さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

ヘタレな携帯電話。

2007-09-30 22:24:32 | 
わたしはどうやら、他の人と比べて携帯に依存心が強いようです。
今のところ、1年から1年半で一台は機種変や新規にしているようです。
そして、今日も前の携帯から1年が経ったので、別会社に乗り換えてきました。

ああ、なんていうヘタレ。
ヘタレにもほどがある。
なぜ、このタイミングで…。

と後悔してしまいます。
携帯キャリアを乗り換えるというのが、いかに不快なものであるかは身を以て知っているのですが、慣れませんねぇ。
まぁそれも、三日もたてば馴染んでしまうんですけどね。

51.Cuba

2007-09-29 23:02:59 | 『万国巡覧記』

キューバ共和国
(Republic of Cuba)


1.面 積  110,922平方キロメートル(本州の約半分)
2.人 口  1,124万人(2006年国家統計局)
3.首 都  ハバナ
4.民 族  ヨーロッパ系25%、混血50%、アフリカ系25%(推定)
5.言 語  スペイン語
6.宗 教  宗教は原則として自由
7.主要産業 観光業、医療サービス、農業(砂糖、煙草、柑橘類)、鉱業(ニッケル)、水産業
8.GDP 44,064百万ペソ(2006年国家統計局)
9.一人当たりGDP 3,483ペソ(2006年国家統計局)
10.通貨・為替レート キューバ・ペソ及び兌換ペソ、1兌換ペソ=1.08米ドル(公式レート)=約24キューバ・ペソ(実勢レート)(2007年6月現在)
11.3文字コード CUB
(外務省HP)

キューバといえば、あまりよいイメージがないのは、わたしがいかにアメリカに感化されているかということでしょうね。

キューバ本島と「青年の島」、そして1600あまりの小島より構成されるキューバは、1492年にイタリア人航海士、クリストファー・コランバス(1451?~1506)によって、欧米人として初めて発見されました。
現地民は、16世紀初めに上陸したスペイン人たちによる使役や疫病によって、早々に絶滅(!!)してしまったらしいですが、スペインと中南米との中継地点という好立地により、キューバは空前の発展を遂げます。
19世紀に、隣島の仏領サン・ドマングがハイチ共和国として独立すると、それまでサン・ドマングが担っていたサトウキビ栽培が、キューバ島へと移り、キューバは一躍世界最大のサトウキビ産地になりました。
その後、葉巻の生産でも大きな利益を得るようになると、キューバに入植してきたスペイン人たちは、本国からの独立を望むようになります。
1868年から独立闘争が始まり、一時の休戦やアメリカの介入(米西戦争、1898)などを挟んで、1902年にようやく独立を為すことができました。
しかし、この独立は、厳密に言えば支配国がスペインからアメリカに切り替わっただけの、上っ面だけの独立でした。
国内に米国基地が設置され、資本的にもアメリカ企業に支配されているような感じでしたから、当然のように反米感情が悪化し、国内反乱が起きます。
独立間際で、まだ脆弱な政治体制だったキューバ政府に鎮圧する力はなく、皮肉にもアメリカの介入を許すことになったのです。
1929年の世界恐慌を機にして、さらに親米路線をとるようになりましたが、一方アメリカの方では、カリブ海諸国とのつきあい方の再考を迫られ、じょじょに距離を取るようになります。
1952年、フルヘンシオ・バティスタ(1901~1973)がクーデターで政権を奪取すると、キューバのアメリカ支配は最高潮に達したと言います。
そこで登場したのが、だれあろうフィデル・カストロ(1973~)と、アルゼンチンの医師だったチェ・ゲバラ(1928~1967)でした。
カストロは、バティスタ政権下では政治犯として収監され、その後にメキシコに亡命していました。
1959年、カストロは2年に及ぶゲリラ戦の末、とうとうバティスタを国外に追い出すことに成功。
ここに、キューバ革命がなったのでした。
その後は、反米親ソ路線を歩みます。1962年には、世に名高いキューバ危機などを起こすなど、緊張は依然として高いままです。
反面、アメリカから長年経済制裁を受けており、生活は困窮していると言います。また、隣国アメリカへの亡命者も増えているようです。

