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 風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

黄金の國【後三年合戦編】~4~そして平泉へ

2013-07-04 21:52:40 | 黄金の國


後三年合戦が始まった丁度同じころ、京の都では、白河上皇による院政が始まっていました。

それにより、藤原摂関家の勢力は相対的に衰えて行きます。源氏は藤原氏の下に就くことで勢力を拡大していた面もあったので、藤原氏の勢力低下は源氏にとって脅威でした。

しかしながら遠く奥州にあっては、義家のもとにそのような情報が齎されることはなかったでしょう。そんな京の政情を知らぬまま、義家は戦を仕掛け、朝廷に事後承諾を求めます。

しかし白河上皇は、一地方の豪族の内輪もめに、強引に介入したのは義家自身であり、とても国家の為の戦であるなどとは言えず、義家の私戦であると断じます。しかも国庫に納める税を勝手に使い込み、税の納入を滞らせたとして、陸奥守を解任、ただちに帰国して釈明するよう求められました。

白河上皇は義家の野望、奥州の権益を狙う野望を見抜いていたのでしょう。奥州産の金や馬、鷲や鷹の羽。動物の毛皮等々、これら奥州の豊かな権益を源氏が手にしたなら、必ずや朝廷の脅威となるであろう。そうさせるわけにはいかない。
それに藤原摂関家の走狗である源氏の力を削ぐことは、相対的に摂関家の力を弱めることになる。
だが朝廷を守る武力は必要だ。それには平氏もいるし、京の都には義家の弟・加茂次郎義綱もいる。義綱は如才無い人物で、義家のような粗暴さはなく、公家たちのウケもいい。源氏はこの男にまかせて、源氏と平氏の勢力を拮抗させ、武門の者達の勢力を抑えれば良い。

義家は危険すぎる。



奥州から帰京する途上、義家は討ち取った家衡らの首を、道端に捨てたそうです。手柄にならなくなったからといって、道端に捨てるとは…この当時の武士とは、こんなものだったのでしょうかねえ…。

京の政情の変化は、義家を戸惑わせたことでしょう。源氏の棟梁の座は、いつの間にか弟・義綱に捕られた格好となっており、義家のいる場所はなかった。義家と義綱の仲は次第に険悪となり、寛治5年(1091)には家臣同士の所領争いが、お互いに兵を挙げる事態に発展。主筋の藤原師実のとりなしによってなんとか治まったものの、義家は所領を取り上げられてしまいます。一方の義綱はお咎めなし。

ここまでくると、なんだか憐れです。

承徳2年(1098)に至ってようやく義家の官位が復され、昇殿を赦されます。しかしその三年後の康和3年(1101)、今度は嫡男の義親が九州で反乱を起こしてしまう。朝廷は解決策として、父親の義家に追討軍を指揮させようとします。
しかしそれは実現しませんでした。嘉祥元年(1106)、長年の心労が祟ったのか、この年義家は死去します。享年68歳。その三年後、義親は平正盛(清盛の祖父)に討たれ、武門の中心は平氏に移ります。



さて、棚からぼた餅的に奥州の覇権を手に入れた清衡は、清原の姓を改め、実の父藤原経清の姓藤原を名乗ります。勝手に名乗ったのでは、京の藤原摂関家からクレームが付くかもしれない。おそらく清衡は、藤原摂関家に対しかなりの貢物を送り、正式に名乗ることの許可をとったものと思われます。砂金や良馬などを大量に捧げたのでしょうね。これによって京との間に太いパイプが出来、それは平泉100年の栄華の礎ともなったでしょう。

清衡が豊田舘(岩手県奥州市江刺区)から平泉に拠点を移したのは、11世紀から12世紀の狭間辺りだろうといわれています。

清衡が平泉建都に託した夢。それはこの世の浄土。此土浄土を奥州に作ること。

奥州に、永遠の平和を齎すこと…。

(黄金の國【平泉編】へ続く)


黄金の國【後三年合戦編】~3~清衡VS家衡 骨肉の争い

2013-07-03 22:05:14 | 黄金の國


奥六郡のうち、南の三郡を清衡に、北の三郡を家衡にそれぞれ分け与える。

一見公平な分配のように思われますが、実はとんでもない差があったのです。

清原に与えられた胆沢、江刺、和賀の三郡は、アテルイ以前から農耕がおこなわれており、非常に豊かな土地でした。それに引き替え家衡に与えられた岩手、紫波、稗貫三郡はほとんど開拓が行われていない原野で、ほとんど収益がなかった。その差は歴然としていました。

家衡は清原氏の嫡流、武貞の血を引いており、兄清衡より自分の方が跡目を継ぐのに相応しいと思っている。まだ二十歳そこそこの若造で血気に逸りやすい。そんな男がこのような扱いを受けたら、当然腹を立てる。不満を持つ。
家衡は義家に、清衡の悪口を散々に言い募りますが、義家はむしろ清衡の忠勤ぶりを称える始末。兄弟の仲が険悪になってくる中、義家は家衡に、清衡の舘(豊田舘)に移り、二人で同居するように命じます。
表向きは仲直りを促しているようにも見えます。しかし、義家の真の目的は、それとは真逆のものでした。

家衡の不満は、やがて不安へと変化していきます。そんな折の突然の同居。家衡の不安は疑心暗鬼を喚起します。「兄者は俺を殺そうとしているのではないか!?」疑心暗鬼は憎悪を産み、憎悪は殺意を呼びます。
応徳3年(1086)九月、家衡の殺意はついに爆発。家衡の軍勢は夜陰に乗じて館を急襲、清衡の郎党は殺され、館に火が掛けられます。間一髪清衡は館を脱出、草むらに身を隠しましたが、清衡の妻子は舘内に取り残され火に巻かれてしまう。清衡はなすすべもなく、己の館が燃え落ちるのを見守る他ありませんでした。

清衡はただちに義家の下へ助けを求め、義家は待っていたとばかりに軍勢を整えると、家衡追討の兵を挙げます。失敗を察知した家衡は、叔父の武衡と共に沼ノ柵(秋田県横手市雄物川町)へと逃げ込みます。
沼ノ柵は堅牢で、百戦錬磨の義家軍を持ってしても落とすことができず、ついには雪が降り始め、東北の冬に慣れていない義家軍の中から凍死者も出始め、これでは戦は出来ないと判断した義家は決死の撤退を敢行します。

