本」だったのです。「倭」は中国側が勝手につけた国名に過ぎない。





大和と東北は違う民族?そうでしょうか。

日本人の遺伝子には共通の傾向があります。Y系遺伝子D系統というもので、これはユダヤ人と日本人それとチベット人以外にはほとんどみられないものだそうです。

逆に言えば、東北人だろうと関西人だろうと、ほぼすべての日本人が持っている遺伝子なのです。これはアイヌ人がもっとも強くその傾向があり、次いで沖縄人、日本本土人だとか。要するにほぼすべての日本人が共通してもっている。日本人のベースとなっている遺伝子だということです。

日本には古来より世界中からあらゆる人種の人々が渡来していたようです。世界中で日本人くらい、バラエティに富んだ顔立ちをしている民族はいないでしょう。日本人はハイブリッド民族だと言っていい。
しかし、その根底にある遺伝子には、ベースとなった民族の遺伝子が脈々と受け継がれている。そういう意味では、日本人は「単一」民族でもある。

他用にして単一、単一にして他用。それが日本人の本質。だから日本人はスゴイのです。優れているのです。

大和と東北は違ってなどいません。同じ「日本人」なのです。

そしてその日本民族統合の象徴として、天皇陛下がおわします。




東北の歩んだ歴史を見てくると、何故東北ばかりが悲惨な目に会わねばならないのか?と悲しい気持ちになる、怒りが湧いてくる。
その原因は大和国家のせいだ!日本のせいだ!そして天皇のせいだ!と思いたくなる人々もいる。

その気持ちはわからないでもない。かつては私も、若い頃にそのような気持ちに駆られたことがある。

しかし今は違います。東北の歴史は、むしろ東北の民に架せられた貴い「お役目」なのだと思っています。

日本の負の側面を背負いそれを流す。聖地「ひのもと」に住む人々に与えられた、それが聖なるお役目なのだと。

被災直後の人々の行動、それが世界に与えた衝撃。

あれが真の日本人の姿です。東北人は日本人そのものです。

考えてもみてください。もし東北が日本から独立したとして、「東北国」はなにを心の拠り所としてまとまって行くのでしょう?東北人であるというだけで、果たして国家としてのまとまりができるでしょうか?私は無理だと思う。ヘタをすればどこかの国みたいに独裁政権が出来上がり、混乱状態を呈することになるでしょう。

失って初めてわかる天皇のありがたさ、では遅いのです。




「ひのもと」の聖地東北はこれから輝くのです。
東北から日本を変えてゆく。そうした気概を持ちましょう。

いつまでも「コンプレックス」に苛まれていてはいけない。

黄金の國【アテルイ編】補稿 ~朝廷は何故奥州に拘ったのか~

2013-11-09 11:57:26 | 黄金の國


古代より歴代の中華王朝は、周辺諸国に官位などを与え、その支配権を保障してきました。周辺の弱小国は強大な中華帝国の庇護の下にあって、自国の安寧を図った。これを冊封体制といいます。

冊封体制の下にある国は当然ながら独立国とは言えず、その軍事力や文化、社会制度などほぼすべてが中華王朝におんぶにだっこ。これでは独自性は育たず、独立など望むべくもない。

日本は三世紀ごろから中華王朝に朝貢を行い、冊封体制のなかに一時的に組み込まれますが、5世紀半ば頃、雄略天皇の時代に朝貢を中断、以後日本は独自の方向に進み始めます。
600年代に入り、推古天皇の時代から遣隋使を派遣し朝貢を再開しますが、第二回遣隋使の際、推古天皇が隋の煬帝に宛てた国書には

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」

と書かれていました。つまりこれは、我が国日本は隋と対等の関係にある。だから朝貢はするけれども、冊封は受けません、という意思表示であり、日本は独立国であるという表明だったのです。

これは決してトチ狂ったわけでもなければ驕ったわけでもない。日本が独立国としての道を歩むための当然の表明でした。隋の煬帝は当然激怒します。激怒しましたが、認めないわけにもいかず、朝貢関係を続けます。それだけ日本の国力を、ある程度認めていたということでしょう。

日本は朝鮮半島に拠点(任那日本府)を築き、百済と親密な関係を結びますが、同じ朝鮮半島の国新羅が唐と連合軍を組んで百済を攻めます。
663年、百済の救援要請を受けて日本は軍を派遣、唐・新羅連合軍と日本・百済連合軍は白村江にて激突、日本は敗れ、朝鮮半島の権益を失ってしまいます。

その直後あたりから、日本は九州に水城などの砦・防塁を多数築き、防人を派遣して防備を強化します。一方、それまでは比較的緩やかだった対蝦夷政策を強行策へと転じ始めるのです。

