荻野洋一 映画等覚書ブログ

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酒井抱一 生誕250年

2011-11-11 00:40:53 | アート
 昨年の夏、明石町から築地のあたりを歩き回り、本願寺にある、江戸後期の絵師・酒井抱一(さかいほういつ 1761-1829)の墓に手を合わせた。その時のことは数日後の記事に書いたのだが、抱一は生誕250年を迎えるようだから、大規模なレトロスペクティヴがあってもいいのではないか、と小さな声で主張しておいた。そんな小さな声のこだまがあちこちから集積し、形となってあらわれたのが、千葉市美術館が今回やってくれた “史上最大規模の” 抱一展ということになるのではないか。 Viva Chiba! である。

 酒井抱一の最大の不幸は単に、画家としての絢爛たる才能に見合う評価が、長らく与えられてこなかった点に尽きる。聞けば、抱一をもって嚆矢とする「江戸琳派」の系譜がはるか近現代にまで綿々と受け継がれてきたにもかかわらず、始祖・抱一に対する近代的視点に基づく評価がようやく始まったのは、1980年代にすぎないらしいのだ。いま、私の目前で圧倒的力量を証明してみせる諸作を眺めながら、芸術に対する評価というもののいい加減さ、無力、怠慢にただただ呆れるばかりである。もちろん私自身もまた、かかる評論子の端くれとして、現在どこかにある作家/作品の真の力量を見抜けずに、いい加減な批評眼を思う存分に発揮してしまっているのかもしれない。

 話を「不幸」で進めてしまったが、酒井抱一という人はおそらく世界アート史上もっとも「不幸」とは無縁の、恵まれた環境に生まれ育ち、満悦の境地の中で死んだ人物である。姫路藩主・酒井家の二男として江戸の屋敷別邸で生まれ、跡取りである兄の慈愛に満ちた後見のもとで芸文三昧、放蕩三昧の青春期を過ごし、彼にあてがわれた家来のうち何人かは、自身の芸文の弟子とした。かといって藩政の責任からも無縁で、なんと地元・姫路に帰ったのは、生涯で1回のみというランティエぶりだったのである。
 吉原の色里では上客として遇され、風流洒脱の粋を尽くし、江戸市中の一流の人士とつき合ったなかで培われたものが、筆先からほとばしり出ている。彼はまず狂歌師として市中に名を轟かせたが、そのペンネームはじつに「尻焼猿人」(しりやけのさるんど)というふざけたものであった。遊興の境地から、やがて芸術的自覚に向かった彼は、尾形光琳没後100年にあたる文化12年(1815)に光琳百回忌を主催したばかりか、『光琳百図』などの縮小版図録を出版し、偉大な先達にオマージュを捧げるとともに、みずからを琳派の正統的な継承者として主張したのである。

 狂いながら醒める。この生きざまは、私のような凡人には一生理解できない境地だ。たしか亀田鵬斎の本だったか、どこかの展示物のなかだったか、浅草観音裏にあった江戸第一の料亭「八百善」で、抱一と友人の亀田鵬斎、大田南畝が宴席を囲んでいる絵を見たことがある。芸妓が1人か2人ついていただろうか。大酒飲みの鵬斎と南畝が酩酊しきっているのは目に見えてわかるが、抱一は窓際の席でちまちまと料理を頬ばることに集中している。つまり、抱一は下戸だったのである。大酒飲みの風流人と多くの時間を過ごしながら、研ぎ澄ませていったものの実態を、作品のきらめきから発見できることは、千葉市美術館のスマッシュヒットたる本企画が与えてくれた、われわれ現代人にもたらされた幸福と誉れである。


《生誕250年記念展 酒井抱一と江戸琳派の全貌》展は、千葉市美術館(千葉・中央区)で11月13日(日)まで
その後、2012年4月より細見美術館(京都・左京区)に巡回
http://www.ccma-net.jp/


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