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 風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

松の内 -ナマハゲのことー

2019-01-07 09:30:10 | 歴史・民俗

 

 

 

ナマハゲもまた「来訪神」ですね。

ナマハゲ行事は今でこそ大晦日に行われていますが、本来は小正月、つまり松の内の最後の日である1月15日に行われるものでした。

 

松の内の終わり、つまり歳神様がお帰りになられるその日の夜に、ナマハゲはやってくるわけです。

 

これは何を意味するのでしょう?

 

あるいはこれは、歳神様による、家族に幸福を齎すための最後の総仕上げ、なのかも知れません。

 

 

「なまけものはいねが~!泣ぐ子はいねが~!」と叫びながらやってくるナマハゲ。泣いてばかりいて親を困らせる子供や、仕事もしないで火にあたってばかりいる怠け者を諫め、子供には親のいう事をよく聞き、怠け者にはよく働くよう諭す。

つまりはそれが、家族の、そして共同体全体の幸福、発展に繋がる。

 

 

歳神様には先祖霊の性格も含まれています。御先祖様からの厳しくも暖かい諭しと捉えれば、

ありがたいものです。

 

 

 

人間椅子『なまはげ』

「怠け者はいねが~!泣いでるわらしはいねが~!」

 

 

関東あたりでは今日が松の内の最終日ですか。地域それぞれ、それでいいと思います。

 

今年一年、しっかり働きましょう。


松の内 -来訪神ー

2019-01-06 14:33:40 | 歴史・民俗

 

 

 

来訪神とは人々に「幸福」を運んでくるもの、のようです。

 

アイヌの世界観では、熊をはじめとする動物たちはカムイ・モシリ(あの世)からアイヌ・モシリ(この世)に住む人間たちへ、「贈り物」を届けに来た「来訪神」であると捉えていたようです。

贈り物とはすなわち、おいしい肉や暖かな毛皮です。人々はこれを受取り(つまり狩をし)その魂を丁重にカムイ・モシリへ送り返す儀式を行う。

物欲のほとんどなかったアイヌにとって、幸福とはなによりまず過不足なく食料が得られ、暖かい暮らしが送れることだったでしょう。

 

このアイヌの世界観と縄文の世界観が同じであったかどうか、安易なことは言えませんが、私は多くの共通点があったのではないかと考えます。大自然とともに生き、大自然からの恵みを感謝とともに享受していた縄文の人々にとって、やはり動物たちは「来訪神」であったでしょう。

 

 

やがて時代は縄文から弥生へと移り、生活の基盤が稲作農耕へと転化していく過程において、「来訪神」のかたちもまた変化していく。稲は食料としての意味合いだけではなく、富や権力の象徴となっていきます。ですから人々に豊作を齎す来訪神は富と権力をも齎す神であるととらえられるようになっていく。

豊富な食糧に富に権力、それらすべてを合わせて幸福。人々の考え方が変化するにつれて、来訪神の性格もまた、変化していった。

 

 

ところで、歳神様とスサノオとの関連性については以前にも記事にしました。スサノオは蘇民将来伝説の牛頭天王であり、蘇民将来伝説とユダヤの「過越しの祭」との関連も指摘されるところ。

牛頭天王=スサノオは流浪する神であり人々の家を訪問する来訪神です。この来訪神を温かく迎え入れた家は富み栄え、拒絶した家は衰退した。これがどこをどう変遷したのかわからないものの、正月に各家を訪れる来訪神「歳神様」として定着した。

 

 

伊勢地方では正月に飾るしめ縄に「蘇民将来子孫」と書いた木札をつけるとか。これなどはユダヤの過越しの祭の由来にある山羊の血と同じような、災厄を避け幸福を迎え入れるという意味あいもあるのでしょう。

 

 

歳神様とスサノオ、ユダヤとの関連。思いつくままにつらつらと書き連ねてみましたが、なかなか面白いものがあるのではないでしょうか。

 

 

もうちょっと続く、で、ありやす。


松の内 -序ー

2019-01-05 09:18:22 | 歴史・民俗

 

 

 

松の内は1月7日まで、鏡開きは11日。

 

しかし本来、松の内は小正月である1月15日までであり、鏡開きは20日に行われていました。

 

この「20日」という日を嫌ったのが徳川幕府です。20日は神君家康公の御命日。その日に祝い事を行うのはよろしくないということで、松の内を1月7日までに短縮し、鏡開きを11日としたのです。

