さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

感受性の変化

2008-02-29 21:52:30 | 

小学館から発行されている「My First Big」という、主にコンビニエンスストアで販売されている廉価版漫画本があるんですけど、コロコロコミックが30周年を迎えることを記念し、『My First コロコロ伝説』と題して毎月何冊か懐かしの漫画を復刻したものを出してくれています。
で、今日たまたま行ったコンビニに、これまた懐かしいMoo.念平(1963~)先生の名作『あまいぞ!男吾』が売られておりましてね。つい、衝動買いです。
いや、おもしろいですね。あつい、今ではスポーツ漫画ぐらいでしか見られないようなそんなあつさがあります。

前回もいったんですけどね、意外と説教じみた漫画が好きなんですよ。
『美味しんぼ』(雁屋哲・原作、花咲アキラ・作画、小学館)とか、『BARレモン・ハート』(古谷三敏(ファミリー企画))とかね。『味いちもんめ』(あべ善太・原作、倉田よしみ・作画)や『総務部総務課 山口六平太』(林律雄・作、高井研一郎・画)なんかの類です。
どうです、何となく類型が見えてくるでしょう。
ところが、子どもの頃はこういう観念的な漫画が苦手でしてね。
前に、玉井たけし(1960~2004)の漫画が好きだと話をしましたが、そういう手の漫画が大好きだったんです。
「少年」という枠では共通項がある『男吾』と『かっとびランド』ですけど、その内容はかなり違っていました。180度とまでは行きませんが、130度ぐらいのずれはありましたね。
その手の漫画のよさがわかり始めたのが、まぁ高校生ぐらいですかね。
それまでおもしろいものだった漫画が、感動するものへと変化を遂げました。
感動するもの…というよりも、一瞬の笑いを味わうものからストーリーやその妙を楽しむものに変わったのです。

些細な変化でしたが、考えてみれば、感受性が変化するというのはあまりにもでかいことなのではないかと思いますね。
まだまだこれからいろんな漫画に出会うことでしょう。
絵画の表現技法が大きく移り変わってきたように、漫画やメディアの表現も変化(進化、ではありません)していくはずです。
風評に流されず、おもしろいものはおもしろいと言える自分でありたいですね。


今更、アカデミー賞の話。

2008-02-28 21:16:35 | 

CNN.co.jp:辻さん受賞逃す 米アカデミー賞

ロサンゼルス──第80回米アカデミー賞の授賞式が24日、ハリウッドのコダック・シアターで開かれ、「ノーカントリー」が作品賞と監督賞、助演男優賞(ハビエル・バルデム)、脚色賞の最多4部門を制した。

というわけで、今更アカデミー賞の話題です。
浅野忠信(1973~)さんが主演する『モンゴル』(カザフスタン、セルゲイ・ボドロフ監督)、メーキャップ賞にノミネートされていた辻一弘(1969~)さん(『マッド・ファット・ワイフ』、アメリカ、ブライアン・ロビンス監督)は、双方ともに受賞を逃してしまったそうで、残念だとは思いますが、これをまた糧にして名をあげていただきたいですね。
ところで、主演男優賞には缶コーヒーのCMですっかりお馴染みになった名優、トミー・リー・ジョーンズ(1946~)さんがノミネートされておりました。

わたしは英語の能力がありませんし、感受性もさほどある人間ではありませんので、外国の俳優さんの善し悪しはよくわからないのですが、でもジョーンズさんは別格ですね。
日本で言えば大御所さんですか。いや、そんなふうに言ったら怒られますかね。
まぁそれなりの自身とプライドを持って取り組んでいると思うんです。
ところが、わたしは最近、そのジョーンズさんが出ているCMを見ていて、
「これはちょっとやりすぎでないかい?」
と思ってしまいます。
いえ、実際その場にジョーンズさんがいて撮影しているかどうかは知らないんですけど、いくらなんでもひどい扱いだろうと。
「イチキュッパ、イチキュッパ」のときのカチューシャもどうよと思ったんですけど、
「萌え~」
はちょっと行き過ぎではないかとね、思ってしまうんですよ。
ジョーンズさんがまことにプロの演技者であることと寛大な心を持つことに、ちょっと寄りかかりすぎではないかと。
そう思わずにはいられませんね。

実際、ジョーンズさんが日本のCMに宇宙人として出演することをどう思っているのでしょうか。
そのうち、映画のプロモーションで来日するときに、どこぞのテレビ局がこの手のことを訪ねるだろうことを期待しますね。 
…まぁ、映画の話題以外のことを聞くのも、それはそれで失礼千万なんですけど。