大和朝廷の政策は基本的に「言向け和す」。力ずくではなく話し合いをもって解決することをモットーとしていました。
東北の民は頑固だが決して好戦的ではなかった。戦をすればとてつもなく屈強で勇敢な手強さを持つが、基本的には穏やかな平和主義者ですから、時間をかけてじっくりゆっくり融和政策を続けて行くつもりだったのでしょう。
実際、五世紀には胆沢平野に前方後円墳である角塚古墳が築かれており、このころまでには現在の岩手県中央部まで大和文化の影響が強く広がっていました。同系統の墓を築くということは、影響と言うより、大和朝廷による支配がある程度確立していた、と考えた方が良いのかもしれません。
蝦夷の族長クラスには、「蝦夷爵」と言われる官位が与えられ、朝廷よりその支配権を認められていました。「大墓公阿弖流為」「磐具公母體」などの「公」が蝦夷爵になります。
これは日本版「冊封体制」とも言えるもので、つまりは蝦夷達は、大和朝廷にある程度服属していた、と解釈すべきなのかも知れません。

だから、このまま穏やかな政策を続けていれば、反乱が起こることは無かったかもしれない。

しかし、朝鮮半島の権益を失い、経済的基盤が大きく揺らいでしまった朝廷は、新たな経済的基盤を確立するために、国内に目を向ける他なくなってしまった。

それが、奥州の沃野だったのです。

そこには唐に対するプライドもあったでしょう。日本が文化のお手本とした歴代中華王朝には、いわゆる「中華思想」というものがありました。日本もこの中華思想の影響を受け、周辺のまつろわぬ蛮族どもを服属させてこそ一流の文化国家であるという認識があったのです。

東夷など大和より劣った蛮族、いう事を聞かなければ攻めるのも致し方ない。そのようなある種の「差別意識」もあって、強硬策に転じていったのでしょう。

経済的基盤の確立、国力の増強。唐に負けない文化国家であることを示すというプライド。

朝廷が力ずくで奥州を捕りにきた理由はここにある、と思われます。



紀元700年前後あたりから、朝廷は現在の宮城県や山形県に地方支配の役所である「官衙」を置き、行政区画である「郡」を設置、強引な支配体制を固めて行きます。
これに蝦夷達は反発、養老4年(720)には陸奥按察使(むつあぜち:東北地方行政、軍事の最高司令官)上毛野広人(かみつけぬのひろと)が蝦夷によって殺害され、両者の対立は決定的になります。

朝廷は対蝦夷前線基地として多賀城(宮城県多賀城市)を設置、さらに現在の宮城県石巻市付近に桃生城、雄勝城を設置し防備を固めて行きます。

宝亀5年(774)この桃生城が襲撃され陥落。さらには宝亀11ねん(780)朝廷側についていた蝦夷の族長・伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ)が反乱を起こし、按察使の紀広純(きのひろずみ)を殺害、勢いを駆って多賀城を襲撃し、多賀城は焼け落ちてしまう。

こうして戦線は拡大して行き、ついにアテルイの登場となるのです。






基本的には日本の独立を保つため、日本のために行われたことです。

長い長いスパンで見れば、それは東北のためにもなったのだ、と言えるのかもしれない。

しかしながら、このことのために多くの血が流され、多くの命が奪われたことは確かです。

今更恨み言を言うつもりはありません。ありませんがしかし、日本がその歴史を刻んでいく上で、このような悲劇が起きたのだ、このような犠牲が払われたのだ、ということは知っておくべきです。

日本を愛するのなら、日本を愛すればこそ、知っておくべきです。

忘れないでいただきたい。彼らのような多くの犠牲が、多くの流された血が、我が国の礎となっていることを。

忘れないでいただきたい。

彼らへの感謝を。


【黄金の國】ここだけ話 『月見坂今昔』

2013-09-07 22:55:03 | 黄金の國


世界遺産登録前と登録後でなにが変わったかって

白山神社の手水舎の水が、平日でも流れてる!(笑)

登録前は日曜とか祝日以外の日には、水が止められていたんです。いや、酷い時には日曜日でも水が止まってる時がありましたね。だから以前は、参拝するときは車の中に必ずペットボトルの水を常備していました。

それだけ多くの人が来ているということでしょう。二年前の登録仕立ての頃に比べたら、だいぶ観光客の数は減りましたけど、それでも往年に比べたらまだまだ多いということか。ま、世界遺産効果様様なんでしょうねえ。



世界遺産になるってことが、単に観光客を呼び込むための役にしか立たないのであるなら、そんなものはいらない!と思っていました。

わけわからん観光客が大挙してやってきて、意味もわからず騒ぎ捲って汚し捲って去って行く…そんなのは御免だ!私は静かな平泉が好きなんだよ!!!

しかしまあ、そうは言っても、地元の人達の生活もあるし、お客さんは来ないよりは来た方が良いことも確か。

まあ仕方ない。これが契機となって、平泉の内包する「平和主義」この世に理想の浄土を築くことを目指した深い思いというものに、何かを感じ入る方々が一人でも増えるなら、それも良いかも知れない、と思うことにしました。これを契機として、東北の歴史に少しでも目を向けてくれる方々が一人でも多くなるなら、それも良かろうと。

実際観光客の中には、「なんだこんなもんかい」みたいな、馬鹿にしたような態度をとる連中もいますね。まあ仕方ない、そんなのは放っとけ。所詮、縁無き衆生だったのだ。

一人でもいい。平泉に、東北という風土に、何かを感じ取ってくれる方々が一人でも増えれば

それで良し。



話とびます、すいません(笑)「八重の桜」観てて思ったんですけど、尚之助(長谷川博己)さん、悔しかっただろうな、無念だったろうな。そんな思いを抱いて亡くなった会津の方々は本当に沢山おられたのだろうな。
そしてその後の、八重さんと襄さんのやりとり。弟の三郎が斃れた場所で聴いた「声」。