戦はしばし膠着状態が続きます。そんな折、義家の下に弟の新羅三郎義光の軍勢が援軍に駆けつけ、義家は勇躍し、新たに大軍を整えると、寛治元年(1087)九月、再び沼ノ柵へ向け出陣します。

家衡勢は沼ノ柵から金沢柵(秋田県横手市)へと移り、決戦に備えます。金沢柵は天然の要害で、沼ノ柵以上の堅牢な砦。義家軍の犠牲者ばかりが増え続け、このままでは再び撤退せざるを得なくなってしまう。
義家は作戦を変更、金沢柵の周囲を大軍勢で取り囲み、家衡勢を柵内に閉じ込め、兵糧攻めにします。そして柵から逃げてきた者は、一人残らず捕まえて殺害。これは一人でも多くの人を柵内に閉じ込めることで、早く食糧を尽きさせようとしたのです。狙い通り、柵から逃げ出す者はいなくなりました。

籠城よりおよそ一か月経った11月、ついに食糧が尽きた金沢柵内より火の手が上がります。もはやこれまでと、武衡らが自ら火を掛けたのです。義家軍は一挙に柵内に侵入、出会う者を手当たり次第に斬りまくる。かつての厨川柵と同様の惨劇が繰り返されました。武衡は捕えられ、義家の前に引き出されます。武衡は必死に命乞いをしますが、義家は赦さず、その場で首を討ちます。家衡は逃げる途中で地元の豪族に討ち取られ、その首が義家の元へ届けられます。義家は狂喜し、その豪族に高価な褒美を賜りました。

義家の前に、家衡の親族である千任(ちとう、せんとう)なる男が引き出されます。この男、籠城戦の最中に義家の陣営に向かって
「源氏は我が清原の家来ではないか!家来が主人に弓を引くとは何事か!」
と詰り倒したのです。
これは、かつて前九年合戦の折、義家は清原への援軍要請の際に
「家来になってもいい」
とまで言って頼み込んだことを言っているんですね。義家はこのことをずっと根に持っていて、千任を生け捕りにするよう命じていたのです。

義家は千任を木に縛り付けると、その足元に武衡の首を置きました。義家はまるで舌なめずりするかのように
「そおれ!気をつけぬと、うぬの主人の首を踏むことになるぞ!」
と詰ります。千任は首を踏まないように必死に踏ん張りますが、ついに力尽きて踏んでしまう。義家はそれを見て快哉を叫んだとか。

頼義といい義家といい、凄まじい残虐性です。



金沢柵は落ち、後三年合戦は一応の終焉を迎えます。しかしこの戦、義家は朝廷よりの命を受けて参戦したわけではありません。このままではただの私戦になってしまう。それでは恩賞が出ない。
それに義家は、戦費調達の為、本来は朝廷に納める筈の税に手を付けていたのです。だから朝廷より事後承認を得ようとしていました。

しかし、事は義家の思惑通りには進みませんでした。

【続く】



黄金の國【後三年合戦編】~2~八幡太郎再登場

2013-06-30 19:23:22 | 黄金の國


清衡、家衡兄弟が真衡の館を襲うに当たり、清衡の心情とはどのようなものであったのでしょう。

おそらく、血気に逸ったのは弟・家衡の方でしょう。家衡は清原嫡流の血と安倍の血と両方を引いており、次代の奥羽の覇者は真衡より自分の方がふさわしい。これぞ絶好のチャンスと思ったに違いない。清衡はあくまで、そんな弟を補佐する、という立場に終始したのではないでしょうか。
清衡という人は、その複雑な生い立ちからみても、もっと慎重で、ある意味“したたか”な人物のように思えます。秀武老人の口車に簡単に乗るような人物なのでしょうか?これはやはり、弟を放っておくわけには行かない、なにより母に申し訳が立たない。それ故の出陣だったように思えます。

清衡、家衡兄弟の軍勢は豊田舘(岩手県奥州市江刺区)を立ち、真衡の舘のある衣川の手前、白鳥村を焼き払います。清衡らの動きを知った真衡は急遽衣川へ引き返します。
両者はそのままにらみ合いを続けますが、その年(永保3年・1083)の秋、一人の男が陸奥守に任命されます。

八幡太郎こと源義家。父・頼義と共に、前九年合戦を戦った源義家その人です。

よりによって清原氏が内紛で揉めている最中に、因縁浅からぬ源氏の御大将が陸奥守となろうとは、なんというタイミングでしょう。義家は内心、欣喜雀躍したに違いない。
父の無念をなんとしてでも晴らす!そういう決意と野心を抱きながら、義家は奥羽に下向したに違いない。

義家の下向を知った真衡は戦を中断すると国府多賀城へ赴き、義家着任に祝宴を開きます。祝宴は三日に渡ったといわれ、真衡はこの三日間に大量の献上品を義家に送り、義家は真衡の味方に付くことを約束します。
安心した真衡は再び軍勢を率い、出羽の吉彦秀武追討に向かいました。

留守となった真衡舘を、再び清衡・家衡軍が襲います。これを察知した真衡の妻が義家に救いを求め、義家はまるで用意していたかのように素早く反応し、自ら陣頭に立つと、清衡らに迫ります。

義家は清衡らに「退けばよし。退かねば誅するまで」と最後通牒を突き付け、清衡らの出方を待ちます。仮にも義家は陸奥守、国守に逆らうは国家への反逆と同じ。清衡らは悩みます。
そのとき、清衡の親族である重光なるものが

「天子といえどもおそるべからず、いわんや国司においておや」

戦はすでに始まっている。ここまできたらやるしかない!と強硬な主戦論を唱え、義家軍との交戦が決定されます。

しかし、百戦練磨の義家軍に敵うはずもなく、清衡・家衡軍は散々に打ち負かされ、重光は討ち取られてしまいます。清衡と家衡は一頭の馬に跨って、ほうほうの態で敗走するという体たらく。