キューバといえば、見所が多い、実に文化豊かな国という印象です。
例えば、ラテン音楽の中枢ですね。
名高いのは、名ギタリスト、ライ・クーダー(1947~)の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」。
それから、ラテン音楽の代表格・マンボですね。
しかし、わたしにとってはキューバといえば野球の、“超”がつくほどの強豪国。
1992年のバルセロナ五輪では、決勝戦で日本を粉砕。金メダルを獲得。
96年のアトランタ五輪でも金メダルを取りますが、2000年のシドニー五輪では、史上初めてオランダに敗北。決勝戦では、アメリカに敗れて銀メダルに終わりました。
2004年アテネ五輪では、予選リーグで日本に負けたものの、金メダルを奪取しました。
記憶に新しいワールド・ベースボール・クラシック(2006)では、決勝で日本に破れはしましたが、立派な準優勝を飾ることができました。
一時期は、敵対国アメリカでの開催ということだったので、キューバの出場も危ぶまれましたが、キューバの出場しない野球版ワールドカップなんての、いうなればサッカーでいうブラジルとかイタリアが出ないようなもんですからね。
関係もないのに、けっこうやきもきしたのを覚えています。
『実況パワフルプロ野球11超決定版』(コナミ)のサクセスモードでは、世界の強豪国と戦う「全日本編」が追加されているのですが、その中でも強豪として立ちはだかるのは、やはりアメリカとキューバでした。

そんな野球が、2012年ロンドン五輪の競技から除外されると言うことで、ひじょうに残念ですね。
とはいえ、キューバは野球だけが強いわけではありません。
ボクシングやバレーボールなどは、世界屈指の実力を持っています。
日本だって、この間の世界柔道は残念でしたが、柔道や水泳など注目の競技がありますから、これに悲観せずに、まずは野球人気の向上に目を向けて欲しいと思います。


富士と八ヶ岳(5)

2007-09-28 21:43:20 | 民話ものがたり
そのころだった。
富士の麓の樹海では、富士のただならぬ気配に動物や鳥たちが、一斉に逃げ出していた。普段は蒼く静かな富士なのだが、ごごごという凄まじい地響きと揺れによって斜面からは岩石が転がり落ち、地は大きくひび割れて木や草を飲み込んだ。
富士を見あげれば、頂上に据えられた竹の樋から水が流れだしている。あたかも、額から血が伝っているかのように、富士の斜面を流れていく。
この流れ出した水が、どういう結果を導いているのかは、富士にも分かっていた。
富士は、八ヶ岳よりも低いということだった。

一方、八ヶ岳の方では、そろそろ流れる水が届く頃ではないのかとやきもきしていた。
いまかいまかと待ちかまえていた。
当然なのだが、樋の水の行方を八ヶ岳は見ることができないのである。たかだか背くらべなのだが、しかし挑戦してしまったというメンツがある。
どきどきしながら待っていると、甲府盆地の方から一羽のかわせみが飛んできた。
何かを騒ぎながら、飛んでくる。なんだなんだと、八ヶ岳と周囲のものたちは耳を傾けた。
「八ヶ岳さまー! 八ヶ岳さまの勝ちでーす」
それは、八ヶ岳の勝利を告げる伝令であった。
一同から、「おお」とどよめきが起こった。
「勝ちじゃ。八ヶ岳どのの勝ちじゃ」
「はは、富士のやろうめ。ざまぁみやがれだ」
と歓喜と富士への怒号、八ヶ岳への賞賛の声が入り乱れ、富士の麓の様子とは大きく違った騒ぎとなった。
当の八ヶ岳も、思いがけない勝利に我を忘れて喜んでいた。
しかし。そんな中でも、妹の蓼科だけはまだ緊張を保ったままだった。