元々1月7日までは「大正月」と呼ばれており、本来は「小正月」まであった松の内を「大正月」の期間内に縮めてしまったわけです。

 

以降、幕府の影響力の強い関東などでは7日までの松の内が定着したようですが、これは全国的には波及しなかった。だから関西や我が東北などでは今でも松の内は1月15日まで、正月飾りは15日まで飾ってあるのが「常識」なのです。

 

7日までが正しいなどと嘯いている東京至上主義者よ、君たちの「常識」は必ずしも正しくはないのだよ、けけけ(笑)。

 

 

ところで、お正月というのは単に新年を祝うという行事ではありません。以前にも記事にしましたが、正月とは「歳神様」をお迎えする祭りなのです。

 

歳神様とは農耕の神であり先祖霊の側面も持っていると云われております。この毎年正月になると山から下りてくる歳神様を我が家にお迎えし、おもてなしをする。門松やしめ縄などは神をお迎えする場の目印であり、鏡餅は神の依代です。おせち料理は神へのお供えもの。そうして神に供え、特別な霊力を得た食べ物を人が食することによって、新たな生命力を得る。おせち料理や鏡開きにはそのような意味があるのです。

 

 

歳神様とはつまり、「来訪神」です。この来訪神というキーワードから、色々考えられそうです。

 

 

短いですが今日は「序」ということで、

 

ここまで、で、ありやす。


鰤起こし

2019-01-03 04:59:09 | 歴史・民俗

 

 

 

北陸あたりでは冬場にも雷が多く鳴るそうですね。太平洋側では冬場に雷はほとんど鳴らないのでちょっと想像がし難いのですが、金沢あたりでは冬場の雷はメチャメチャ多いらしい。雷の後には必ず激しい風雪がやってくる。

以前紹介した「雪起こし」という言葉も北陸あたりで主に使われる言葉だそうで、なるほど道理でこちら東北の太平洋側では聞いたことがない言葉だったはずだ。だってこちらでは、冬場に雷などほとんど鳴らないのだから。

 

日本海側では冬場は鰤(ブリ)が穫れる季節。特に雷が多く鳴る年は鰤も大漁となるらしい。そんなところから北陸あたりでは冬の雷を「鰤起こし」などとも云うそうです。

 

さすがは雷だ、色々なものを起こすんだね。だって、「雷おこし」というくらいだもんね……。

 

 

 

 

おあとがよろしいようで……って、これで終わりかーい!

 

 

 

 

アリス『冬の稲妻』

 

 

日本海側と太平洋側とでは、気象の状況がまるで違うんですねえ。知ってるつもりで実はよく知らないってことは世の中に多いものですね。鰤に教えてもらいました(笑)

 

とかくこの世界は面白い。

 

 

♪今日のお越しをありがとう~。岩おこし~。泡おこし~。ようお越し。

またお越し~♪


新春猿回し考

2019-01-02 09:48:39 | 歴史・民俗

 

 

 

古来、日本において猿は「馬の守り神」であると信じられていました。

 

なぜ馬の守り神とされたのか、諸説あるようですがよくわかりません。猿は日吉大社では神使とされているように、山の神と人とのあいだを仲介する存在とされていました。

山の神は農耕の神であり、お産の神でもあり、また死んだ人の霊魂は山に「還る」ともされているところから、命の生成、生死を掌る神とされていたと思われ、馬は人の生活にとって欠かせない存在でしたから、この山の神、その使いである猿を馬の守り神ともすることで、馬を守ろうとしたのかもしれません。

 

 

貴族や武家にとって馬は、移動手段、動力としてとても重要な存在でした。奥州産の馬は現代でいうところのベンツ並の価値があったとされています。特に武家にとって馬は戦場における重要なパートナーでした。また農民にとっても、馬は農作業を手伝ってくれる大切な「仲間」でした。岩手県の旧南部藩領域には「南部曲がり屋」と云われる、馬と人とが一つ屋根の下に暮らせるように作られた民家が残っています。馬は家族と同等の存在だったのです。

 

 

かつて厩では猿が飼われていたといいます。それが時代が下るにつれて、猿の頭蓋骨や手などを厩の屋根裏などに祀るようになっていき、やがてもっと簡単に、馬の絵を厩に飾るなどのようになっていった。

 