KAMONジェネレーターですって。

2008-02-27 20:53:36 | 

gooさんのトップページにおもしろい言葉がおいてありました。
その言葉とは「KAMONジェネレーター」。
日本コカ・コーラのお茶『綾鷹』のホームページに設けられた興味深いコンテンツです。

実際どういったものかはサイトを見てもらうとしまして、家紋について話をしましょう。
わたしは家紋が好きです。これは昔からですね。
盆や彼岸なんかで墓参りに行くと、他の家の墓をのぞいては家紋を見たものでした。
家紋の総数は五千とも、八千とも、あるいは二万以上あるともいわれています。その中でも多少の差はあるようです。
我が家の家紋は「下がり藤」。
実に何の変哲もない下がり藤です。
丸すらない。そんなノーマルな下がり藤です。
まぁ代々受け継がれてきた…とはいっても、近世以前は農民であったろうわたしの家の歴史など、実にたかが知れております。
子ども心に、実につまらんと思ったものでした。だから、他家の家紋が気になったのでしょう。
蝶紋の家とかあったんですけど、いいですよね。
複雑で。見応えがある。
よく見れば藤紋も複雑なんですけどね、やはりありきたりな印象はぬぐえません。

家紋というものは、特に伝統的なものでもなく継承する義務はないようなので、その気になれば一代で家紋を変更することも厭わないようです。
歌舞伎や能、落語などの伝統芸能では受け継いでいかなければいけないようですけども、一般家庭においてはその限りではないと。
では、わたしも変えてみますか。
家族の猛反対にあいそうですけどね。


神戸にいく予定です。

2008-02-26 20:48:16 | 
近々、神戸あたりに遊びに行こうという話になっています。
言い出しっぺはわたしのはずなんですか、ご覧の通りのヘタレ人間のために、実働しているのはブラザーKだったりします。
何の目的で行くのかといいますと、神戸のヒゲ神さまに会いに行きます。
それ以上でも、それ以下でもありません。

神戸といえば、実に見所が多い名所。
街自体が名所。
楽しみですねー。まぁ取りあえずは神戸牛ですねー。
神戸牛は日本三大牛の一つ。
三重の松阪牛、兵庫の神戸牛は不動。残り一つの席を、滋賀の近江牛と山形の米沢牛とで争っております。
近江牛は去年の夏に食べましたので、この旅で神戸牛を食べれば、残りは二つ。

おヒゲ様より、まず神戸牛。
うまい鉄板焼きを食いたいところです。

学ぶことを問う。

2008-02-24 22:49:08 | 

asahi.com:日本史必修化「10年度から試行」-マイタウン神奈川

県議会2月定例会が20日あり、県教育委員会が全国で初めて打ち出した県立高校での「日本史」必修化について、引地孝一教育長は「日本史の必修化で21世紀を切り開く心豊かでたくましい人材の育成に取り組みたい。10年度から試行校で実践、検証していく」と改めて述べた。自民党の田島信二議員の代表質問に答えた。

歴史を学ぶというのは、わたしも大賛成です。
「温故知新」という孔子(前551~前479)の言葉は、あれは真理ですよね。いや、それで徳が備わるかどうかはまた別の話ですが、確かなことです。
しかし、ここで注意すべきことは「学ぶ」とはどういうことか、ということです。

政治家さんたちがいっている「日本史」というのは、きっと近代以降の日本と欧米列強との関わりと、1900年代前半の険悪なアジア情勢、そして戦後の国際関係のことです。
それよりも一段下に"伝統"が来るのではないでしょうか。
ところがどっこい、たぶん今の日本史はそうではない。
流れとしては重要なのでしょうが、結局、直接的に関係がないであろう古代から順を追い勉強し、テストなども近世以前が大体を占めるのではないでしょうか。
わたしなどは高校時代には世界史を専攻してましたが、課程上、日本史も一年だか半期だかやらねばならなかったので、勉強しましたよ。
ただし、はじまったのは幕末からです。
前にも話をした気もするんですけど、幕末から明治、明治から大正、昭和を経て、平成…そう、まさしく今生きているこの現代まで勉強をして、そして折り返して古代へと戻っていったのです。
その学習方法が正しかったのかどうかは別として、わたしは大変その学習順序に驚きましてね。
でも、古代から順を追って勉強するよりは、幾分かは実用的かなとも思いました。
これはつまり、わたしが考える「政治家たちがいう歴史の勉強」だからです。