と、そのときだった。
突然、富士の方から「おおおーっ」と雄叫びが聞こえたかと思うと、八ヶ岳の頂きに乗っていた竹の樋がはるか上空に持ち上がり、がつんと振り下ろされた。
みな突然のことに驚き、声を出すこともできない。
八ヶ岳の悲鳴だけがこだまする。
それまできれいだった八ヶ岳の頭頂部は砕け、かけらや岩石が周囲に飛び散る。
怒りに我を忘れた富士が、竹の樋を振り回して、八ヶ岳を叩きつけ始めたのだ。
再び雄叫びが上がり、樋が振り上げられ、今度は八ヶ岳の横っ面をしこたまに打ち付けた。
八ヶ岳はこの時点で気を失なってしまった。
三回目の雄叫びが聞こえたときに、ようやく我に返った周囲の山や川が大騒ぎして、鳳凰山に異常を知らせた。
驚いた鳳凰山だったが、どうしようもなかった。とにかく富士に落ち着くようにいうしかなく、しかし富士は落ち着く素振りをみせなかった。
甲斐の山々は、ただ恐ろしい光景を、固唾を呑んで見ているしかなかった。誰にも止めることはできなかった。

結局、ばきばきと4、5回叩きつけて、竹の樋が折れるまで、富士の制裁は続いた。
八ヶ岳はぼろぼろに叩かれ、蓼科はその有様に「ああ…あんまりです…」と顔を覆って、足下に涙溜まりができるほど泣いたのだった。
時が経って、富士も我に返ると、自分がしたことの重大さに気が付き、ただただ平謝りに謝った。それっきり、富士はすっかりおとなしくなり、今のように黙り込んでしまった。
一方、八ヶ岳は自分の頭が八つに割れてしまったこと、そして叩かれたせいでその背丈が富士よりも低くなってしまったことに気が付くと、愕然としてしまった。
そして、ようやく両親の涙のわけを理解したのだった。
「えらい目にあった。もう下手なことには口を出さんでいよう…かなわん」
と肝に銘じた。
それから、蓼科の流した涙溜まりはいつまで経っても干上がることなく、今でも残っている。人が「諏訪湖」と呼ぶ湖が、それだ。

<終>

ツンデレボイス機能付きワンセグテレビ

2007-09-27 21:42:38 | 

今、世の中がどういう流行なのかは、わたしにはとうてい及びもつかぬ事で、わたし自身も流行を追い求めるような質ではありませんから、まあひと言で「興味がない」ということになります。
なので、「これが今の流行なの?」と考え込んでしまうものやことがあります。

明日、9月28日にタカラトミーさんから、こんな商品が発売されます。
ワンセグTV SEGNITY(セグニティ)』です。

まぁ…ワンセグが今のトレンドであるということは疑いようのない事実です。
わたしは、携帯のテレビ機能はまったくいらないのですが、数々の携帯電話に付加されていることを考えれば、多くの人の支持を得ているのでしょう。
携帯のテレビ機能ですらいらないのに、持ち運び可能なテレビなど、もっといらない人間なのですが。
まぁそれはどうでもいいのですが、このワンセグテレビの大きな特長で、(たぶん)売りらしいのが、「ツンデレボイス機能」だそうです。
なんだか分かりませんが、一種のナビゲーションで、その声がツンデレ風女性の声らしい。
ツンデレってのは、外面ではいがみ合っており、いざ二人きりになると急に塩らしくなってしまうという、アレでしょう。
えー…と、ツンデレってのはそんなに流行っているんですかい?
一時、メイド喫茶ならぬ「ツンデレ喫茶」なるものがあるなんて話がありましたが、あれもどうかと思いましたし…。