そんな時、出羽より急報が届きます。清原真衡が陣中にて急死したのです。

これまたなんというタイミングでしょう。内紛の当事者の一方が、突然いなくなってしまった。死因は病死とのみ記述され、詳細はわからない。そんなところから「暗殺説」が囁かれていたりするのですが、真相は闇の中です。
暗殺だとするなら、その犯人はやはり、

義家か…。

真衡の死を知った清衡は、戦の責任を戦死した重光に擦り付けただちに降伏します。もともと陸奥国守と戦うつもりなどさらさらなかったのですから、これ以上戦う理由はありません。
義家はこれを鷹揚に受け入れると、真衡の遺領である奥六郡を清衡、家衡両名に分割して分け与えました。

清衡には胆沢、江刺、和賀の南三郡。家衡には稗貫、紫波、岩手の北三郡をそれぞれ分け与えたのですが、これが

新たな火種の発端とあるのです。

義家のほくそ笑む顔が見えるようです…。

【続く】




黄金の國【後三年合戦編】~1~清原氏の内紛

2013-06-27 21:46:15 | 黄金の國


清原氏に引き取られた経清の子は、一族の中で特に分け隔てられることなく育てられたようです。清原武貞の子はみな「衡」の字を付けられており、経清の子もまた、衡の一字をもらって「清衡」と名付けられた。
清衡の「清」は、実の父経清の「清」からとったと思われ、藤原経清の子を、清原一族の子として育てるという、清原氏側の意志が感じられます。

前九年合戦の軍功を称えられ、鎮守府将軍に任ぜられた清原武則は、本拠地を奥六郡・衣川の地に移したようです。
しかしながら、地元の衣川や奥州市周辺には、清原氏に関する伝承がまるで残っていないんです。安倍氏の伝承はあちこちに残っていると言うのに、清原氏に関するものは皆無といってよく、地元の人々は新興の清原を嫌い、安倍に愛着を持ち続けていた、ということなのか?それとも清原氏の本拠地を他の地に求めるべきなのか。

いずれにしろ、清原氏の影は岩手県内では極端に薄い。地元民がいかに安倍氏に心を寄せていたかという、一つの証左のような気がします。

そういう意味では、清衡という存在は、奥六郡の人々を従わせるのに有効な切り札とも成り、清原氏が清衡を大切に育てた背景には、そのような政治的意味もあったのではないかと推察されますね。



経清の妻、清衡の母は清原武則の子、武貞に再嫁し、家衡を産みます。武貞にはすで真衡という嫡男がおり、清衡はまったく血の繋がらない兄と、父親が違う弟の間で育つことになりました。

武貞の跡目を継ぐ最有力候補は、当然嫡男・真衡でした。真衡という人は中央に太いパイプを持ち、京の公家“受け”の良い人物だったようです。聡明な人で、時代の流れにも敏感だった。
それまでの清原氏は、同族による緩やかな合議制が採られていました。真衡はそれを、清原宗家に権力を集中させる惣領制に移行させようとします。
手始めとして真衡は、自分の養子に海道(福島県いわき市付近)平氏の子を迎え、成衡と名付けます。さらにその成衡の妻として、源頼義の血縁である女性を関東から迎えました。
真衡は清原宗家に平氏と源氏という、皇族の血を導入することによって、清原宗家を他の清原一族より突出した位置につけようとしたのです。これには当然、一族からの反発がありました。

この一族の反発に火をつけたのが、清原一族の長老にして歴戦の勇士、吉彦秀武(きみこのひでたけ)でした。秀武は成衡が嫁を迎えるに当たって、祝いの品を携えて出羽・仙北三郡より、奥六郡の清原氏本宅を訪れます。祝いの品とは、一説には大量の砂金だったようです。秀武は庭先にて控えておりましたが、真衡はその時、政治顧問として迎えた奈良法師との碁に興じており、秀武に目を呉れようともしない。
いかに跡目第一候補とはいえ、仮にも一族の長老に対するこの傲慢な態度。秀武は激怒し、砂金を庭中にぶちまけると、部下に武装させ出羽に帰ってしまった。

これを知った真衡は、清原宗家に対する反逆であるとして兵を率い、出羽へと進軍します。
この時、留守となった真衡の館を、清衡、家衡兄弟が襲いました。

「お前達、いつまでも真衡の風下に立たされたままでいいのか!?」

吉彦秀武が、清衡、家衡兄弟を焚き付けたのです。

永保3年(1083)、後三年合戦の勃発です。

【続く】

黄金の國【コラム】3 安倍宗任のこと

2013-06-21 21:59:51 | 黄金の國


安倍貞任の弟・安倍宗任は戦の後投降します。その態度が殊勝であるとして一命を赦され、伊予国へ流罪となりました。

その護送の途上、宗任を乗せた籠は京の街へ立ち寄ります。

その宗任の籠に、梅の花を携えた一人の京人が近寄りました。

その京人、梅の花を宗任に見せると
「これは何か?」
と訊ねました。

「ふん!これが蝦夷か。どうせ野蛮な蝦夷のこと、梅の花の雅など解せまい」
と嘲りを込めて訊ねたのです。

聡明な宗任のこと、相手の意図を即座に察しますが、激高することなく、

【我が国の 梅の花とは 見たれども 大宮人は いかが言うらむ】

「我が奥州では梅という花によく似ておりますが、はて?京のお偉い方々はこの花をなんというのですかな?」

と、逆に歌をもって静かに問い返したのです。その京人は大いに面目を失い、笑い種となったとか。

「平家物語」に収録されたこの逸話。例によって後世の創作だろうとされておりますが、宗任が大変な教養人であったということは広く伝承されているようです。

いずれにしろこの話、京の人を笑いものにし、蝦夷である宗任の教養を讃える内容となっています、面白いもので、かの「衣の舘は綻びにけり」の逸話にしてもそうだし、「陸奥話記」そのものが、安倍氏を逍遥し同情的な内容になっています。源氏などはかなり残酷さが強調されており、当時の京人は源氏の蛮行を憎み、寧ろ安倍氏に対して同情的だったのではないでしょうか?

