後三年合戦が始まった丁度同じころ、京の都では、白河上皇による院政が始まっていました。
それにより、藤原摂関家の勢力は相対的に衰えて行きます。源氏は藤原氏の下に就くことで勢力を拡大していた面もあったので、藤原氏の勢力低下は源氏にとって脅威でした。
しかしながら遠く奥州にあっては、義家のもとにそのような情報が齎されることはなかったでしょう。そんな京の政情を知らぬまま、義家は戦を仕掛け、朝廷に事後承諾を求めます。
しかし白河上皇は、一地方の豪族の内輪もめに、強引に介入したのは義家自身であり、とても国家の為の戦であるなどとは言えず、義家の私戦であると断じます。しかも国庫に納める税を勝手に使い込み、税の納入を滞らせたとして、陸奥守を解任、ただちに帰国して釈明するよう求められました。
白河上皇は義家の野望、奥州の権益を狙う野望を見抜いていたのでしょう。奥州産の金や馬、鷲や鷹の羽。動物の毛皮等々、これら奥州の豊かな権益を源氏が手にしたなら、必ずや朝廷の脅威となるであろう。そうさせるわけにはいかない。
それに藤原摂関家の走狗である源氏の力を削ぐことは、相対的に摂関家の力を弱めることになる。
だが朝廷を守る武力は必要だ。それには平氏もいるし、京の都には義家の弟・加茂次郎義綱もいる。義綱は如才無い人物で、義家のような粗暴さはなく、公家たちのウケもいい。源氏はこの男にまかせて、源氏と平氏の勢力を拮抗させ、武門の者達の勢力を抑えれば良い。
義家は危険すぎる。
奥州から帰京する途上、義家は討ち取った家衡らの首を、道端に捨てたそうです。手柄にならなくなったからといって、道端に捨てるとは…この当時の武士とは、こんなものだったのでしょうかねえ…。
京の政情の変化は、義家を戸惑わせたことでしょう。源氏の棟梁の座は、いつの間にか弟・義綱に捕られた格好となっており、義家のいる場所はなかった。義家と義綱の仲は次第に険悪となり、寛治5年(1091)には家臣同士の所領争いが、お互いに兵を挙げる事態に発展。主筋の藤原師実のとりなしによってなんとか治まったものの、義家は所領を取り上げられてしまいます。一方の義綱はお咎めなし。
ここまでくると、なんだか憐れです。
承徳2年(1098)に至ってようやく義家の官位が復され、昇殿を赦されます。しかしその三年後の康和3年(1101)、今度は嫡男の義親が九州で反乱を起こしてしまう。朝廷は解決策として、父親の義家に追討軍を指揮させようとします。
しかしそれは実現しませんでした。嘉祥元年(1106)、長年の心労が祟ったのか、この年義家は死去します。享年68歳。その三年後、義親は平正盛(清盛の祖父)に討たれ、武門の中心は平氏に移ります。
さて、棚からぼた餅的に奥州の覇権を手に入れた清衡は、清原の姓を改め、実の父藤原経清の姓藤原を名乗ります。勝手に名乗ったのでは、京の藤原摂関家からクレームが付くかもしれない。おそらく清衡は、藤原摂関家に対しかなりの貢物を送り、正式に名乗ることの許可をとったものと思われます。砂金や良馬などを大量に捧げたのでしょうね。これによって京との間に太いパイプが出来、それは平泉100年の栄華の礎ともなったでしょう。
清衡が豊田舘(岩手県奥州市江刺区)から平泉に拠点を移したのは、11世紀から12世紀の狭間辺りだろうといわれています。
清衡が平泉建都に託した夢。それはこの世の浄土。此土浄土を奥州に作ること。
奥州に、永遠の平和を齎すこと…。
(黄金の國【平泉編】へ続く)