いえ、まぁ、世の中いろんな性癖がありますし、わたしもおかしな性癖の持ち主ですので、とやかく言える立場ではないのですが…でも、これは採算がとれるんでしょうかね。
金がすべてではないというのは、重々承知していますが、でもそれは何かでかいことをやるときでしょう?
ワンセグテレビに「ツンデレボイス機能」が着いたことが、その世界で革新的に変化するのでしょうか。
疑問はつきませんが、これで「ワンセグ・キャラボイス」が一躍、世の流行になったりしたら大変ですので、これがどれぐらい売れるのか楽しみだなぁ。ということにしておきたいと思います。


キャラが立つったって。

2007-09-26 20:51:16 | 

また変な質問ですよ。
いえ、質問自体は至ってまともなのですが、前回の安倍首相のときのように、選択肢が困ったことになっています。

「キャラが立っていた」

って。
安倍さんのときよりはまだマシですけどね。
それにしても、これまた不適切な選択肢ですよ。
おかげで、ほら見てくださいよ。
「キャラが立つ」がまたぶっちぎっての1位じゃないですか。

いや、面白いんですけどね。
社会的には、あまりよろしくないんじゃないかなぁと、思いますけどね。


Oh!! ヒゲ様。

2007-09-25 21:13:13 | 
わたしやKや、多治見のSとの共通の友人で、おヒゲ様と崇めている伝説的な人間がいます。
今はどこで生活しているのかも分からない、N氏です。
N氏は、権威や権力どこ吹く風。恐れ知らずの奇行で知られ、わたしたちの間では生ける伝説として広く知られています。
一歩間違えば、傍若無人、残虐卑劣、下劣無比とも受け取られてしまうような行為でも、彼が行うと一躍、伝説と化してしまう。
そんな絶大なるカリスマ性を有しているおヒゲ様は、今どこで何をしていらっしゃるのでしょうか。

音信不通とまでは行っておりませんので、直接本人に尋ねればいいんですけどね。
あぁ、おヒゲ様。おヒゲ様は、どこにいて何をしていらっしゃるのでしょうか。

時と場合を考える。

2007-09-24 22:33:29 | 
最近、気付いたことなのですが、わたしは「ありがとう」って言わないんですよね。
あいさつはしてるんですけどね。改めて、考えてみると、「ありがとう」って言わないんですよ。わたしは。
ひどいやつですね。
でも、「ありがとう」に変わる別の言葉を言っているようです。
それが、「すみません」です。
ことあるごとに、「すみません」っていってますね。
この言葉は、実に便利なんで、だから使ってしまっているんじゃないかと思います。

いろんな意味を含む、この「すみません」という言葉は、使い勝手の良いういやつなのですが、でも、感謝を表す意味では「ありがとう」には遠く及ばない。
というのは、その気持ちがじゅうぶんに伝わるかどうかです。
言葉の神髄は、言葉の使用者の情というものを的確に過不足無く伝えることにあります。
なので、言葉の使用者としては、場面や気持ちに見合った言葉を使い切らなければならないわけですが、わたしにはそれができていないと言うことになりそうです。
これは由々しき事態ですよ。
少なくとも、わたし自身はそう思います。
気持ちがうまく伝えられないんですからね。
人が、人としての意義を見失ってしまうかも知れない。
それぐらい、重大な事態だと思います。

そう思いつつ、また明日からは何となく「時と場合を考えた言葉遣い」を意識していこうと思います。

富士と八ヶ岳(4)