しかしその源氏の行いも、元はと言えば朝廷がやらせたもの。京人の中には、それを恥とする人々が案外多かったのかもしれない。

とはいえ、京人の東北人に対する“差別”意識は、まだまだ根強く残っていました。それは当時の公家の日記等をみても明らかなこと。

そう簡単に、差別意識は払拭できるものではありません。



安倍宗任は伊予配流の後福岡の大島に渡り、そこで没したと伝えられています。その後裔はさらに長崎に渡り、海賊松浦水軍の一党に加わって、壇ノ浦では平家方に与し敗北。
その子孫は明治前後の頃、山口県長門市に移住し、その一族は現在まで続いています。

安倍宗任から数えて42代目、現当主が、

内閣総理大臣・安倍晋三氏です。
 

黄金の國【前九年合戦編】~5~厨川柵陥落

2013-06-21 20:07:57 | 黄金の國


康平5年(1062)9月21日早朝。

安倍氏の籠る厨川柵(くりやがわのさく:岩手県盛岡市)に、源氏・清原氏連合軍が攻めかかります。

安倍貞任はその通称を「厨川次郎」といい、この厨川柵を本拠としていたと思われます。貞任は柵の外側に空堀と馬防柵を設け、連合軍の進撃を阻みます。さらに矢や石が雨の如くに降り注ぎ、かろうじて柵の壁に取りついた兵士たちには巨石や熱湯が注がれる。
早朝に始まった戦は翌日の昼になっても収まらず、連合軍側の死傷者は数百を越えました。

これでは埒が明かない。連合軍、清原武則は新たな策を立てます。周辺の民家を取り壊して萱や藁を集め、それを柵の周囲にうず高く積み上げると一斉に火を掛けました。

折しも強風が吹き渡っていたようで、炎は強風に煽られて一挙に柵の内部に燃え移り、柵内は恐慌状態に陥ります。

清原の作戦は基本火攻めのようです。火が迫ってくればそれだけで人は恐怖に駆られる。ましてや当時、厨川柵には兵士だけでなく、女性や子供たちも共に居りましたから、その者らの叫び声は余計に兵らの心をかき乱す。

実に恐ろしくも、的確な作戦です。

連合軍は混乱に乗じて柵内に突入、出会うものを手当たり次第に斬りまくる。首を刎ねられる者、北上川に身を投じる者、経清や貞任は「もはやこれまで」と最後の突撃を敢行します。
炎の中、愛馬と共に連合軍本陣へと突き進む経清と貞任。死出の伴をと付き従う郎党達。その勢いに連合軍は浮き足立ちますが、これに冷静な対処を下したのが、またしても清原武則!
武則は「囲みを解け!」と意表をつく命を下し、柵の周囲から兵達を一斉に退かせます。これを見た柵内の兵士達は、「これで逃げられる」と柵の外へ我先にと飛び出して行きました。
しかしこれこそが武則の策略。外へ飛び出してきた安倍兵を連合軍が取り囲み、一人また一人と確実に屠る…。人の真理を巧みに利用した、恐ろしいまでに的確な作戦としか言いようがありません。

厨川柵は陥落し、経清と貞任は奮戦しますが、所詮は多勢に無勢、貞任は激闘の中瀕死の重傷を負い、頼義の前に引き出されます。頼義が勝ち誇ったように貞任の“罪名”を読み上げますが、貞任にはもはや意識はなく、そのまま絶命します。
経清も捕えられ、やはり頼義の前に引き出されます。頼義の経清に対する怨念は凄まじく、「おのれ経清!この怨みいかに晴らしてくれようぞ。簡単には死なせぬぞ!」
頼義は、刃毀れ甚だしい錆びた鈍刀を持って来させると、その切れない刀を使って、経清の首を鋸引きのようにじわじわと切り落としました。
この頼義の残酷さは常軌を逸しています。こうしたことから、「源氏非日本人説」なるものも出てくるのですが、そうしたことより、私は人の心の中に棲む「魔物」を目覚めさせてしまった男の恐ろしさと哀れさを感じます。

安倍貞任には千代童丸という息子がおりましたが、これも捕えられ処刑されます。一説には、貞任にはもう一人男の子がおり、高星丸(たかあきまる)と名付けられたその子は津軽へ落ち延び、津軽安藤氏の祖となったという伝承がありますが、真偽のほどはわかりません。
藤原経清には妻と七歳になる男の子がおりましたが、妻は清原武則の嫡男・武貞に再嫁し、男の子はそのまま清原の家に引き取られ、清原の子として育てられます。
この子こそ、清原清衡。後に平泉百年の栄華の基礎を築き上げた奥州藤原氏初代、藤原清衡です。



さて、清原参戦後、僅か一ヶ月で安倍氏は滅びてしまう。いかに清原氏が強いとはいえ、少しあっけなさ過ぎるような気もします。これは前九年合戦の謎の一つとされており、様々な説が挙げられています。
最近、この件に関して非常に興味深い説を知りました。
平泉文化遺産センター館長・大矢邦宣氏がたてられた説で、それによると、

安倍と清原は、秘かに「密約」を交わしていたのではないか、というのです。

安倍氏と清原氏は、それぞれ奥六郡と仙北郡とを束ねる「俘囚長」。実は婚姻などを通じて姻戚関係にあり、普段より親しく交流していたらしい。安倍頼時が安倍富忠説得のため北へ向かった時も、清原氏の一族の者が付き従っていたといいます。
頼時の妻は清原氏から嫁した人のようです。貞任は別の女性との間に出来た子のため、清原の血は引いていないのですが、頼時の娘で藤原経清に嫁いだ女性は、この清原から嫁した女性との間にできた娘さんなんですね。ここまでわかります?
つまり経清の息子・清衡は、安倍の血と清原の血、さらには藤原摂関家の血をも引いた、奥州では貴種中の貴種になるんです。わかりますよね?