しかし、実際はそうじゃありません。
日本史では古代からですが、世界史に至っては「猿人」から話が始まります。
一から順を追ってやっていくのです。
なぜかと考えれば、それはきっと受験に必要だからです。
そう、学校の勉強は受験に向けてやっているのであって、社会に出てから役に立つかどうかは二の次なのです。
いや、本当はどうだかわかりませんが、わたしはそう思うんですよ。
政治家の言う歴史が理想だとするならば、受験のための歴史は現実です。まさしく理想と現実。そのギャップといえるでしょう。

わたしは説教くさいというか、メッセージ性の強い漫画が好きでしてね。
とある漫画にこんなことが書いてあったのです。
「なぜ一流と呼ばれる大学に入る人間を、一流と呼ばれる企業が採用するか。それはその人がその大学にはいるためにどれだけ努力し、効率的に計画的に勉強しなければならないかを知っているからだ。企業は、その勤勉さと計画性を欲している」
まったく同じ文ではありませんが、こんな内容のことです。
おお、それはそうだ。
東大とか京大とかは、生半可な努力では合格することはできません。
しかし、なぜそんな苦労をしてまで大学に合格したがるのか。
それは自己実現をしたいから、と考えるのが妥当でしょう。
だけどもその先…その先のことを考えている人がどれぐらいいるでしょうか。
キャリア公務員になって、出世して、それなりのポストに就き、国家運営に携わるような重要な仕事をする。
それはえらいことです。大した夢です。尊敬に値します。
しかし、それを夢見ている人はどれほどいるでしょうか。
大学に合格して、それで終わりになってしまう人がいるのではないでしょうか。

そのとき、受験のための現実の勉強は一気に無意味なものになります。
その人に残ったのは浅はかな、そう実に浅はかな知識と優れて高い学位。そして、ものごとを効率的に、楽ちんに行おうとする意識。
もちろん、一流大学を出て懸命に生きている人もいます。そこはわかります。そういう人がいないと、やはり世の中は回りません。
しかし、今日の問題の多くは結局、そういったことが原因なんだろうと思います。
だから、わたしは思うのです。
勉強なんたるかよりも、まずなぜ学ぶのか。

「勉ルコトヲ強イラレル」ことを「学ブコトヲ問ウ」ことを教えるべきなんだろうと思います。
って、これも漫画からのお借りした言葉なんですけどね。
まったくその通りだと思いますねぇ。


『耳をすませば』に見る「生活」観

2008-02-22 22:08:43 | 

おっと。今調べてみたら、まだ『耳をすませば』(1995年、柊あおい・原作/集英社・二馬力・TNHG)について書いたことがないようです。
今日、金曜ロードショーで放映すると言いますから、いい機会です。
ちょっと書いてみたいと思います。

この映画を好きか嫌いかと問われれば、まぁ、普通ですね。好きでも、嫌いでもない。
というのはどういうことかと言うと、もう少し丁寧に説明しましょう。
一言で言えば、この映画を見ると照れてしまうんですね。
この映画のテーマである「初恋と未来の夢」というものは、その照れてしまうんです。
登場人物たちが純粋だとか、ごく普通とかそうことは関係ないと思います。
ただ、最後のシーンとかね、見ると赤面してしまうんです。
なので、好んで見るものではありません。
好んで見るものではないんですけど、やっているとつい見てしまいます。
そんなぐらいの、好みさかげんです。

わたしがものごとを好きになる理由は、実は自分でもよくわからないことが多いんですけど、この作品に限ってはかなりはっきりとわかっている気がします。
それはどこかというと、「風景の描写」です。
この点において、名高いスタジオ・ジブリの作品の中でも高いレベルにあると思うんです。
ファンタジーでもSFでも、昔でも未来でもない。イマジネーションの世界ではない。
現実の今現在の風景。
現代…といっても、もはや"平成初期"ですか、そういう日本を丹念・緻密に描いているところが、この作品の中でもっとも好きなところなんです。
特に好きなのが、エンド・ロール。
最後の場面、雫と聖司が自転車で坂を駆け下って、そのままエンド・ロールに突入すると思うんですけど、その「坂の一日を描く」という実に地味なエンド・ロールが、わたしは大好きです。
間違いなく、全スタジオ・ジブリ作品中、BEST OF ENDROLLです。
あ、もちろんわたしの中での話ですよ。
このエンドロールを見て、わたしが何を感じたかというと、ずばり「人の生活」です。
「おお、人が生活している」という、実感…というのも変ですね。
言葉では言い表せない。シンプル過ぎて、話すのが難しいんですよね。
そういう当たり前の感覚に襲われたんです。
今まで見てきたどんな作品とも違う。こんなに「人の生活」を意識させられた作品は、ありませんでした。