遥かなる往古の昔より今に至るまで、数えきれぬほど多くの方々が、悔しさや恨み辛みやらの無念を抱えたまま亡くなられただろう。それは、私の御先祖様も同じこと。

その「声」は聴こえなくても、その「思い」はわからなくても、私はその無念を、怨み辛みを、苦しみ哀しみを、少しでも癒してあげたい。昇華させてあげたい。

それが私の最大の望み。

それさえ出来たら、あとは何もいらねえや。金もいらなきゃ名誉もいらぬ。あたしゃも少し背が欲しい。あっ、これはネタね(笑)。



今日もまた、沢山の方々が月見坂を行き来しました。

その方々は中尊寺に、平泉に

果たして何を感じたのでしょう。何を見い出したのでしょう。



                  
                    中尊寺山内から眺めた束稲山
                    「大」の文字がくっきり


黄金の國【コラム】8 中尊寺鎮守白山神社能楽堂

2013-09-06 22:10:40 | 黄金の國


  


中尊寺の鎮守社、白山神社は中尊寺の北の奥、一番上に鎮座されています。

その起源が中尊寺よりも古いことは以前取り上げました。この白山神社にはかつて、「姥杉」と呼ばれた御神木が立っており、その香は伽羅の如くであったといいます。

これを後水尾天皇(1596~1680)に献上したところ


                いく千とせ齢ふりぬる神の木か神ハしら山杉の一本


との御製を賜りました。

この御神木は文化元年(1804)落雷のため焼け落ちてしまい、現存しておりません。


御祭神は現在ではイザナギ、イザナミ。江戸の頃はククリヒメであるとされ十一面観音が祀られていたようです。
菅江真澄(1754~1829)の著書『かすむこまがた』によると、地元民はこの神を「韓神」であるとしていたようです。つまり朝鮮半島の神ということですが、そうなると太白山あるいは白頭山の神ということでしょうか。
しかしこれは案外「逆輸入」であるかもしれない。

遥かな太古、白山信仰を持って朝鮮半島に渡った人々が、太白山や白頭山に同様のものを感じ信仰した。そうして長い年月を経、自分達のルーツを忘れた頃に再び日本に帰ってきた。
白山の信仰と太白山、白頭山の信仰とがそうして混ざり合ってしまった結果、そのような伝承が出来上がったのではないでしょうか。なんてことをちょっと妄想してみました(笑)。


白山神社における奉納舞は、長床と呼ばれた拝殿にて行われていたようです。嘉永2年(1849)6月、その拝殿が不審火にて焼失、同6年(1853)に再建されたのが、現在の能楽堂になります。




                 









さて、明治9年(1876)、明治天皇は東北御巡幸の途上であられる7月4日に中尊寺を御参観されています。随行は木戸孝允と岩倉具視。金色堂を御参観された際に、先の木戸や岩倉らから奏上を受け、この金色堂は「天下の規模」であるから永世保護せよと厳命されたとか。

どうやらこれが契機となって、金色堂は国宝第一号に指定されたようです。


ところで、明治大帝の御参観されるにあたって、中尊寺内でちょっとした議論が沸き起こったようです。

中尊寺の参道は、入り口から「月見坂」という長い坂が続きます。この月見坂を登り切ったところに「黒門」と呼ばれる門があり、門の片隅に、「下馬」という意味の文字が彫られた古い石碑が建っています。


                      
                         中尊寺黒門


                                 
                                    かろうじて「下」の字は見える


江戸時代、平泉は仙台藩の領地であり、伊達のお殿様は馬に乗って月見坂を登ることが許されていました。
しかし、この黒門より先は聖域であるので、例え殿様であろうとも馬上の人であることは許されず、必ず下馬して徒歩で移動するように、という意味の石碑なのです。
さあしかしこれが、天皇陛下であればどうでしょう?陛下を伊達の殿様と同列に扱うかたちになってしまわないだろうか?これは著しく不敬にあたるのではないか?いっその事石碑を無くしてしまったらどうか?等々の議論が繰り返されたようです。
結局、宮内省より「そのままでよい」とのお達しがあったため、石碑は倒されることなく、現在も同地で月見坂を登ってくる人々を静かに見守っています。




さて、明治大帝は寺内を御参観せられた後、白山社能楽堂に立ち寄られ、舞台正面に用意された「玉座」に着かれ、能「竹生島」をご鑑賞されました。爾来、中尊寺の神事能といえば、「竹生島」が一番となるのが通例となっています。

                         
                          撮るべきかどうか迷いましたが
                          御挨拶させていただいた上で
                          撮らせていただきました。



 