安倍氏はこの清衡、経清の子清衡に賭けようと思った。清衡を清原氏に託し、安倍の血を残そうと思った。

清原氏としても、陸奥守・源頼義からの再三の出陣要請を断り続けるわけにもいかない。ヘタをすると清原氏存亡の危機とも成りかねない。
そこで参戦する代わりに、経清の子、安倍の血を引く子を預かって安倍の血脈を残すことに協力することで、安倍を滅ぼしつつ、安倍を「残す」作戦をとった。

安倍氏の身を捨ててまで血脈を残そうとする思い、奥州を決して源氏らの好きにはさせないという決意に、清原は同意したのではないだろうか。

ここから先は私の想像です。安倍の血を引く清衡を預かっても、源氏に手柄をたてられたのでは、戦後処理に奥羽の地を源氏の領地とされてしまうかもしれず、それでは蝦夷による奥羽自治の夢が絶たれる。だからこそ清原武則は、心を鬼にして徹底的に安倍を叩き、手柄を独り占めにしたんです。安倍氏もわざと鳥海柵や白鳥柵といった堅牢な砦を使わず、いきなり厨川柵に入って最終決戦のかたちをとった。

これなら、貞任の子千代童丸が処刑されたのに対し、経清の子清衡が清原の子として大切に育てられた落差の意味もわかるというもの。

貞任の子は蝦夷の血しか引いておらず、奥羽自治の宮廷工作をするにしても利用価値は低い。その点清衡には藤原摂関家の血が流れており、血筋が絶対的な意味を有するこの時代にあっては、非常に価値ある子供だったのです。

身を捨てて、次世代にすべてを託した安倍氏と、それを引き受けた清原氏。強引かもしれないし、出来すぎた説とも言えますが、非常にドラマチックで、そうであって欲しいという願いを込めて、ここに記します。



はたして武則の思惑通りとなったか、朝廷はこの戦の最大の功労者は清原武則であるとして、武則を奥羽の軍事の頂点である鎮守府将軍に任命します。現地人が鎮守府将軍に任ぜられるのは初めてのことでした。
鎮守府将軍の座は武則から息子武貞(藤原経清の妻が再嫁した人物)に受け継がれ、清原氏は鎮守府将軍の家柄として、陸奥出羽両国の最高権力者として君臨することになります。

一方、源頼義は陸奥守を解任され、伊予守に任命されますが、その任期の半分近くを奥州での戦後処理に忙殺され、伊予守としての「旨み」をほとんど得られないまま終わってしまう。これではたまらんと、頼義は朝廷に伊予守の任期の延長を申し出ましたが、無下に却下されました。

義家はどうかというと、出羽守に任命されたものの、実質出羽の利権は清原氏に牛耳られており、義家に「旨み」はほとんどなかった。義家は任地変えを希望しますが却下。義家は出羽守を辞任し、下野に移ったようです。

朝廷はよく見ています。これ以上源氏の勢力を強めるわけにはいかない。朝廷は源氏を散々利用するだけ利用した挙句に、恩賞をほとんど与えることなく放り出しました。源氏としては付き従った武士達に恩賞を与えねばならず、結局自らの領地を分け与えざるを得なくなる。

源氏の財布は空っぽになり、勢力増長の夢は断たれました。

頼義は晩年、殺生に明け暮れた生涯を悔やみ、出家したとか。しかしこれは仏教説話として伝えられている話で、出来すぎているような気がしないでもない。ただおそらく、安倍氏の亡霊に夜な夜な怯える日々であったでしょう。

哀れな。



奥羽の覇者は清原氏となりましたが、その栄華は二十年と続きませんでした。

清原氏の内部で跡目を巡る抗争が起き、やがてそれは大きな戦へと発展していきます。

世に言う、「後三年合戦」の勃発です。

以下、【後三年合戦編】へと続きます。


黄金の國【前九年合戦編】~4~衣の舘は綻びにけり

2013-06-17 22:15:32 | 黄金の國


頼義らが動けない間に、藤原経清が奥六郡より南、おそらくは国府・多賀城近辺まで進出し、大胆な行動を起こします。

当時、国府に納める徴税米には、赤い国府印が押してある徴税符、通称「赤符」がくくりつけてあるのですが、経清は民衆に対し、「赤符を用いず、白符を用いよ」との布告を出しました。

白符とは赤い国府印が押していない、ただの白い札。これはつまり、国府に納めるものではなく、すべて安倍氏のものである。という意味です。

要するにこの奥州の実力者は安倍氏であって国府多賀城ではない。見よ!民衆はみな我ら安倍の布告に従っている。ここは我らの国、源氏であろうが国府であろうが好きにはさせぬ!

…という宣言であったと考えられます。これは一源氏に対する反逆ではなく、国家そのものに挑戦状を叩きつけた、とも解釈できるわけで、そうであったとするなら、

とんでもない領域に踏み込んでしまった…。

国家なにするものぞ!という意気、その気持ちはわからないでもない。源頼義は国に派遣されてきた役人。つまり我らに非道な戦を仕掛けてきたのは国そのものだ、ともいえる。なぜ我らばかりがこんな目に会わねばならぬ?
いつもそうだ!国はいつも、我ら蝦夷を憎む。我ら蝦夷から奪う。
我らが何をした!?ふざけるな!
このままおめおめとやられはせぬ!
奪われはせぬ。

国に反逆するということは、天皇に反逆すること。その意味をどこまで理解していたのか。

経清らが抱いたであろう「夢」それはおそらく、蝦夷の、蝦夷による、蝦夷の為の国を建設すること。それはかつて、平将門が歩もうとした道と同じ。

将門を討った男の末裔が、その将門と同じ夢を抱いてしまったとするなら、

なんとも、切ない話ではあります。 





話を戻します。
頼義は京の朝廷に何度も「援軍を送って下さい」と嘆願し続けますが、国は静観を決め込んで兵を送ろうとしません。お隣出羽国府の軍は、安倍氏の勢いにすっかり怖気づいてしまって、奥羽山脈を越えてまで援軍に駆けつけようとはしません。

さらには経清の行動により、税が徴発できず、兵糧米が枯渇してくる。
頼義が最後の頼みとしたのが、出羽仙北郡の「俘囚主」清原氏。安倍氏と同様の蝦夷です。頼義らは多くの貢ぎ物を清原氏に送り、頼義の嫡男・義家が直々に使者となって清原氏説得に当たりますが、当の清原はなかなか首を縦に振らない。そうこうしているうちに、頼義の陸奥守の任期が切れ、新しい国府が中央から派遣されてきてしまいます。

しかし頼義はしつこかった。新任の陸奥守着任にも関わらず、頼義は強引に多賀城に居続けます。新任者はその頼義の勢いに恐れをなし、すごすごと引き上げてしまった。
このやり口には、さすがの国側も眉をひそめたことでしょう。しかし取り敢えず、様子を窺うことにしたようです。
すべては、一定の決着がついてから。

そしてついに、清原氏が立ちました。源氏について、安倍氏と戦うことを決断したのです。

それまで頑強に受け付けなかった清原氏が、何故ここにきて参戦を決めたのか?源氏の贈答攻撃にやられたか?
義家は清原氏に、名簿を差し出す、つまり家来になってもいいとまで言って懇願したとか、そうしたことが清原氏の心を動かしたか?