イギリスの詩人バイロン(1788~1842)の有名な金言があります。
「Fact is stranger than fiction.」
訳せば、「事実は小説よりも奇なり」。
とかく奇怪な事件や奇蹟に用いられがちな金言ですが、わたしはこの言葉はもっと別の意味で解釈します。
「普段の生活」こそが物語の重要なファクターになるのだと思っているのです。
そこにスポットが直射するわけではありませんが、しかし「普段の生活」という背景にこそ、本筋の物語をもっと深くする、小さい物語がたくさん詰まっている。
そんなふうに思うのです。
もっと、「生活」を描ければいいと思います。
そこが書けなければ、むしろおもしろい話は書けないんじゃないかと、そんなふうにさえ思うのです。


HD-DVD撤退の影響

2008-02-21 20:27:05 | 

東芝、HD―DVD生産撤退を発表(朝日新聞) - goo ニュース

東芝は19日、同社が推進してきた次世代DVD規格「HD―DVD」について、レコーダーなど対応する関連機器の開発、生産を停止するとともに、3月末をメドに販売も終了して、事業から撤退すると正式発表した。パソコンやゲーム向けのHD―DVDドライブ(駆動装置)についても、開発や生産、販売をやめる。これにより、次世代DVDの規格争いは、ソニーや松下電器産業などが推す「ブルーレイ・ディスク(BD)」に統一される。

まぁわたしはDVDレコーダーとかそういうものについては全く縁ががありませんで、この記事の内容によって、愕然として「せっかく高いお金を出して買ったのに、どうすんの」みたな状況にはなりません。
わたしがDVDを見ると言ったら、まぁパソコンかプレイステーション2を使うわけなのですが、わたしにはよくわからないのですが、これはあれですか。
ブルーレイになると、プレイステーションとかパソコンでは、DVDは見ることができなくなってしまうんですかね。
そんなの、自分で調べろって話ですね。
…とにかく、今すぐわたしのヘタレ生活にシリアスは影響を与えるわけではないようですので、なりゆきを見守りたいと思います。


江頭2:50について

2008-02-20 20:48:52 | 

ギョーザにぴったり?「えが茶ん」が人気(日刊スポーツ) - goo ニュース

江頭2:50(42)をパッケージにした缶ウーロン茶「えが茶ん」が発売され「キモ面白い」と話題になっている。江頭と間接キスをするようなばかばかしさとホラー感覚がウケており、販売元のアプリスには「これほど清涼感のない清涼飲料も珍しい」「着払いで送ってほしい」などの声が多数寄せられている。

わたしは江頭2:50(1965~)さんが嫌いではありません。
まぁわたしの一連の文章を読んでもらえれば、その資質と近からず遠からずというところがお分かりになるのではないかと思います。
テレビなんか見ていても、江頭さんの無茶のしようで大笑いすることもしばしばです。
テレビ朝日系の「『ぷっ』すま」が、まぁ不定期ではありますが、江頭さんの活躍を見ることができる貴重な場のわけですが、これがまたどんなシチュエーションでも笑えてしまいます。
「1クールのレギュラーよりも、1回の伝説」をモットーしているということですが、ここで身体を大切に…などとは言えませんので、命を落とさぬ程度に伝説を築いていってほしいところですね。


リヤカーマンに見る「やりたいことを、やる」ということ

2008-02-19 21:24:01 | 

そうそう、この間から「リヤカーマン」の話をしようと思っていて、すっかり忘れていました。
「リヤカーマン」というのは、ドテラマンとかあげだマンとかの、そういうコミカルヒーローの類ではありません。ましてや、「アフターマン」(これをモチーフにした歌が、みんなのうたにあったんです)なんかの歌の類でもありません。
とある冒険家の二つ名です。

その冒険家とは、永瀬忠志(1956~)さん。
18歳の時から相棒のリヤカーを曳いて世界を歩き、とうとう4万㎞…地球一周分の距離を踏破したという驚くべき人なのです。
2005(平成17)年には植村直己冒険賞を受賞しました。
その賞を受けた人といえば、登山家やセーラーと実に冒険家らしい冒険家。その中で特に異彩を放つのが、リヤカーマン・永瀬さんなのです。