中尊寺に立ち寄る機会がありましたなら、是非にも白山社に寄っていただきたい。能楽堂を見ていただきたい。いやわけわからん観光客はご遠慮願いたいですが(笑)。

平泉の内包する「平和思想」に思いを馳せる、真摯な信仰心をお持ちの方は、是非。  



【参考資料】
『中尊寺千二百年の真実』
佐々木邦世 著
祥伝社黄金文庫

『みちのく平泉を歩いた文化人たち』
岩淵国雄 著
本の森

『歴代天皇総覧』
笠原英彦 著
中公新書
                                       












黄金の國【コラム】7 平泉文化の広がりと白山

2013-08-28 21:32:29 | 黄金の國


鎌倉幕府の官選史書『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏初代・藤原清衡は

「奥羽一万ヵ村の村ごとに伽藍を建立し仏聖灯油田を寄進した」
(『吾妻鏡』文治五・九・二三)

といいます。福島県いわき市の願成寺・白水阿弥陀堂は、藤原秀衡の妹徳尼による創建と伝えられ、「白水」とは、平泉の「泉」の字を二つに分解したもの(「白」+「水」=「泉」)なのだそうです。また、茨城県常陸太田市の西光寺薬師如来坐像は、当地の豪族だった佐竹昌義に嫁した清衡の娘による造像と伝えられています。

このように平泉文化の広がりの痕跡は各地に残されているのですが、なかでも際立っていると思われるのが、北陸の霊峰・白山に伝わる「秀衡伝説」です。




白山は加賀、美濃、越前に跨って聳え立つ霊山で、三峰それぞれが神格化され本地仏が祀られていました。『白山之記』によると、秀衡によって白山山頂に金銅仏が、御前峰には金銅十一面観音像、大汝峰には金銅阿弥陀如来像、別山には金銅聖観音像がそれぞれ寄進されたとあり、秀衡の白山にたいする信仰心の篤さが感じられます。
この寄進より400年後、天正13年(1585)に、この別山の本地仏・聖観音像が盗難に会い、鋳つぶされるという事件が起きます。これは奥州藤原氏の寄進だから、純金製であるに違いないと勝手に思い込んだ盗賊が鋳つぶしてしまったもので、奥州の黄金伝説は、国内においてもかなり大きく喧伝されていたものと思われますね。

白山周辺には他にも秀衡の伝説が伝えられています。

岐阜県郡上市石徹白(いとしろ)の白山中居神社には、秀衡の寄進による銅像の虚空蔵菩薩坐像が祀られていましたが、明治維新の後、神仏分離令によって河原に捨てられてしまった。これを里人が救い、観音堂を建てて安置され、現在も大切に祀られています。

この石徹白に伝わる伝説が面白い。この石徹白の上杉家に伝わる『上杉系図』によれば、秀衡が二体の金銅仏を造らせ、三男忠衡を名代とし、桜井平四郎と上杉武右衛門に命じて、白山の上神殿(石徹白の白山中居神社)と下神殿(伊野原)にそれぞれ一体ずつ奉納させました。
その後、上杉武右衛門はそのまま石徹白に住みつき、一族郎党は白山社の社人となり、その子孫は「上村十二人衆」として代々この像を護持し続けてきたのだそうです。
白山の麓で、奥州藤原氏の家臣の末裔たちが、秀衡の命を受け継ぎ代々守り続けて来たとは、なにやらロマンですねえ(笑)
ちなみに伊野原の下神殿に祀られていた仏像は、現在、平泉寺塔頭顕海寺に祀られている銅像阿弥陀如来坐像である可能性が高いそうです。

その他、石川県白山市の白山比メ神社の阿形の獅子と吽形の狛犬は、秀衡による寄進と伝えられるもので、国指定重要文化財とされています。また、白山市の林西寺に伝わる金銅十一面観音像も、秀衡による寄進との伝承があるそうです。



秀衡の白山への想いの深さ。そこに政治的なものを見る研究者もおられるようです。素人の私にはわかりませんが、秀衡の白山への篤い信仰心というものを、もっと素直に認めても良いような気がしますね。
自ら「東夷の酋長」を名乗り、蝦夷であることにアイデンティティを見い出していた奥州藤原氏です。その蝦夷達、原日本人ともいうべき人々が信仰していたであろう白山神を大切にしたいという思いを、私は秀衡の行動から見い出したい。もちろんこの時代は源平争乱の時代、源氏と平氏両者との、なんらかの政治的駆け引きというものも、裏側にはあったのかも知れませんが。



「秀衡伝説」は東北を越えて関東や紀州熊野にまで残されています。また、京都市上京区の大報恩寺(千本釈迦堂)は秀衡の孫・義空上人による建立と伝えられています。京においても「秀衡」の名がある種の「ブランド」のように扱われている。「秀衡ブランド」は奥州黄金伝説とセットとなって、一時期大いにこの国を席巻したように見受けられます。




平泉に関しては、紹介し切れていないことがまだまだ沢山あります。そのことは今後も機会がある度に書き連ねていきたいと思います。ですから【黄金の國】シリーズは不定期ながらまだまだ続くということで、

よろしくお願いします。



【参考資料】
『平泉藤原氏』
工藤雅樹 著
無明舎

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

黄金の國【コラム】6 ジパング伝説と平泉

2013-08-25 19:09:08 | 黄金の國


天平勝宝元年(749)、陸奥国小田郡、現在の宮城県涌谷町黄金迫で、日本初の金が産出されました。

この黄金を巡って、奥州では様々な攻防が繰り返されることになります。東北の古代史、争乱の影には、ほぼ必ず、この黄金の管理権を巡る攻防があった、と言って過言ではないでしょう。