ところで、猿を「飼って」いたといいますが、猿は簡単に人に飼われるような、大人しい動物ではありませんね。これを飼うには人に馴れるような訓練を施す必要があります。

 

この猿を訓練し、ときに操る人々、これこそが「猿引」「猿飼」と呼ばれ、現在「猿回し」と呼ばれる人々の原点であったのだろうと思われます。

 

「猿引」「猿飼」と呼ばれた人々は、正月などのようなハレの日に、猿を操る門付け芸を披露する、「宗教芸能民」でありました。彼らは厩の前でもこの「猿引」芸を披露して馬に憑りつこうとする病気や魔を祓う「神事」を執り行っていたのです。

 

「猿引」=「猿回し」とは縁起物でもありまた、神事でもあったわけです。

 

 

山の神の使いである猿を操る芸を行うことができる人たち。彼ら猿引、猿飼は神の使いを「使う」ことができることから、神に近い人々とされ、畏れの対象、禁忌の対象となったのだろうと思われます。

古来、芸能事とはそのすべてが神事と繋がっていました。ですから芸能事を行う芸能民もまた神に近い存在とされ、畏れ、禁忌の対象だった。

猿引もまた芸能民、だから畏れられ、忌避された。

 

やがて時代が下るにつれ、芸能事は神事から零落し世俗化していきます。その過程で芸能民に対する「畏れ」は「恐れ」に変わり、忌避の観念だけが残った。そしてこれが

「差別」を生んだ。

 

芸能民は化し差別の対象となり、猿引もまた差別された。関東において猿引は、・を束ねる浅草弾左衛門の配下とされていました。

猿引=猿回しは被差別民だったのです。

 

 

 

私は猿回しを見るたびに、なにか「哀しい」ものを感じていました。

それは綱に繋がれて芸を行う猿に対するものであったかもしれない。反省ザルの二郎くんはまだしも、日光猿軍団などにはなにかとても「嫌」なものを感じて、とても見られたものじゃなかった。

 

それが「被差別民」故であったなどと、短絡的なことを云うつもりはありませんが、芸能事というものはすべからくみな、どこか「哀しみ」というものを背負っているように私には感じる。

 

それが彼ら芸能民の歩んできた「歴史」故なのか、どうか。

 

 

 


忠臣蔵の視点

2018-12-14 05:55:16 | 歴史・民俗






「上野介!この間の遺恨、覚えたるか!」



松の廊下で浅野内匠頭はこう叫びながら、吉良上野介に斬りかかりました。



この「遺恨」とは具体的にどういうことなのかわからない。事件後内匠頭は「遺恨」について一切語らぬままその日の内に切腹と相成り、上野介は身に覚えがないの一点張り。


これが後々まで大きな「禍根」を残すことになるのです。




この刃傷事件が起きた3月14日は、江戸城にて朝廷よりの勅使、院使をご接待申し上げる日でした。吉良上野介と浅野内匠頭はその接待役という大役を仰せつかっていたのです。

よりによってその接待役が事件を起こしてしまった。しかもこの日は朝廷より、将軍綱吉の母桂昌院に正一位の官位が下されるという大変な名誉を与えられる日でもあったのです。

正一位というのは普通、稲荷神などの神様に与えられる官位で、生きている人間に与えられることはめったにないことなのです。それだけに綱吉の喜びたるや大変な者でした。


その大事な日に起きてしまった不祥事。綱吉は当然ながら激怒します。怒りに任せて内匠頭には即日切腹の命を下し、赤穂藩改易の決定を下してしまう。



一方上野介の方には、手向かいしなかったことが神妙であるとして一切御咎めなし。後日将軍よりお見舞いの言葉を頂戴するという気の使いよう。



この余りにも差のあり過ぎる裁定が大きな物議を醸すことになるのです。


それは武士の間だけではなく、広く一般庶民に間にまで及び、そこからやがて、「仇討ち待望論」が世間の間に広がっていくことになるのです。



幕府の立場からすれば、殿中にて刀をぬいてはならないという御定法があり、それを破った内匠頭が処罰されるのは当然であり、しかも内匠頭より上野介へ一方的に振るわれた暴力であって「喧嘩両成敗」は成立しない。

なにより将軍の逆鱗に触れてしまったのだから致し方なしとしておきたいところだったでしょう。



しかし世間は納得しません。遺恨があるというのだから上野介側にも不手際があったはず、それをきちんと調べもせずその日のうちに刑を執行するなど余りに早計に過ぎるし、これでは内匠頭が可哀そうだ。

