荻野洋一 映画等覚書ブログ

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呉昌碩について

2011-11-05 06:16:05 | アート
 清末民初に書・画・印の分野で妙腕をふるい、清300年の掉尾を飾ると評される呉昌碩(ご・しょうせき/ウー・チャンシー 1844-1927)の企画展示が、東京・台東区の2つの会場で開催されているので、その両方をハシゴした。

 呉昌碩は17歳のときに太平天国の乱に巻き込まれ、一家離散の憂き目に遭い、婚約者の命も乱の渦中で失っている。20代には農村の日雇い仕事で生計を立てるかたわら、勉学にのぞむ不遇の日々を過ごした。
 こういう半生をみると、代々読書人を輩出する家系にあった彼の若き鬱屈の日々に、ついつい貴種流離譚の枠をはめたくなってしまうのが、人情というものではないだろうか? かくいう私も、生来の品性が卑しいせいか、この手の貴種流離譚には目がなく、訳もなくシンパシーを抱いてしまう口なのであるが、呉昌碩はそれで終わらないからこそ、没後80年余を過ぎたいまも、その名声はいよいよ興隆し、不滅の批評に耐えているのであろう。六人部克典は「成人にいたる多感な時期に経験したこの苦難と貧困の日々こそが、(…中略…)形式に拘泥することのない柔軟な制作態度と想像力をもたらした」と述べている。
 呉昌碩の書・画・印には貴族的な流麗さではなく、不器用なまでの実直さの中に端正さ、気品がこもっている。呉の作品を高額ギャランティで注文することが「立身のステイタス」であると勘違いする向きが、近代日本の財界人・文化人に蔓延したにはしたのだが、それもいまは昔の話である。辛亥革命後はすっかり巨匠と位置づけれられた呉は、そうしたスノビズムの時代性に黙々と応えつづけ、作品制作に晩年の時間を当てたという。逆にいまの日本の財界人どもに、呉昌碩のすばらしさがわかる目玉の持ち主が、どれほどいるというのか。まぁ財界人どもには、よくて戦国武将の歴史小説が関の山だろう。
 呉はまた、世界の美と憧憬の中心でありつづける篆刻の中心的な展示・研究機関「西泠印社」(浙江省杭州市)の初代社長でもあるのだが、今回こうしてまとめて彼の作品群に触れる機会をもったことは、わが生涯の思い出となるだろう。そして私は今後も、生きているかぎりは何度も呉昌碩の作品と再会することになるだろう。

P.S.
 ハシゴの途中で、鶯谷と上野の中間にある著名な珈琲専門店「K」に立ち寄ったのだが、これがなんともはや。うまいことはうまいが、ずいぶんと胃の上部あたりに負担のかかる代物である。本当に東京という街には、いろいろな店がいろいろと、いいも悪いもこだわって見せているものである。この混淆が健在であるかぎり、私はこのメガトン都市を愛おしく思うことができる。


※写真は、絵画作品『墨葡萄図』(1902)の一部
両会場共に11月6日(日)まで
http://www.taitocity.net/taito/shodou/
http://www.tnm.jp/


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