さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

57.Dominican Republic

2009-03-14 20:25:35 | 『万国巡覧記』

ドミニカ共和国
(Dominican Republic)


1.面 積  48,442平方キロメートル(九州に高知県を併せた広さ)
2.人 口  約975万人(2007年:世銀)
3.首 都  サント・ドミンゴ(人口 91.6万人、2002年:国勢調査)
4.言 語  スペイン語
5.民 族  混血73%、ヨーロッパ系16%、アフリカ系11%
5.宗 教  キリスト教(カトリック)
6.主要産業 観光、農業(砂糖)、鉱業(フェロニッケル)、軽工業(フリーゾーンにおける繊維、縫製業)
7.GDP 367億米ドル(2007年:世銀)
8.一人当たりGDP 3,550米ドル(2007年 世銀)
9.通貨・為替レート ペソ、1米ドル=約34ペソ(2008年7月平均)
10.3文字コード DOM
(外務省HP)

前回がドミニカ国だったのですから、次に来るのは当然、ドミニカ共和国です。
ドミニカ国との違いは、植民地時代の支配国がイギリスであるかスペインであるかと。その違いであることは前述の通りです。

歴史もほぼドミニカ国と同じなのですが、現国名は1875年にハイチ条約によって独立が認められた時につけられたそうです。
本当は、この独立時のごたごたも興味深いところなのですが、そこはハイチのためにとっておきましょう。
独立後、しばらく政情不安が続きますが、大きく動いたのは1916年。第一次世界大戦において、ドイツの植民地化を防ぐためにアメリカが軍事介入してきたのです。
となるとですね、当然次に待っているのがクーデターと独裁政治なんです。
いったんは民主制大統領を得ましたが、1930年、ラファエル・トルヒーヨ(1891~1961)がクーデターを起こし、中米でもっとも完成されたといわれる独裁制を敷きます。
なんていっても、まず首都名を自分の名前にするわ、自国最高峰を自分の名前にするわとやりたい放題ですよ。あげく、ドミニカ共和国白人化構想を練り、ドミニカ人を大量虐殺に及びます。
その独裁は、トルヒーヨが暗殺される1961年まで、実に30年にも及びました。
その後も共和と独裁を行ったり来たり。1965年にはドミニカ内戦が勃発するなど、政情不安が続いております。
その裏には、資本主義と社会主義のせめぎ合いがあります。

ドミニカといえば、何と言っても野球。野球が強い国です。
キューバにも引けを取らない、野球強豪国の一つ。
有名どころですと、1998年にマクガイアと熾烈なホームランキング争いをしたサミー・ソーサ(1968~)選手や「史上最高の投手」といわれたペドロ・マルティネス(1971~)選手。年はまちまちですが、本塁打王・打点王・首位打者をそれぞれ獲得しているマニー・ラミレス(1972~)選手など、実にそうそうたる顔ぶれ。
今年のワールドベースボールクラシックでも優勝候補の一角と騒がれましたが、ヨーロッパ屈指の強豪であるオランダに競り負けて、一次ラウンドで姿を消してしまいました。
アメリカ本土に上陸すれば、かなりの活躍をしそうだっただけに残念です。

ところで、ドミニカ共和国にはカープアカデミーというものがあるらしいです。
カープというのは、取りも直さず日本の広島東洋カープのことです。
ドミニカ共和国の潜在的な野球力にいち早く目をつけた広島が、1990年に設立。毎年、何名かが広島に所属しているといいます。
1997年に広島に在籍し、2002年にはニューヨーク・ヤンキースで盗塁王に輝いたアルフォンソ・ソリアーノ(1976~)は、このカープアカデミーの出身だそうです。
入所が適えば、日本に行くにしろアメリカに行くにしろ、プロになれるのかも知れませんので、ドミニカ共和国では登竜門なのでしょう。
意外なところに、日本との関わりがあるものです。


56.Commonwealth of Dominica

2009-02-08 20:57:08 | 『万国巡覧記』

ドミニカ国
(Commonwealth of Dominica)


1.面 積  750平方キロメートル(奄美大島とほぼ同じ)
2.人 口  7.2万人(2006年 世銀)
3.首 都  ロゾー
4.言 語  英語(公用語)、フランス語系パトワ語
5.民 族  アフリカ系、ヨーロッパ系、シリア系、カリブ族
5.宗 教  キリスト教(カトリック、プロテスタント等)等
6.主要産業 農業(バナナ、ココナツ、柑橘類)、観光業、製造業(石鹸等)
7.GNI 287百万ドル(2006年 世銀)
8.一人当たりGNI 3,960ドル(2006年 世銀)
9.通貨・為替レート 東カリブ・ドル(EC$)、1米ドル=2.7EC$(固定相場制)
10.3文字コード DMA
(外務省HP)


世の中に、同じ名前を持つ国はいくつかあります。
例えば、既出のコンゴ。コンゴ共和国とコンゴ民主共和国。
アメリカ領サモアと、その隣にある国としてのサモア。
それから、野球が強いことで有名なドミニカ共和国と、今日紹介するドミニカ国です。
まぁだいたい似たような名前なのに国が違うというのは、これは植民地時代に治めていた国が違うというのが多いのですが、二つのドミニカについても同じです。
ドミニカ共和国は旧スペイン領、ドミニカ国は旧英領で、今でもイギリス連邦の一員です。
ちなみに、英名のCommonwealthは、「連邦」という意味になります。。