もっと時間をかけて調べればあるいは内匠頭も心を開き、真相を話したかもしれないのに、その機会を永遠に奪ってしまったのが悔やまれる。お上のこの度の御裁定はどうにも納得がいかない。そのような風聞が世間一般に流れるようになっていく。



元々上野介は江戸ではあまり評判がよくなかったらしい。傲慢な人物で訪れた屋敷でなにか良い品を見つけると勝手に持っていってしまう。だから上野介が訪れる屋敷では貴重品を隠すようにしていた、なんて話が広まっていたようです。


そんな人物だから、きっと内匠頭にも傲慢でひどい仕打ちをしたに違いない。そんな噂がさも真実であるかのように広まっていったのでしょう。




世間一般が納得しない。しかし一番納得出来なかったのは、大石内蔵助を筆頭とする赤穂藩士だったでしょう。藩主は即日切腹、藩は即刻改易。相手方の吉良は一切御咎めなし。

こんな差のあり過ぎる裁定、納得できるはずがない。



吉良に対する激しい怒りも覚えたでしょうが、それ以上にその怒りの矛先は、寧ろ幕府に向けられたのではないでしょうか。


こんなに簡単に命を奪い、こんなに簡単に何千人もの藩士とその家族を路頭に迷わせる。


幕府は我々武士を、その家族を


なんだと思っているのだ!




仇討とは武士の存在をかけた行動である。というようなことを以前に書いたかと思いますが、この赤穂事件とはまさに、武士という存在の意味を幕府に問うた、命がけの抗議だったのではないかと私は思う。


それには幕府に直接攻撃を仕掛けても意味はない。寧ろ幕府が許した吉良上野介を討ちとり、世間から拍手喝采を浴びることで、幕府の方向性を変えさせるように持って行く。



赤穂浪士たちは吉良をとおしてその向こう側にいる、幕府に刃を向けていた。



まっ、これは一つの視点です。それも私好みの相当ドラマチックな視点だといってよく、これが絶対正しいなどと云うつもりはありません。



この視点でいくと吉良上野介もまた被害者だったことになりますね。それも一番割に合わない被害者だ。こういう視点で時代劇一本作れないものかなと、思いますねえ。




ところで、吉良の屋敷は元々江戸城外堀の内側にある呉服橋内にあったのですが、事件後隠居した吉良に対し幕府は屋敷変えを命じ、本所松坂町に移転させます。

現在の丸の内辺りから寂しげな本所松坂町へわざわざ移転させたのはなぜか。江戸城の堀の内側に屋敷があるよりははるかに討ち入りがしやすい土地へ移転させているところから、実は幕府は討ち入りをさせたがっていたのではないか、という説を唱える方もおられるようです。「幕府陰謀説」ですね。


これも一つの視点。この視点を基にして、またまた時代劇一本撮れないものかと思いますねえ。



忠臣蔵は実に奥が深い。








刃傷松の廊下

昭和36年の東映映画『赤穂浪士』より。浅野内匠頭を演じるのは大川橋蔵。吉良上野介は東映悪役スター月形龍之介。

月形さんのこの憎々しさね、これぞ定番の吉良上野介ですねえ。素晴らしい。

でも一番カッコイイというか美味しい役は、中村錦之助が演じた脇坂淡路守でしょうね。扇子で上野介をパーンと殴りつける。これで観客のうっ憤が晴れるわけですよ。出番は少ないけど美味しい役だ。

脇坂淡路守、好きな役ですねえ。



本当の仇は誰?

2018-12-13 15:49:34 | 歴史・民俗






忠臣蔵(赤穂事件)は本当に仇討と云えるものなのだろうか?