古代日本においては、金に貨幣的な価値はありませんでした。金は仏像に鍍金するためのものであり、それ以外には使い道がほとんどなかった。しかし、海外との関係においては、金は多大な価値を発揮します。
遣唐使は奥州産の金を持参して、これを貨幣代わりに使用しました。また平清盛などが熱心に行った宋との貿易においても、奥州金は大いに活躍しました。「宋史 日本国」には、「東の奥州に黄金を産し、西の別島(対馬)に白銀を出だし、もって貢賦と為す」と書かれています。

平清盛の長男で奥州を知行していた平重盛が、気仙郡より献上された砂金1300両を宋の商人に託し、1000両を宋皇帝に献上し、200両を阿育王寺の僧侶に寄進して、阿育王寺に自分の菩提を弔う小堂を建立して欲しい、と願います。宋皇帝は重盛の志を喜び、御堂を建て500町の供米田を寄進したといいます。

また藤原秀衡は元暦元年(1184)、平氏に焼かれた東大寺大仏殿再建のため、5000両(約185㎏)の金を寄進しています。1両は約37gですから、これを現在の価格、1g4千円として計算すると7億4千万円に上ります。
この様な事実の積み重ね、そして皆金色の阿弥陀堂・金色堂の存在は、黄金の都平泉のイメージを内外に広めることに、多大な貢献を果たしたことでしょう。
黄金といえば奥州、奥州といえば黄金だったのです。




当時の金の採掘方法は、主に砂金の採集に頼っていました。自然石から分離し川水に流れ出した金を、土砂の中から採取する。その他に奥州では、古代の川が干上がった跡に堆積した土砂から砂金を採取する「芝金」という方法もとられていたようです。
坑道を掘って金鉱石を採取するような大規模な技術は、この当時にはありませんでした。これは逆に言えば、普通の農民、一般庶民でも川に入って土砂を水洗いすれば、少量ながらも金が採れたわけですね。
中央における造寺、造仏の急増は金の需要に拍車を掛けます。奥州の金は益々重要性を増してくる。
その利権を欲しがる者達が出てくるわけです。




さて、マルコ・ポーロ(1254~1324)です。

ヴェネチア領コルチェラ島(現クロアチア)生まれの商人にして旅行家。17歳の時に父や叔父とともに陸路東方へ向かい、中央アジアや西域を経、元(モンゴル帝国)の首都・大都(北京)に到達、皇帝クビライに仕えながら各地を旅行し、見聞を広めていきます。
帰国したのはマルコが42歳の頃、その後海戦に巻き込まれジェノヴァに捕われの身となり、その獄中で語った旅行の話を、ピサの著作家ラスティケッロが書きとめたのが『東方見聞録』です。

マルコ・ポーロが元にいた丁度その頃、二度に渡るいわゆる「元寇」が行われました。マルコが直接クビライと会話できたのかどうか、わかりませんが、『東方見聞録』によれば、クビライが日本を攻めようとした動機として、黄金のことがあったからだ、と記されています。

「ジパングは大陸から東方1500マイル離れた大きな島で、住民は色白で礼儀正しく、偶像礼拝者である。独立国でどこの国からも支配を受けておらずこの島には莫大な量の金があるが、商人はほとんどこないので、金で溢れている。
君主の宮殿は、我々キリスト教国が鉛で屋根を葺くように、屋根を純金で葺いているので、その価値は計り知れない。床は指二本分の厚い金の板を敷き詰め、窓も同様だから、宮殿全体ではだれも想像することができないほどの価値がある。大きな真珠や宝石も豊富に産する」
(大矢邦宣著「平泉 浄土をめざしたみちのくの都」文中より抜粋)

この話を聞いたクビライが、ジパングを征服しようと戦争をしかけますが、日本側の言う「神風」によって軍船ことごとく難破し、失敗に終わったというところまで記述されているようです。
これはまさしく、日本のことを言っているとしか思えませんね。マルコ・ポーロが元にいた時代よりおよそ100年前に平泉は滅びています。100年も経てば噂話に尾ひれがついて、大きな話になってしまうことはあるでしょう。それに外国人にとっては、奥州も日本も同じ「日本」であることには変わりなく、区別などつくはずもない。一地方の話が日本全土の話に拡大してしまうのも有りがちなことです。
ならばここで言われている黄金の宮殿とは当然、中尊寺金色堂以外には有り得ない。え?京都の金閣寺?いいえ、有り得ません。何故なら金閣寺の建立はマルコ・ポーロの時代より100年も後のことですから。

そうです、ジパング伝説の発信源は、紛れもなく平泉なんです。自明の理です。間違いなしです。

まあ、クビライの動機が本当に黄金だったのかどうか、この辺はマルコ・ポーロの想像であったかも知れず、抑々この伝説自体、マルコ・ポーロが退屈まぎれに面白おかしく話を作り上げたのかも知れない。いずれにしろその元ネタが奥州の産金にあったことだけは、間違いないでしょう。



