荻野洋一 映画等覚書ブログ

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扶余(プヨ)の白馬江(ペンマガン)

2008-07-13 01:36:00 | 味覚
 韓国・忠清南道のプヨ(扶余)という名の町まで足を運んでみた。

 三国時代の百済(ペッチェ 和語ではくだら)が、最後に都を置いた土地で、西暦660年にこの地で、新羅・唐連合軍に滅ぼされている。古都といっても、奈良・京都以前のヤマト王権の首都と同じ運命を辿り、写真のごとく白馬江(ペンマガン)という大河が悠然と流れるばかりの、まったくの田舎町となっている。この鬱蒼たる自然の摂理に、月並みながら、人の世の栄枯盛衰があからさまに見えて感慨に耽るばかりであった。
 百済が滅ぼされたとき、太子(最後の王の遺児)は、倭国の都・飛鳥に在住していた。太子は、倭の最高権力者・中大兄皇子をけしかけ、百済再興の夢を倭国の軍勢に懸けた。
 663年、中大兄皇子らは姉妹国ともいえる百済を全面的にバックアップし、朝鮮半島に大船団を派遣したが、新羅・唐連合軍の前にあえなく大敗を喫した。唐の記録によれば、白馬江の水は倭人たちの血液で、河口にいたるまで真っ赤に染まったのだという。
 倭の水軍は残った船で、亡命を希望する大勢の百済人を乗せて退却した。いわゆる「白村江(はくすきのえ)の戦い」である。つまり、白馬江(ペンマガン)とは、白村江(はくすきのえ)のことなのだ。


P.S.
 2000年頃にあれは仕事でではあったが、蔚山、釜山を訪れている。これら慶尚道に属する地域は、かつての新羅の故地である。今回こうして、扶余、公州という百済の故地を訪れることによって、三国時代のうち2つを訪ねることができたことになる。もちろん、高句麗に当たる地域は、現在の朝鮮民主主義人民共和国の全域と、中国東北部の一部を形成しているが、気軽に行ける地域ではない。
 韓国ではいろいろと本やCDなどを買いまくるぞ、と意気込んでいたのだが、意外と時間がなく、帰国当日の午前中に光化門駅前の「教保文庫」(韓国版WAVE or Fnac)に立ち寄ったのみだった。本を選ぶには時間がなさ過ぎ、CDを3枚ほど購入したのみ。でも扶余では『百済の美』という写真集を、そしてソウル中央博では、秋史(金正喜)の430ページにおよぶ大部の書画集を購入。特に後者はお宝です。


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