江戸城松の廊下での刃傷事件。これは浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけ、手傷を負わせたもの。その際吉良上野介は一切て向かう事なく斬りつけられるにまかせた。


吉良上野介を「仇」というけれども、少なくとも上野介は内匠頭を傷つけてはいないし、ましてや殺してもいないのです。


これは「法的」にいうところの仇とはなり得ない。



それに上野介は無抵抗だったのであって、つまりは内匠頭の一方的な乱暴狼藉ということになり、「喧嘩」とはなり難い。つまり「喧嘩両成敗」も成立しないということになります。



にも拘わらず仇討は実行された。しかし「本当」の仇は吉良上野介ではありません。だって上野介は内匠頭を肉体的には傷つけていない、殺してはいないのだから。



では本当の仇は誰か?内匠頭の命を実際に奪ったのはだれか。



はいそうですね、それは



「幕府」ですね。



原因を作ったのは吉良上野介かもしれない。しかし直接的に浅野内匠頭の命を奪い、何千人という赤穂藩士とその家族を路頭に迷わせたのは幕府なのです。




四十七士の刃は、吉良上野介をとおして幕府へ向けられていた。




赤穂事件とは、仇討の形をとった、幕府への命がけの抗議行動、反逆行為だったのだろう。




だからこそ慎重の上にも慎重を期して、確実なる成功を目指したのだ。




そう考えるとまた、忠臣蔵の別の面の面白さが見えてきますね。


仇討の定義

2018-12-10 10:54:50 | 歴史・民俗






いつの時代も「人殺し」は重大な犯罪です。


但し、「正当な理由」さえあれば、特別に許されるという時代が長らく続いていたことも確かです。



殺人に正当な理由?その点については色々意見はあるでしょう。しかしその議論はここでは致しません。ともかく、そういう時代が長らく続いた、ということは間違いない事実でしょう。



その「正当な殺人」の一つに、仇討があった。






血族意識が強く「体面」を重んじる武士にとって、自身の血縁の者が正当な故なく殺されることは大変な恥辱でした。



恥辱は雪がねばならぬ!仇討とは単に怨みを晴らすという行為だけではなく、武士という存在の「意味」をかけた行動だったといっていい。




しかしこの仇討を無制限に許していたのでは、世の秩序が保たれなく危険性があります。


武士が台頭し源頼朝によって鎌倉に幕府が開かれ、武士の世が到来します。鎌倉幕府は「御成敗式目」という法令集を作成し、法をもって武士たちを統率しようとするわけですが、



その「御成敗式目」の中では、仇討は明確に「禁止」されているんです。



そりゃあそうです。ヘタに許したりしたら仇討の名の下に、無秩序な殺人が横行してしまう危険がありましたからね。世の秩序を守る立場に立つ武士がそれではいけないわけです。

ですから鎌倉幕府においては、仇討は明確に否定されていた。


しかし人の心というものは、法だけで縛り切れるものではありません。特に子が親の仇を討つなどという話は、多くの人の共感を呼び涙を誘った。「日本三大仇討」の一つとされる「曾我兄弟の仇討」は鎌倉時代に起きた事件で、所領争いから親を殺された二人の兄弟が、親を殺した工藤某という武士の寝所に押し入ってこれを殺したという事件でした。

兄弟のうち兄の方はその場で討取られ、弟の方は逃亡しますが後に捕縛され斬首されます。


この事件、源頼朝ははじめ、二人のことを許そうしますが、法を順守させる立場にある頼朝がそういう態度では困るわけです。ですから最終的には曽我の弟は斬首されるに至るわけです。


曾我兄弟の行動に対し頼朝自身が共感を示したように、仇討は武士にとって、例え法を犯す行為だったとしても、その心情は十分理解できるものとして武士の中に生き続けた。





さて、時代は変わって江戸の頃になりますと、仇討は法制上の一つの手段として限定的に許されることになります。


例えば某藩内で武士同士による殺人事件が起こったとします。普通は役人によって犯人は捕縛されるわけですが、犯人が藩の外に逃亡し藩の警察権が及ばない状態となった場合に、被害者の血族が犯人を追ってこれを殺害することを認めた。つまり警察権の行使の一つの手段として、限定的に仇討が認められたわけです。



仇討を行う場合、まずこれを許すとする免状を藩に発行してもらい、それを持って仇討の相手を追わななければならず、決して勝手に追いかけてはいけません。勝手に行うのは重大な犯罪であり、本人自身が藩から追われる身となりかねません。

仇討が許されるのは基本、子が親の仇を討つなど、尊属の仇を討つ場合であって、親が子の仇を討つなどというような卑属に対する仇討はほぼ認められませんでした。これは「長幼の序」を重んじる儒教的観念から、親より先に死ぬ子は親不孝者であるとする考え方があったからだとされています。

鬼平犯科帳の「寒月六間堀」というエピソードは老武士が息子の仇を討つ話で、鬼平さんはこの世間的には許されない老武士の行動を、自身の身分を明かすことなく手助けするという話でしたね。