マルコ・ポーロより200年の後、1492年、ジェノヴァ生まれのコロンブスがスペインより大西洋に漕ぎ出しました。香辛料と金を求めてインディアス(アジア)を目指し、到達したのがバハマ諸島のサン・サルバドル島。コロンブスはここをインディアス(アジア)だと信じて疑わず。島民をインディオと呼んだ。
そのコロンブスの航海日誌には、黄金に関する記述が多数あり、「ジパング」について8回も言及しているそうです。「ジパング伝説」がコロンブスの冒険心を突き動かしたのであろうことは、明らかでしょう。コロンブスの行動は西洋における大航海時代の幕開けとなり、新大陸発見へと繋がっていく。西洋史を大きく動かしたその大元に、平泉があったのです。



平泉の黄金文化の原点は、初代・清衡による恒久平和の思想でした。この世に浄土を築く、そこに世俗的な欲望はなどは、あまりなかったといって良い。以前にも書きましたが、平泉における皆金色の建造物は金色堂以外には存在しなかったのです。浄土世界の象徴である金色堂だけが、黄金の輝きを放っていた。ジパング伝説にあるよに自らの宮殿を黄金で飾り付けるようなマネはしなかった。その点が正しく西洋にまで伝わらなかったのは残念ですが、仕方がないでしょう。




「黄金の國ジパング」。ここから想起されるものは何でしょう。それはやはり、世俗的富に溢れた世界でしょうか。
しかし日本における黄金とは、元々仏像等に鍍金する以外に使い道はなかった。それは仏の光、浄土の光を表すためのものだった。そしてまた、日出る太陽の光、黄金色に輝く日の出の光をも表していたでしょう。その黄金の源泉、平泉の思想は、奥羽に此土浄土を築くことだった、恒久平和の理想郷を。

このことの意味を、我々はもっとよく考えてみるべきではないでしょうか。

真の意味で「黄金の國 ニッポン」となるために。



【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『東北 不屈の歴史をひもとく』
岡本公樹 著
講談社

『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社







黄金の國【平泉編】~10~その後の平泉

2013-08-21 22:24:49 | 黄金の國


奥州藤原氏の滅亡によって、北方政権、辺境に独自の花を咲かせた行政拠点としての平泉はその役割を終えました。


頼朝は平泉における税制や寺領等を、藤原氏時代のまま据え置くように指示します。無用の混乱を避けるためもあるでしょうが、その際に頼朝は、「奥州は“神国”であるから…」そのままにしておくように、と下知したとか。

この場合の「神国」とはなにを指すのでしょう?当時は神仏習合でしたから、仏教の都である平泉を神国と表現したのか、それとも奥州全土を「神の住まう国」と認識していたのか。

頼朝は、一体なにを言いたかったのでしょうねえ…。



平泉を含む磐井郡と、胆沢郡、江刺郡、気仙郡、牡鹿郡の五郡は葛西清重に与えられ、清重は奥州総奉行となって平泉に館を構えたそうですが、館の跡は特定されていません。葛西氏も平泉に残された諸寺院の保護に務めたのでしょうが、やはり藤原氏時代のようなわけにはいかず、諸寺院は急速に衰退していったようです。

嘉祥2年(1226)には毛越寺が焼失し、無量光院も鎌倉時代末期頃には焼失したようです。毛越寺の本堂が本格的に再建されたのは大正時代になってから、無量光院は再建されることなく、田んぼの下に埋もれて長い眠りについていました。
南北朝時代の建武4年(1337)には、中尊寺が焼失、金色堂と経蔵以外のほぼすべての堂宇と僧房が焼け落ちました。ですから藤原氏時代の建築物は、金色堂と中尊寺経蔵以外には残っていないんです。
また戦国期の元亀4年(1573)には、戦乱に巻き込まれ、毛越寺南大門と観自在王院が焼け落ちたと伝えられています。
江戸時代に入ると、平泉は仙台(伊達)藩の領地となり、伊達正宗は平泉を巡検すると寺領を安堵します。これには豊臣秀吉の後押しもあったのではないか、なんて話もありますね。黄金好きの秀吉のことですから、中尊寺金色堂には並々ならぬ関心があったかもしれません。この秀吉が、中尊寺に納められていた「紺地金銀字一切経」を持ち出させたのではないか、なんて話もあります。
「紺紙金銀字一切経」とは、紺色の紙の上に、金色と銀色の文字で一行づつ書かれた経文のことです。一切経というくらいですから、釈迦が残した(とされる)経文をすべて、金と銀の文字で書写したもので、全5千巻以上、完成まで8年かかった労作です。これを豊臣秀吉が、権力を笠に着て持ち出しちゃった。だから中尊寺には、あまり残っていない、現存するもののほとんどは、高野山金剛峰寺に残されていて、国の重文に指定されています。中尊寺に返せばいいのに、そうもいかないのですかねえ。


                 

                   紺紙金銀字一切経



えーと、どこまで話しましたっけ?そうそう、伊達正宗でしたね。

伊達家はその後も寺領等の保護に努め、中尊寺月見坂に杉並木を植林したり、いくつもの保護政策を実施しています。

中尊寺、毛越寺とも、その衰退は激しかったものの、それぞれに支院が残っており、一山の僧侶達は世襲を繰り返しながら、堂宇の保護と仏道の発展に努め続けました。また地元農民達の強力も大きかったようです。彼ら農民達による経済的援助と、神事祭礼への貢献は、両寺の独自性と伝統を保持するには必要不可欠なものでした。
また江戸時代には、松尾芭蕉や菅江真澄などの著名人達が平泉を訪れ、往時を偲びました。