実は最近、この件に関して大変興味深い説を知りました。後々「後三年合戦編」で触れてみたいと思います。

先へ進みます。清原武則率いる一万の軍勢は、山形経由で三千の源氏軍と合流。安倍氏の砦、磐井郡(岩手県一関市)の小松柵へと向かいます。小松柵には僧・良照と安倍宗任が守りについていました。

康平5年(1062)8月、小松柵にて両軍が激突。数に優る源氏・清原連合軍が安倍軍をじりじりと追い詰め、ついに柵は陥落、良照、宗任らは柵を脱出し、一旦後方の石坂柵へと引きます。
安倍軍は得意のゲリラ戦で連合軍の動きを封じ、連合軍は小松柵に留まらざるを得なくなる。兵たちは兵糧を得るために柵を遠く離れ、柵に残った兵はわずか六千ばかりとなってしまいます。そこへ八千余の安倍軍が攻めかかります。
数で劣るため頼義はすっかり浮き足立ってしまう。これに活を入れたのが清原武則で、武則は「今こそ敵を破る好機ぞ!」と檄を飛ばし、気弱になっていた頼義ら源氏勢を振るい立たせ、安倍軍との決戦に挑みます。
死にもの狂いの連合軍の猛攻に、安倍軍はしだいに追い詰められます。清原武則は決死隊を募り、後方の石坂柵に火を掛けさせ、安倍軍の退路を断ちました。これに恐慌をきたした安倍軍は総崩れとなり、ほうほうの態で本拠・衣川柵へと落ち延びていきました。後に残されたのは、死屍累々の山…。

この小松柵の戦闘が、前九年合戦の帰趨を決めたといって良いでしょう。この戦闘にみられるように、実際に戦を指揮したのは清原武則であって源頼義ではありません。清原無しに、この勝利は有り得なかった。

一体どちらが、「武門の棟梁」か…。

康平5年9月。連合軍は安倍氏の本拠、衣川柵(岩手県奥州市衣川区)へと攻めかかります。安倍軍の総大将は猛将・安倍貞任。

連合軍は果敢に攻めかかりますが、さすがは安倍軍の本拠地、簡単には落ちません。砦から雨の如く降り注ぐ矢に、連合軍の死傷者は九十人を越えました。
ここで戦況を打開したのは、またしても清原武則です。武則は夜陰に乗じて三十余人の兵に衣川を渡河させます。兵達は川を渡り終えると、衣川柵と連携する藤原業近柵(ふじわらのなりちかのさく)へ侵入、火を掛けます。
これを見た安倍軍内に動揺が走ります。貞任は早々に衣川柵に見切りをつけ、衣川よりさらに北、弟・宗任が守る鳥海柵(岩手県北上市)に馬首を向け、朝日の中を駆け出します。

その貞任へ迫るは、頼義が嫡男、源義家。

義家は貞任を呼び止めると「衣の舘は綻びにけり」と下の句を投げかけました。

この場合の舘とはもちろん、衣川柵のことでありますが、服の縫い目のことを「たち」と言うんですね。つまり砦の「舘」が落ちたことと、服の縫い目が綻びたことをかけているわけです。

これに貞任「時を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返しました。この「糸」とは、おそらく「家系」のことだろうと言われています。この戦で安倍氏側も多くの一族を失った。その苦しさ故だ、という意味にでもなるでしょうか。


【時を経し 糸の乱れの苦しさに 衣の舘は 綻びにけり】


これに感銘を受けた義家は、追撃を止めたといいます。

この逸話は「古今著聞集」という文書に書かれているのですが、後世の創作とする研究者が大勢のようです。
しかし、例えそうであったとしても、少なくともこの文書が書かれた頃には、奥州の蝦夷たる安倍氏が、単なる野蛮人などではなく、一廉の教養を持つ人々であったと認識されていた、ということでしょう。



安倍軍は鳥海柵を捨ててさらに北、最後の砦である厨川柵(くりやがわのさく:岩手県盛岡市)に立てこもり、最終決戦に挑みます。

【続く】

黄金の國【前九年合戦編】~3~経清、安倍軍へ 。そして頼時の死

2013-06-14 22:31:21 | 黄金の國


安倍氏立つ!頼時は衣川の関を閉じると衣川柵に入り、戦闘態勢に入ります。安倍氏の砦の最南端とされる小松柵(岩手県一関市萩荘)には、一族(頼時の“長男”か)の僧・良照が入り、川崎柵(岩手県一関市川崎町)には、勇将金為行を配し、源氏を迎え撃つ姿勢を示しました。

待ちに待った好機とばかりに、源氏軍は一斉に押し出します。安倍軍は地の利を生かし、源氏軍に対し巧妙なゲリラ戦を仕掛けます。アテルイ以来の得意な戦法に源氏軍は翻弄され続け、頼義はただただ悔しがるばかり。
そんな時、源氏軍の間にあるウワサが流れ始めます。「源氏軍の中に、安倍軍の内通者がいる」
そのターゲットとなったのが、伊具郡(いぐぐん:宮城県角田市・丸森町)を治める伊具十郎こと平永衡でした。

永衡は多賀城に務める地元の役人でした。永衡は安倍頼時の娘を妻に迎えており、元々戦には消極的だったのでしょう。国府の役人という立場上仕方なく頼義の下にいた。
頼義の軍勢はこの様な地元の軍と、関東から馳せ参じた武士達との混成郡でした。両者の間には最初から温度差というか、軋轢のようなものがあったのでしょう。度重なる敗戦が両者の溝を益々深め、たまたま頼義の婿であった永衡が不満のはけ口となってしまった。