それはともかく、こうしてかたきを追い詰め見事本懐成ったあとは、先に藩より発行された免状を地元の役人に示し、仇討であることを証明しなければなりません。これがないと殺人犯として処罰されることになります。


江戸時代に仇討は許されていたとはいえ、このように厳しい規定があったわけです。


仇討は見事本懐が遂げられれば大いなる名誉ともなりますが、遂げられない場合は惨めです。時代劇によくあるように、何年もかたきを追い続けたがついに見つけられず、やがて国元からの送金も途絶え忘れられ見捨てられた存在となり果て、食うに困って用心棒になり果て、ついには金ずくで人を殺す殺し屋にまで落ちてしまう。なんてことにもなり兼ねなかった。


鬼平犯科帳の「暗剣白梅香」などはまさにそんなエピソードでした……また話が逸れた(笑)



ことほど左様に、仇討とは厳しいものでした。たとえかたきであっても、人の命を奪うという事にはそれほどの重みがあったわけです。決して人命が軽んじられていたわけではなかった。




さて、このように仇討というものは血族の仇を討つということがほとんどで、家臣が主君の仇を討つなどということはほとんど行われることはなかった。ですから赤穂事件のような出来事は非常に珍しいものでした。

いや抑々、赤穂事件は「正当」な仇討と云えるものなのだろうか?




続きます。

村八分

2018-11-26 04:50:05 | 歴史・民俗






人間と云うのは100%社会的な動物ですから、自分の所属する社会、共同体を維持しようとする本能が働きます。


ですから、その社会、共同体の決まりを破ったものに対しては、容赦なく排除し、時に攻撃を与えることもある。



いわゆる「村八分」という奴です。




村八分に「認定」されるのは上記のように、共同体の決まり、掟を破った場合などのことが挙げられますが、実際にはそんな厳格なものではなく、ほんの些細な、ちょっとしたことでも、共同体にとって「危険」「不要」と決めつけられてしまい、村八分にされてしまうこともよくあったようです。された本人からすれば、それこそ想像の付かない、些細なことで。


つまりは村八分というのは、行う側の勝手な「都合」で行われることがよくあったわけです。


現代のいじめなどもこれと全く同じですね。いじめる側の都合、「気分」で、いじめは行われる。




そこがなんとも、怖いところ。



村八分にはそれを先導する「長」がいて、その長の「都合」「気分」によって、村八分認定は行われると云って、ほぼ間違いはないでしょう。その共同体に所属する者たちは、共同体の中で生き残っていくために、

あるいは、自身も「楽しむ」ために、


長に従う。



集団的ないじめもまた、やはり先導する「長」がいて、皆自分がいじめのターゲットにされたくないから、長に従うわけだ。



同じですね。











村「十分」ではなく「八分」だというのは、葬式と火事のときだけは村全体で協力し合うからだ、と云われていますが、これは後世に作られた話で、八分とは「はじく」つまり「排除」するという意味で、実際には葬式だろうが火事だろうが協力はなかった、完全に弾かれていたというのが実態のようです。


こうしたことは、親戚縁者などの間でもしばしば見受けられますね。

親戚縁者も、一つの共同体ですから。



現代において、果たしてこの「村八分」は根絶されたのでしょうか?


いいえ、そんなことはありません。というか、


「あり得ません」というべきか。









学校や会社のような小さな共同体ではしばしば、集団的「いじめ」というべき現象が発生します。



特定の人物を集団で排除し、ときに攻撃を加える。この「いじめ」に参加している人たちのなかには必ずしも積極的に参加しているわけではない人もます。そういう人たちはこの集団的いじめに参加することによって、共同体の中での自分の所在位置を確保しようとしているわけです。

その共同体のなかで生き残っていくために。


共同体の中、あるいは外でもいいですが、共通の「敵」を作り、その敵を皆と一緒になって排除、攻撃するという行為は、自分がその共同体の一員であろうとする欲求を満足させるのに十二分な要素を持っています。ですから、いじめや差別、村落的規模で云う村八分に積極的に参加することで、その欲求を満たそうとする人たちもでてくるわけです。