明治以降、神仏分離令が出され、伝統的祭礼が廃れかかる危機もあったようですが、金色堂が国宝第一号に指定されるなどの様々な保護を受けながら、紆余曲折を経て今日に至っています。




昭和35年、金色堂建立850年記念として、宮澤賢治の詩碑「中尊寺」が建てられました。


            


                  七重の舎利の小塔に
                  蓋なすや緑の燐光

                  大盗は銀のかたびら
                  おろがむとまづ膝だてば
                  赭のまなこただつぶらにて
                  もろの肘映えかがやけり

                  手触れ得ぬ舎利の寶塔
                  大盗は禮して没ゆる




盗みを働こうとして忍び入った盗賊が、その金色の目映い光の美しさと迫力に圧倒され、盗むことが出来ずに去ってゆく。ここで謳われている「大盗」とは、源頼朝のことであると言われています。
古代東北における、蝦夷と大和の争いを語った詩かとも思われますが、果たしてそれだけでしょうか。
古来より奥羽の富を狙い、争いを仕掛けた者達は多い。しかしそれは、ある意味現代でも同じなのかもしれない。
平泉に、金色堂に訪れる方々は、皆金色堂の輝きに目を奪われ、その経済力に思いを馳せる。しかし彼ら奥州藤原氏が真に目指した此土浄土。恒久の平和を奥羽に打ち立てんとしたその悲願のほどに思いをよせる方々が、一体どれほどいるというのだろう。
出来得れば、金色の輝きに畏れを抱いて平伏した盗人の如く、そこに物質的富以上のものを感じて欲しい。往時の人々の魂を、そこに見出して欲しい。

そんなおこがましいことを思う、この頃です。



さて、「黄金の國」と銘打ったからには、マルコ・ポーロの言う「黄金の國ジパング」伝説に触れないわけにはいきますまい。それは次章以降にて。



【参考資料】

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター




 










黄金の國【平泉編】~9~平泉の落日と泰衡の首

2013-08-18 23:10:30 | 黄金の國


秀衡没後よりおよそ一年半後、文治5年(1189)、泰衡はおよそ百騎の軍勢を率いて、義経の住む衣川舘を急襲、義経とその郎党は奮戦するも抗しきれず、義経は持仏堂の籠ると妻と二歳になる娘を害し、自ら自害して果てた、と、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に記されています。

鎌倉幕府側からの再三の義経引き渡し請求に抗しきれず、自らの手で義経を討てば、許してもらえるのではないかと考えたことからの行動とされていますが、抑々頼朝の狙いは平泉そのもの、義経を差し出したところで、頼朝が手を緩めるはずがないことはわかっていたはず。だからこそ秀衡は、義経を主君とせよ、と遺言したはず。
そんなことも分からないほどに、泰衡は愚か者だったのでしょうか。




ところで、「義経北行伝説」によれば、義経は平泉で討たれることなく、束稲山を越えて東山から水沢、江刺を経て気仙に至り、三陸沿岸沿いを北上し青森県の野辺地から津軽半島の十三湖を経由して三厩へ、さらに北海道に渡り、最終的には大陸にまで渡ったとか。

この伝説、室町時代頃までには原型が出来上がっていたようです。頼朝の元に届けられた義経の首は、死後40日以上経過しており、美酒に漬けられていたいたとはいえ、かなり腐敗が進んでおり、本人かどうかの判別は出来なかったと言われています。そんなことから、その首は義経の首ではなく偽物であり、当の義経本人は生き延びたのだ、という伝説が生まれた。
平家を滅ぼした最大功労者でありながら、兄・頼朝に追われる身となった悲劇のヒーローに対する同情心が生んだ伝説であろう、と、一般的には受け取られています。

さて、この「伝説」によれば、義経が平泉を「逃亡」したのが文治4年(1188)だとされているんです。つまり、
泰衡が義経を討ったとされる時よりも、一年程も前のことになってしまうんです。
泰衡に襲われて、そこから生き延びたのではない。もっと早い時期に、すでに平泉を去っていた。これはどういうことでしょう?これがたんなる同情心から生まれた伝説であるなら、泰衡が攻めたときに逃げたとするのが普通ではないでしょうか。それがなぜ、わざわざ一年近くも前に時期が設定されているのか。

もしこの伝説が本当であったなら、いや本当である「側面」があったと仮定したなら、
泰衡の行動、ひいては平泉滅亡の意味が、まったく違ったものとなるのではないでしょうか。

泰衡は義経の逃亡を知りながら、あるいは自ら逃がして置きながら、まるで義経が平泉に匿われているかのような態を装っていたことになる。

なぜ、そんなことを?