2007-09-22 21:27:35 | 民話ものがたり
勝負を決する日となった。
図らずも、背くらべの主催となってしまった鳳凰山は、富士と八ヶ岳の頭に竹でこしらえた樋を渡した。
富士は「これは何?」と短く問うて、八ヶ岳も不思議そうに樋の先を眺めている。
そこで、うほんと鳳凰山が説明を始めた。
「お二方の頭に乗せたのは、竹でこしらえた長い樋です」
「そんなのは、見れば分かります。この竹の樋を使って、どうやって背の高い低いを決めるのかを聞いているのです」
鳳凰山は、ちょっと富士を見て、やはり嫌なやつだなと思った。それでも平静を装って、話を続けた。
「勝負の方法は簡単。この樋に水を流すのです。そうすれば、水は高い方から低い方へと流れるのが理なので、どちらが高いかは一目瞭然というわけです」
勝負を見守る山々や川や森から、「なるほど、なるほど」とか「うまいことを考えたものだ」という感嘆の声があがった。
一部からは「鳳凰山がそんなうまいこと考えるはずはねぇ。きっと釜無川の入れ知恵に決まっとる」などと、的を射た感想も聞かれた。
鳳凰山はそんな意見は流しつつ、勝負を進める。
「では、双方ともにいんちきはありませんか」
と尋ねると、
「ありません」と八ヶ岳が言えば、
「いんちきなど、必要ありません」と富士が答える。
鳳凰山はまた富士の顔をちらりとにらんで、声を張り上げた。
「では、さっそく水を流したいと思います」
すると、もくもくと雲が湧き、間に位置する盆地に雨を降らせた。みなの耳目が竹の樋に注がれる。激しい雨の中でも、ちゃんと水は高い方から低い方へと流れていっているようだ。
雲の中には稲妻が走り、ばりばりと音を立て、今にも地上に落ちそうになっている。
そんな激しい雷雨の中、どちらに水が流れているかを確認するために、鳳凰山頂に巣を作っている大きなとびが飛んでいく。
単純明快な合図を決めておいてある。
どちらの方向に流れているのかを確認できたら、その合図を送ってくる手はずになっている。
もし、八ヶ岳から富士の方に流れていたら、右回りを。
逆に、富士から八ヶ岳の方に流れていたら、左回りを。
鳳凰山は、固唾を呑んでとびの行方を追っている。とびは、ふらふらとあおられながらも跳び続ける。
雨が激しさを増すにつれて、風も吹いてきた。やがて、ごうごうとうなりを上げるほどになり、雨のしずくが鳳凰山の方にまで飛んでくる。
そのときだった。
「ピーヒョロロロ~」と、雨と雷の轟音にも負けない甲高い鳴き声が聞こえてきた。
みなが、盆地の上空を飛ぶとびを見る。
すると、とびがくるりと輪を描いた。くるりくるりと、右に回って輪を描いた。
「おお」と、一堂が声を上げた。「右だ。右回りだ…」
「ということは…」と鳳凰山はしばし慎重に考え込んでから、「八ヶ岳から富士の方へと流れていると言うことだ」と結論を下した。

「地の物」を教えてください、ですって。

2007-09-21 22:52:18 | 
久しぶりのトラックバック練習板ネタです。
「地の物」って、初めて聞いたのですが、要は地元の特産品とか特有の食べ物であるということでよいのでしょうか。

そうですね。
山梨といえば、やはり、ほうとうですかね。
信玄が考案した陣中食といわれているようですが、実はそれ以前から山梨だけでなく埼玉秩父地方や、群馬県の一部でも食されていたようです。
信玄が考案したというのは、まぁ観光戦略の一つであったというのが本当のところのようです。
ちなみに、わたしはほうとうがあまり好きではありません。
ほうとうとうどんだったら、うどんかなぁと。
うどんとそばだったら、そばかなぁと。
そんな感じですね。

それから、あわびの煮貝ですね。
これこそ、実に山梨という土地が作り出した名産ではないかと思いますね。
ご存知の通り、山梨には海がありません。
なので、塩をはじめとした海産物は静岡の駿河湾や、神奈川の相模湾からの輸送に頼っていたわけです。
静岡から山梨には、大河・富士川が通っており、江戸時代以降、富士川水運が発達したとはいえ、やはり陸路の輸送も重要で、海産物などの生ものを輸送する際には塩漬けにしたりとか、醤油漬けにしたりしていたわけですね。
それで、昔の駿河の商人…仮に、権蔵とします。