頼義はこのウワサをそのまま信じ、ロクな吟味もせずに永衡を斬ってしまう。

これに脅威を感じた男が、源氏軍に参加した者達の中におりました。

亘理郡(わたりぐん:宮城県亘理町)を治める、亘理権大夫こと藤原経清。

彼もまた、安倍頼時の娘を妻に迎えておりました。

身の危険を感じた経清は、「安倍軍が多賀城を攻撃しようとしている」とのデマを流し、その混乱に乗じて八百人の精兵を率いて脱出、安倍氏の本拠地・衣川へと逃げ込みます。
経清は安倍軍の指揮官として八面六臂の活躍をすることになるのですが、この逃走劇は源頼義を激怒させます。「おのれ経清!陸奥守にして鎮守府将軍たるこの源頼義を騙し、裏切るとは何事ぞ!所詮は奴も蝦夷よ。この怨み、晴らさでおくものか!!」

藤原経清は、かの平将門を討った名将・藤原秀郷(俵藤太)直系の子孫であり、遡れば京の藤原摂関家に繋がる名門です。それでも東北に代々住んでいるというだけで、蝦夷だといわれてしまう。このことからも、蝦夷が特定の民族を指したものではないことが解ります。

経清自身、源氏よりも安倍氏により強いシンパシーを抱いていたことは、ほぼ間違いないでしょう。

蝦夷が東北に“いた”のではない。

東北の大地が、人を蝦夷に“した”のです。



頼義は陸奥守の権限をフル活用して、安倍氏の周辺の切り崩しにかかります。
気仙郡(けせんぐん:岩手県陸前高田市・大船渡市など)の郡司・金為時、奥六郡よりさらに北に住む、安倍氏の同族安倍富忠などが源氏側に寝返ります。特に安倍富忠の“裏切り”は安倍頼時にはショックだったようで、頼時は自ら同族・安倍富忠を説得しようと北へ向かいます。

しかしこれがいけなかった。北へ向かう途上、頼時一行は待ち伏せしていた安倍富忠の軍勢の攻撃を受け、頼時は瀕死の重傷を負ってしまう。

瀕死の頼時は本拠・衣川に戻る途中、鳥海柵(とのみのさく:岩手県北上市)にて死亡します。天喜5年(1057)7月のことでした。

安倍の長が死んだ!源頼義は欣喜雀躍したことでしょう。これで安倍氏など敵ではない。

しかし、安倍頼時の二男にして安倍氏一の猛将安倍貞任、その弟安倍宗任、そして藤原経清らが頼時の意志を受け継ぎ、源氏との決戦に臨みます。

両軍の直接対決は同天喜5年、北上川河畔、真冬の黄海(きのみ:岩手県一関市藤沢町)にて行われました。東北の冬を知らない源氏軍が、無謀にも真冬の決戦に挑んだのは、単なる無知故か、それとも何か理由があったものか。いずれにしろこの戦いは安倍軍の大勝利に終わります。
頼義は嫡子義家と共に安倍軍に取り囲まれ、頼義らの郎党は次々と落命し、ついにはわずか7騎ばかりとなります。
しかしこの絶体絶命の7騎、何故か生き延びてしまう。安倍氏側が情けをかけたのか、それとも頼義、義家らの命懸けの猛攻が安倍勢を怯ませたか。

安倍氏としては、陸奥守である頼義を殺してしまっては国家に対する明白な反逆行為となってしまい、戦いが泥沼化する懸念があった。だから、見逃した、とするのが妥当かもしれませんね。



この敗戦によって、馳せ参じた関東武士達が頼義を見限り、続々と帰国してしまいます。勝たなければ恩賞が得られず、恩賞が得られなければ戦う意味はない。

兵隊がいなくては戦えない。頼義は動くに動けないまま、4年もの日々を過ごし、再び任期切れが迫ってきました。陸奥守に三期目はありません。

しかし、頼義はしつこかった。

【続く】

黄金の國【前九年合戦編】~2~源頼義の野望

2013-06-11 22:32:04 | 黄金の國


「六箇郡の司に、安倍頼良というものあり。これ同忠良が子なり。父祖忠頼は東夷の酋長にて、威風大いに振るい、村落皆服す」

前九年合戦の記録「陸奥話記」の冒頭です。

「陸奥話記」によれば、安倍頼良が税を納めず、衣川を越えて磐井郡に進出してきたため、陸奥守・藤原登任と秋田城介・平重成が数千の軍勢を率いて、安倍氏追討の兵を挙げたとあります。

しかし、これをそのまま信用していいものなのか?抑々、衣川が国境線だったというのは本当なのか?等々、色々な疑問が出てきます。

近年の研究では、この合戦は藤原登任らの挑発だったのではないか?という説が主流になりつつあるようです。
律令制度によれば、国土はこれすべて国のものであることが建前ですが、この当時すでに律令制は事実上崩壊しており、「墾田永年私財法」などの法令によって土地の私有は認められていました。地方の武士層は開拓した土地を中央の公家に荘園として寄進し、土地の管理者となることで事実上の支配権を確立させていたわけですが、安倍氏はそれをしなかった。自分達が開墾した土地は自分達の者、誰憚ることがあろうか。この頑固さ、馬鹿正直さが合戦のきっかけを作ってしまったようです。

要するに藤原登任らは、その安倍氏の私有地からの“あがり”が欲しかった。寄進しないとは生意気だぞ、蝦夷のクセに!寄越さないと攻めちゃうぞ!…と脅しをかけてきたわけです。奥州は良質の馬や金を産し、北方からの産物も豊富。欲の皮の突っ張った公家どもとしては、その莫大な権益は喉から手が出るほど欲しかったでしょう。だから生意気な安倍氏の勢力を削いでおこうと思った。

しかし、それに屈するような安倍氏ではありません。両軍は鬼切部(鬼首)で激突します。
鬼首といえば鳴子温泉のすぐそばです。衣川どころではない、宮城県に入っちゃってる。安倍氏の勢力圏は、衣川も岩手県も越えて、宮城県北部まで進んでいたのではないか、という推論も成り立ちますね。