文治年7月、頼朝は28万もの大軍勢を率いて鎌倉を進発します。頼朝は後白河院に対し、再三平泉討伐の宣旨を発するよう申請しますが、後白河院は言を左右にして、なかなか発しようとしない。そんなとき頼朝側の武将・大庭景能(おおばかげよし)が「軍中、将軍の命を聞く、天子の詔を聞かず」兵隊は将軍が命令すれば動く、朝廷の詔勅などいらないと言ってのけた。
これに発奮した頼朝は軍勢を押し進め、後白河院はやむなく後付で宣旨を発することになります。

対する平泉軍は17万騎。しかしこの内、実際には動かなかった軍勢もいたでしょう。奥州一円は平泉を中心とした一枚岩だったわけではなく、これを機に離反した土豪たちも多数いたと思われます。
両軍は阿津賀志山(福島県国見町)で激突、平泉軍の総大将は国衡でした。国衡の軍勢は四日間ほど持ちこたえましたがついに打ち破られ、国衡は戦死します。鞭盾(宮城県仙台市)に陣を敷いていた泰衡は、この報を聞くやただちに兵を引き、平泉では自ら館に火を付けるとさらに逃亡、頼朝に命乞いの書状を送るも、贄柵(秋田県大館市)にて腹心・河田次郎の裏切りにより殺害されてしまう。
泰衡の首はただちに頼朝のもとへ届けられます。泰衡の首をとった河田次郎は、「主人を裏切った不忠者」として処刑され、頼朝は泰衡の首を携えて厨川柵跡(岩手県盛岡市)へ向かいます。

厨川柵はかつて、源頼義・義家親子が安倍氏を滅ぼした場所。頼義は、安倍貞任らの首を五寸釘で柱に打ち付け、さらし者にしました。頼朝はその故事に倣い、泰衡の首をやはり五寸釘で打ち付け、さらしたのです。

源氏と奥州の因縁は、この頼義の代から始まっています。以来奥州を取ることは源氏重代の悲願でした。
頼朝はその悲願を果たした。頼朝は頼義の故事に倣うことで、先祖に礼を尽くしつつ、そのことを高らかに宣言したのでしょう。




この泰衡の首が、実は中尊寺金色堂に納められているんです。
三代秀衡、つまり泰衡の棺の中に、首桶の中に入れられたかたちで納められていたのです。

いったい誰が、いつ、入れたのでしょう?

先述した通り、金色堂は56億7千万年後の弥勒下生まで、遺体を保存するために建てられた葬堂です。つまり弥勒の世に復活する「資格」を持った人物でなければ、ここに葬られる資格はない。

清衡、基衡、秀衡までの三代は、仏法僧を篤く敬い。此土浄土建設に邁進した。これは十分に資格がある、と考えられたでしょう。
では泰衡はどうか?いたずらに頼朝軍を平泉に入れ、滅亡のキッカケを作ったではないか。

彼は此土浄土建設を潰した張本人ではないか。一体どこに、資格があるというのか。




しかし本当に資格がないのでしょうか?義経北行伝説が本当あるいは本当に近いことだったとするなら、泰衡はなんらかの理由で義経の逃亡の時間稼ぎをしたことになる。

鎌倉の目を惹きつけておいて、その隙に義経を逃がす。もしも露見したことを考えれば、大変危険な行為です。単なる自分勝手な愚か者にできる行為でしょうか。

そうした観点から見て行くと、泰衡がさして戦いもせずに逃亡し、部下に殺されるという末路も、違ったものに見えてきます。

つまり、泰衡らは「わざと」負けてやったのではないかと。

戦をすれば一番に迷惑を被るのは一般民衆です。民衆を守るためにはどうすべきか。泰衡は考えた。
奥州藤原氏初代・藤原清衡は、奥羽に二度と戦が起こらないことを願った。二代基衡、三代秀衡も、その初代の意志を継いで平泉建設に邁進し続けた。
泰衡だとて当然、その意志の薫陶は受けていたはず。泰衡の心の中にも、初代よりの想いは受け継がれていた。
しかし頼朝は、確実に平泉を取りに来る。
ならばどうする?どうすれば、なるべく小さな戦で終わらせることが出来る?

泰衡は思いました。いや、あるいは秀衡の真の遺言だったかも知れない、いずれにしろ、泰衡は選択したのです。
自ら、滅びる道を。

自らが滅びることで、奥羽の民を守る道を。




腹を空かした虎に自らの身を挺するがごとく、頼朝に“食われて”やったのだ。仏道を貫いたのだ。
だから泰衡は、金色堂に葬られる資格がある。そう考えた誰かが、せめて首だけでも、金色堂に納めてあげようと思った。




昭和25年、奥州藤原氏の御遺体調査が行われた際、泰衡の首桶の中からハスの種が発見されました。この種はながらく保存されておりましたが、平成10年に至って花を咲かせることに成功し、そのハスの花は中尊寺内をはじめいくつか株分けされて、盛岡などでも見られるそうです。

都市としての平泉は滅びました。しかし800年の時を経て咲いたハスの花に、平泉の「精神」を見たように感じたのは、私だけでしょうか。いや、平泉の精神というより、「東北魂」と言うものかもしれない。

時を越え世代を越え、いかなる逆境をも越えて、いつか花を咲かせる東北の魂。

いやあ、東北だけではありません。人は皆、かくあるべしと、ハスの花に言われているような気がします。

今この時代に蘇るべき、平泉の平和主義、不屈の東北魂。人のあるべき姿。

我が故郷から、学ぶべきことは多いです。