その権蔵氏が、焼津で仕入れたあわびを、甲斐の山猿どもに高値で売りつけてやろうと考えました。
ところが、そのまま運んでしまいますと、長旅の間に傷んでしまいます。
そこで、権蔵はそれまでのセオリー通りに、醤油樽の中にあわびを入れて運ぶことにしました。
前に、塩漬けにして運んだら、かぴかぴになってしまって売り物にならなかったことがあったのです。
今度は、そんな失敗はしないようにと考えたのでした。
焼津から富士宮に用があったので、富士宮に途中立ち寄って、精進みちを通って、甲府へと至りました。
海産物問屋の花輪屋へとたどり着くと、持ってきたあわびを醤油樽から取り出しました。
すると、傷んではいないようですし、前に見たいに乾ききってはいないようですが、すっかり醤油を吸ってしまったために、見た目も悪くどす黒く変色してしまっています。
花輪屋は買い取ることを渋りましたが、権蔵はせっかくこんな偏狭な地へとやってきたのだから、何とかしてほしいと粘りました。
そこで、取りあえず食してみようではないかということになり、でっちの貞吉にいって包丁とまな板を持ってこさせ、薄くスライスして食べてみました。
そうしたら、花輪屋はぎょぎょっと目を大きくして、手をがくがくとさせました。
やはり、見た目通りにしょっぱかったのかと思って、失礼を承知で権蔵も食べてみました。
「む…こ、これは…!?」
と、権蔵もやはり、目を丸くしました。
そのおいしさといったら、清水生まれ清水育ちの権蔵でさえも食べたことがないほどのおいしさでした。
それから、あわびは醤油樽に入れて運ぶようになり、「鮑の煮貝」として広く親しまれるようになったということです。

うーん、人に歴史有り、名産品にも歴史ありですね。
えーと…これで、トラックバックのテーマは果たせているのでしょうか?

ぶれない精神

2007-09-20 22:12:48 | 

山梨ってのは、文化的にも政治的にも閉鎖的です。
これはほめ言葉でもなく、けなすものでもありません。わたしがン年間、山梨に住んできての素直な感想です。

まず、四方八方が険しい…実に険しい山々に囲まれています。
山梨という地名の語源も、「山ならし」…つまり、山ばかりの土地を平らにするという意味から来ているという説もあります。
こんな土地ですから、道なんて北に行こうが東に抜けようが、結局は山と山との間の細い道を通ることになります。
古来より甲州街道があり、富士川を利用した水運業も発達したりしました。しかし、中央道が走り、中央線・身延線が延びた現代でも、やはり山梨は便利ではありません。
また、その山のおかげで平地が少なく、斜面ばかり。人が生活を営んでいくためには不便ですね。生活が不便なので、みな生活がよい方に流れて行ってしまいます。
他国から流れてきた人も、結局は定着しません。
また、その険しい山々が気候にも大きく影響を及ぼしています。甲府盆地といえば、日本有数の猛暑地、極寒地。しかも、日照時間は日本で一番長いといわれている地域です。
いかに過酷な土地であるか、おわかりになるかも知れません。
人が生きていくためには、はなはだ不便不親切、不愉快ところであると言えるでしょう。