もちろんこれにはそれぞれの共同体、あるいは個人によって大きな差があります。みんな一律にこうだというわけじゃない。


しかし現実にこうしたいじめや差別は未だになくならず、一定の規模で残り続けている。学校や会社がそうなのですから、これが村落共同体や民区などの小規模自治体などで撲滅された、などとは、


あり得ない、と申せましょう。




ネット上では、現代に残る村八分の実態報告などが散見され、どこまでホントかはわからないものの、未だ村八分が行われている共同体が存在するということは事実でしょう。


これが社会の実態です。そういう意味では嫌な世の中ですが、


その社会の中で我々は生きていかなけりゃなりません。



いつかそうしたことがなくなることを夢見つつ


しなやかに、したたかに



生きていくしかない。


唇に微笑みを、心に感謝を持って。














♪土手の柳は風まかせ~♪

高田浩吉『大江戸出世子唄』






※おことわり

ブログ開設時より公言している通り、私は政治と恋愛の話はしないし、人生相談は一切行いません。そのようなコメントはどうか他所でお願いいたします。

また、「あなたの夢はなんですか?」などの個人的な質問もNGです。その点一つ、どうかよろしく。

転び

2018-11-04 10:04:01 | 歴史・民俗






江戸時代、特に3代将軍家光の治世には、キリスト教に対する弾圧は過酷を極めていました。


キリスト教徒、いわゆる「キリシタン」を改宗させるため、かなり残酷な拷問が行われた。その中の一つに「俵責め」と云われるものがあります。


人間を俵に押し込め、首だけを出させてこれを蹴り飛ばし、転がし、あるいは鞭を打つなどの責め苦を与えるものです。これに耐えられず俵から転がり出て棄教してしまう。


キリシタンであることを棄てた者たちを「転びキリシタン」というのは、この拷問からきている、とも云われているようです。



人間というものは、一定の条件さえそろえば、案外平気で、他人に対して残酷な仕打ちができるもの、なのかもしれないね。



それは日本人だからとかそうでないとか、〇〇人だからということではなく、人間すべて、

あなたにも、私にも



すべての人間に、ある意味「平等」に与えられた資質なのだと、私は思う。


それを表に出すも出さないも、自分次第。






さて、



キリスト教を棄教した者のなかには、日本にキリスト教を布教するためにやってきた、ポルトガル人などの外国人宣教師もおりました。このものたちのことは特に、「転びバテレン」と呼んでいたようです。


この転びバテレンのなかで有名な人物に、クリストヴァン・フェレイラという人物がおります。


日本名沢野忠庵。棄教後は宗門改方の顧問となり、隠れキリシタンを摘発する側に回った。後にはキリスト教を否定する内容の書物を出版もしている人物ですが、その胸の内は、


本当はどのような想いだったのでしょうね。


SF作家・平井和正の小説『新・幻魔大戦』ではクリストファー・フェレイラという名前で登場し、キリスト教を憎み、悪魔主義者となって黒ミサなどの黒魔術を使う人物として描かれておりますが、果たして本物はどうであったのか。


遠藤周作氏の小説『沈黙』では、また違う視点から描かれているようですが、こちらは実際にお読みになった方がよろしいでしょう。この作品はマーティン・スコセッシ監督により数年前に映画化もされております。興味がおありの方は御覧になればよろしい。



自分の命とも思い、信じていたものを棄て、それを裏切る形で、まったく逆のことをしなければならない。その心の内とはどのようなものか、私なぞには到底想像もつきませんが、


なにやらとても、


やるせない、気が致します。







『眠狂四郎』




転びバテレンが黒ミサの儀式において大目付の娘に身籠らせた子。

それが、眠狂四郎。


人の愛も情も棄て、およそあらゆる人の幸せに背を向けて生きる男。

それが、眠狂四郎。


柴田錬三郎原作による、ニヒリズムにダンディズム、エロティシズムが交錯するハードボイルド時代劇。

それが、『眠狂四郎』



現在、時代劇専門チャンネルにおいて、懐かしの田村正和版『眠狂四郎』が絶賛放映中です。


眠狂四郎といえば市川雷蔵というのが一般的かも知れませんが、私が生まれて初めてみた眠狂四郎は田村正和が演じているドラマでした。ですから私にとっては正和版の眠狂四郎の方が馴染み深い。

田村正和の妖艶といって良い色気には、さすがの本家・雷蔵先生も敵わないと思います。田村正和版『眠狂四郎』良いですよ~。



その「円月殺法」に魅せられるが良い。