その永瀬さんをわたしが知ったのは、テレビでしたね。
テレビ東京系『リヤカーマンのでっかい地球!大冒険』という番組で見たんです。
その姿がいかに奇妙に映ったことか。
リヤカーを曳くその姿もさることながら、その冒険スタイルも独特といってよいでしょう。
彼の冒険は、一人が常です。相棒はリヤカー…その名も田吾作4号のみ。荷物はすべてそのリヤカーに積み込みます。

リヤカーってのは、実にアナログな代物ですけど、その土地の文化レベルによってはハイテクです。よい言い方をすれば、モダンですか。そんなものではありませんか。
平成ほど新しくはありませんが、江戸ほど古びてもおりません。まさしく明治から昭和にかけてのモダンさの象徴。
ハイテクは環境の過酷さに弱いものですが、アナログは基本が人力ですから、人の手でなんらかの工夫をすることによって、酷な環境を克服し適応することができます。
その点では、リヤカーは冒険の相棒にはもってこいですね。探検家ロアール・アムンセン(1872~1928)の犬ぞりを彷彿とさせます。
しかし、単純なことであるために、そこには扱う人間の地力といいますか、そういったものが大きく作用します。
ただの車輪ですから、でこぼこ道では立ち往生しますし、ぬかるみに足を取られようものなら、ただ力任せにひっぱればよいというものでもありません。
いかに脱出するか。あるいは、もっと以前にどうすれば、その窮地に落ちないかを考えねばなりません。
そういった意味での、地力。地力を問われるわけです。

冒険の途中は、過酷な一日を過ごします
仕事でも何でもないんですよ。ただ、自分の意地のためにのみノルマがあって、もしノルマを過ぎてしまったらそれで冒険は終わりなのです。
その冒険をリタイアしないために、リヤカーマンは必死にノルマ達成を目指します。
そして、日が暮れればその日の終わりには、自分への褒美として缶ビールをあおるのです。
わたしはこんな人間くさい冒険家を見たことがありませんでした。わたしの中で、冒険家といえば「=超人」だったんですけど、これでがらりと印象が変わりましたね。
今まで冒険といえば、何というかそれこそ植村直己(1941~1984)的なものを想像していたのですが、永瀬さんの旅は、本当に挑戦したいからしているんだなぁという風に感じました。
何というか、ジョージ・マロリー(1886~1924)の言葉通りではありませんか。
「つまり、そこに山があるからさ」
という言葉そのもの。
やりたいから、やる。
それは実は相当の覚悟がいります。
社会人になれば、それがよくわかります。高校や大学生のアルバイト程度では、きっと実感できません。
その気持ちを、忘れずに過ごしていきたいですね。


目を開けたまま寝る。

2008-02-17 20:52:30 | 
昨日、美術館にでもいってこようかなんて話をしたんですけど、結局いきませんでした。
まぁ誰にも迷惑をかけるようなことではないんで、別にいいと思うんですけどね。

ところで、今日は昼間にご飯を食べたら、鬼のように眠くなりましてね。
いすに座りながら、うとうとしておりました。
結構、無理な体勢だったんですけど、30分ほど寝入ってしまいました。
起きたあと、体重がかかっていた左腕がびりびりと痺れておりました。

わたしは眠かったら寝ろという考えの持ち主なのですが、仕事をしているとそうは行きません。
ここで眠らぬようにがんばろうというような性格のわたしではないので、どうにかして一分でも寝て気分をリフレッシュさせようとします。
そこで時々、何とか目を開けたまま寝られないものかと目を開けたまま寝よう試みます。
まぁ、目を開けた状態でそうそう寝られるはずもないのですが、この技を習得できたらどれだけ楽だろうかと思って、たまに試すのです。
すると、たびたび行うことで、最近は10秒ぐらいはうとうとできるようになりました。
もう強烈に眠いときには、たった10秒の眠りでもかなり回復できます。
回復したらその間に、コーヒーを飲むなりお茶を飲むなりして目を覚ますのです。

眠りといえば、わたしは「ほぼ日刊イトイ新聞」の読者なのですが、今「ほぼ日の睡眠論。」という興味深いコンテンツを展開してくれております。
その中でも、特に明石家さんま(1955~)さんとの対談はとてもおもしろかったですね。
近々見られなくなってしまうようですので、ぜひ見ていただきたいと思います。