鬼切部の戦いは安倍氏側の圧勝に終わります。朝廷側としては、陸奥守の軍勢に反旗を翻したのは、国家に対する反逆に当たるとして、新たな陸奥守を奥州に派遣します。
軍事系貴族源氏の棟梁、源頼義です。

頼義が最初から奥州の権益を狙っていたのかどうか、それはわかりません。しかし武門の棟梁としては、奥州産の良馬や、良質な矢羽となる鷹の羽、鷲の羽は魅力だった。それと金も。

源氏の勢力拡大には、奥州の莫大な権益は欠かせない…。



頼義が陸奥守として国府多賀城に赴任してまもなく、頼義の出鼻を挫く事態が出来します。時の後冷泉天皇は、母親の病気快癒を願い、天下に大赦令を発布。それによって安倍氏の“罪”は免ぜられ、頼義は安倍氏を攻める大義名分を失ってしまった。

当事者である安倍頼良はこれを甚く喜び、陸奥守の同じ名前では畏れ多いとして、名を頼時と改めます。
安倍氏としては自分達の自治と権益さえ守られれば良いわけです。朝廷に逆らう意志など最初からないのです。だからひたすら隠忍自重の日々を送り、頼義の任期切れを待つ作戦をとった。

そうして瞬く間に5年の歳月が経ち、頼義はなすすべもないまま任期切れを迎えてしまいます。
頼義は最後の記念にと、胆沢城の視察を安倍側に要請、最後の願いということで、頼時は頼義を自らの本拠地に迎えいれます。
それから頼義は10日間も胆沢の地に居続け、安倍氏側から多くの進物と供応接待を受け続けました。なにか隙はないかと窺っていたのでしょうが、結局攻める口実を見つけられず、頼義は軍勢を引き連れ、帰路に就きます。

このまま何事もなく終わるかに思えた最後の最後に、どんでん返しが起こります。

頼義勢が宿営を置いた阿久利川(現在地不明)河畔において、頼義の配下藤原時貞が、「従者と馬が殺された」と頼義に訴え出たのです。頼義は時貞に犯人の心当たりを訪ねます。すると時貞は「阿倍頼時の一子に貞任という猛者がいる。その貞任が私(時貞)の娘を嫁にしたいと申し込んできたので、蝦夷ずれに娘はやれぬと断った。それを恨んでのことに違いない」と答えました。
頼義はこの言い分をそのまま信じ、一方的に貞任を犯人と決め付け、頼時に貞任の引き渡しを要求します。頼時はこれを断り、これを受けて頼義は陸奥守への反逆であるとして、安倍氏追討の口実を得ることになるのです。

しかしこれは真実でしょうか?5年もの間辛抱し続けることができた安倍氏が、たとえ本当に辱めを受けたとしても、土壇場でそれまでの努力を無に帰すようなマネをするでしょうか?どう考えてもこれは、源氏側の汚い策謀としか思えない。安倍氏は完全に嵌められたのです。

親子の情愛を突いてくる姑息なやり口に、頼時は頼義の執念を感じたのでしょう。もはやいくさは避けられぬとみた頼時は、一族を集めて口上します。
「人としての生きがいは、妻子のために働き、これを育むことにある。息・貞任が例え罪を得るような愚か者であったとしても、父子の情愛として、これを見捨てることなどできぬ。この上は衣川の関を閉ざし、戦うより道はない。例え戦いに敗れ、我らが滅びることとなろうとも、人として悔いはない」

ついに、源氏対安倍氏の戦端が開かれることとなったのです。

【続く】

黄金の國【前九年合戦編】~1~安倍氏台頭

2013-06-08 22:28:06 | 黄金の國


アテルイの頃までは、東北の民は明らかに差別されていました。

伊治公砦麻呂が乱を起こしたのは、彼が大和のために目覚ましい働きをしても、蝦夷だということで、ずっと差別的な扱いしかされなかったこと、先祖の墓の上に城を築かれ、先祖を冒涜されたこと等々が積み重なってのことであることは、以前にも述べました。
征夷行動が終息し、大量の移民団が入植した直後の頃は、入植者と地元民との間には明らかな対立があり、武力闘争に発展した例もあったようです。

しかし9世紀から10世紀にかけて、貞観大震災、鳥海山噴火、十和田湖火山の噴火、さらには朝鮮半島の白頭山の噴火と、多くの天変地異が東北を襲い、中央政府の奥羽政策も変化を余儀なくされる。そのような展開の中、入植者と地元民との隔たり、格差というものがなし崩しに崩れて行く。両者は相争いながらもしだいに手を取り合っていったのでしょう。地元民と入植者との婚姻も行われるようになり、実力あるものが仕切るようになっていった。
そのような実力のあるものは、即戦力として役人に採用され(在庁官人)、しだいに影響力を広げて行きます。

奥州安倍氏の出自も、その辺りにあるのではないでしょうか。



アテルイの乱終息後、現在の岩手県奥州市から盛岡市辺りに、新たな郡が建郡されます。

南から順に胆沢郡、江刺郡、和賀郡、稗貫郡、紫波郡、岩手郡。以上の六郡は総称して「奥六郡」と呼ばれました。

胆沢郡に築かれた鎮守府・胆沢城の在庁官人だった安倍氏は、京の都と奥州の産物との交易、馬や金、鷲の羽。また、北方より輸入されたアザラシ、ラッコなど動物の毛皮等の取引を仕切ることで、奥六郡の「俘囚長」の地位を実力でもぎとったのだと思われます。

中央政府としては、一定の税さえ納めてくれたらそれでよかった。奥六郡より北は、事実上蝦夷達の自治区のような様相を呈し、衣川(岩手県奥州市と平泉町とを隔てる川)が国境線のような意味を持ちました。
衣川さえ越えなければ、奥六郡における安倍氏の支配権を黙認する。これが中央政府の方針だったようです。



永承6年(1051)、この両者の均衡が破られる事態が出来します。

安倍氏の勢力が衣川を越えて磐井郡(岩手県平泉町・一関市)に進出したとして、陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)が、安倍氏追討の兵を挙げたのです。

世に言う「前九年合戦」の始まりです。

【続く】