このような土地に、ごく少ない人数の人たちが住んでいるわけで、だからこそせっかくこの地に生を受けた人たちが、運命共同体として、相互扶助を行ってきたことは当たり前のことなのだと思います。
そして、この貧しい土地に目をかけてくれる人が出てきたら、良しにつけ悪しきにつけ、協力をするというのも、これも当然でしょう。
かつては、武田信玄という戦国最強の武将が生まれたのも、人心掌握が巧みだったからでしょうし、また生来、山梨の生まれだったからでしょう。
山梨の生まれだったから、民の苦労がわかったし、国の弱点もよく把握していたんだろうと思います。
江戸時代では、徳川家一門や縁の深い大名が治めたり、天領だったりしたのは、山梨が戦術上の重要地点だったからです。
ところが、山梨はご覧の土地でしたし、また戦術上重要とはいえ、平和の時代には関係のない話。甲斐と呼ばれた山梨を、実質的に治めたのは甲府勤番と呼ばれる旗本で、彼らは札付きのワルでした。仕置き的に甲斐に左遷されたようなものだったようです。
甲府勤番に任ぜられることを、島流しならぬ「山流し」と言われ恐れられたと言われるほどだったようです。
それだけでも、なんとふびんな土地かがわかります。

ところが、そんな山梨では不思議なことに、びっくりするようなことをやり遂げる人たちが現れます。
例えば、タボン・リーの話にも出てきた「投機界の魔王」の雨宮敬次郎(1846~1911)や、「鉄道王」の根津嘉一郎(1860~1940)、宝塚の生みの親・小林一三(1873~1957)、サンリオの辻信太郎(1927~)さん、ブックオフの坂本孝(1940~)さんなどの実業家が、特に目立つような気がします。
反面、いまいちぴんと来る人がいないのが、政治の世界です。まぁ金丸信(1914~1996)ぐらいでしょうかね。
それから、数は少ないですが、スポーツの世界では、一時代を築くほどの活躍を見せた方々を輩出しました。
プロレスの世界では、「完全無欠のエース」ジャンボ鶴田(1951~2000)。
野球では、日本人初のメジャーリーガー・村上雅則(1944~)さん、「悪太郎」こと堀内恒夫(1948~)さん、「幕張の防波堤」小林雅英(1974~)などですね。
山梨サッカー界では、やはり中田英寿(1977~)さんが不動ですかね。

こういう人たちは、非常に逆境に強いってことなんでしょう。
わたしが考えるに、逆境に強いということは、つまり偏屈なんだろうと思います。
危機を機会に変えるってことですからね。ただ、ポジティブなだけではないと思うのです。
「ふざけんな、やってやろうじゃねぇか」て感じになるわけじゃないですか。
そういう踏ん切りをつける動機ってのは、そりゃ愛する人のためかも知れないし、金のためかも知れない。あるいは、自分の名誉や保身のためかも知れません。
けれども、燃料にするものはそれぞれ違うかも知れませんが、その偏屈心をエンジン代わりにしてパワーに変えていることは同じだと思うんですよね。
よく県民性で、山梨の人間を指す「メチャカモン」の正体は、この偏屈心ではないかと思います。
頑固で、他人を頼るのが嫌いで、だけど変なところで意地を張る。そして、何だかんだとやり遂げてしまう。あるいは、失敗しても失敗と思わないが、相手の失敗には絶対に目をつむらない。
これが、山梨県人の基本的資質ではないかと思います。

こういう気質ができあがって、類型として見られてしまうのも、全部、山のせいなんだろうと思います。
なぜなら、この国ではそれぐらい「我を張って」生きていかなければならなかったんですから。
そして、この国を形作ったのは、間違いなく山梨を取り巻き、あるいは縦横に切り裂く山々なのですから。


…さて、どうしてこんなことを書き始めたのか言えば、こちらの記事を参照してください。

10歳日本人が名門アトレチコ入り(スポーツニッポン) - goo ニュース

この10歳の少年も、なんと山梨県人。
まぁ…わたしは、県民性と呼ばれるものは、三代ぐらい同じ土地に住まないと身につかないのではないかと考えているので、この少年が上記のような気質を持っているかはわかりませんが、それでも逆境に強いことは大事なことです。
偏屈・変人といわれても、自分のスタイルは自分で決めるというぶれない精神を、しっかりと身につけて欲しいですね。