ヨーロッパ人が初めて島に上陸したのは、1493年。クリストファー・コランバス一行だったといいますから、カリブ海に浮かぶ諸島の中でも、ごく早い時期だったんですね。
フランスの植民地となったのは、1635年。1763年、イギリスとフランスによる北米植民地戦争の和平条約でありパリ条約が締結されると、イギリス領となります。
独立は1978年ですから、実に200年もの間、イギリスの統治下だったわけですね。
その間、他のカリブ諸国と同様、先住民に対する凄惨な歴史があるわけです。
ドミニカ国は、「カリブの植物園」といわれるほど自然豊かな土地です。

今日は、今までも幾度となく出てきているカリブという言葉。
一般的にカリブといえば、南北アメリカに挟まれ、アメリカ大陸の中央の、細い部分の東側の海やそこに漂う島々のことをいいます。
その由来は、地域に先住していたカリブ族に由来します。
カリブ族というのは、カリブ海に浮かぶ島々に先住民族の包括的な呼び名に過ぎません。
カリブ語を話すインディオという認識でいいと思います。
ちなみに、日本人を言語学的に分類するとアルタイ語とか、オーストロアジア語族などになるようですが、これには。
同様に、カリブ語族インディオであると。
カリブ族といえば、まず思い浮かぶのは戦闘的であるというイメージ。
食人を表すカニバリズムという単語は、カリブが語源だといいますから、どれだけ当時の欧州人が恐れおののいていたことか。
バーベキューやハリケーンも、元はカリブ語だそうです。バーベキューは「丸焼き台」という意味ですし、ハリケーンはカリブの「荒ぶる神」だそうです。
わたしはそのカリブ民族についてはまったくわかりませんので、何とも言えないのですが、カリブの島にたどり着いた欧州人たちにとって、どれほどのカルチャーショックであったかは想像に難くありません。

ちなみに、カリブ族は今や数が少なくなり、絶滅寸前だそうです。北米のインディアンと同様の運命をたどっているわけですね。
もちろん、カリブ族の皆さんも今は欧州的な生活を営んでおられるそうなので、そんな凶暴なイメージなんか、今は昔の話です。


55.Djibouti

2009-01-10 21:09:40 | 『万国巡覧記』

ジブチ共和国
(Republic of Djibouti)


1.面 積  23,200平方キロメートル
2.人 口  80万人(2006年、世銀)
3.首 都  ジブチ
4.言 語  アラビア語、仏語
5.宗 教  イスラム教(94%)
6.主要産業 (運輸)ジブチ鉄道、ジブチ港湾サービス
7.GNI 8億5,660万米ドル(2006年:世銀)
8.一人当たりGNI 1,060米ドル(2006年:世銀)
9.通貨・為替レート ジブチ・フラン(F.D)、1米ドル=177.7ジブチ・フラン(固定レート)
10.3文字コード DJI
(外務省HP)

ジブチと聞いてぴんと来る人は、かなりの地理マニアでしょう。
アフリカの北東、日本でいう鬼門の方角に当たる小さな国です。
もとはフランスの植民地。19世紀末に、スエズ運河の建設に伴って、その地の部族から借り受けたと言います。
ところが、この土地には二つの部族が住んでいました。
すなわち、ソマリア系のイッサ族とエチオピア系のアファル族です。で、まぁ仲が悪いわけですよ。この二つの部族が。
ずーっと戦い合ってきたわけです。20世紀に入って、第二次大戦後も引き続き争いが続き、植民地を養う余裕がなかったフランスとしては、とっとと独立して欲しかったのですが、この争いのためにそうはいかなかったのです。
独立したのは、1977年。イッサ族のグレド(1916~2006)が大統領に就任し、民族融和を訴えましたがうまく行かずに、とうとう1991年に内戦が勃発。1999年に現大統領のゲレ(1947~)が大統領に就任。2001年にようやく内戦の終結が宣言されました。
内戦の終結が宣言されたからといって、それで部族間の争いが収まったかといいますと、そうではないというのが本当のところです。
今のところ、イッサ族の政党の独裁状態にあり、アファル族が政治に介入する余地がないといえます。
スエズ運河に近いジブチ港と鉄道による収入が主だそうです。

ジブチが建設される要因となった、スエズ運河について書きましょう。
スエズ運河が造られるまで、ヨーロッパからアジア方面に抜ける海路は、スペインやポルトガルから南アフリカの喜望峰を周回するのが一般的でした。
植民地政策のおいて他の欧州諸国から出遅れていたフランスは、一計を案じます。
すなわち、最短距離でアジアを結ぶ航路を開発できれば、この遅れを取り戻すことができる。
アフリカの先進国であり、ナポレオンの遠征以来緊密な関係にあったエジプトとともに、スエズ運河の建設に取り組みます。
指揮を執ったのは、フランスの外交官であるフェルナン・ド・レセップス()。工期は1859年から1869年。実に10年の歳月をかけて、完成させました。
動員された人員は150万ともいわれ、コレラの流行などにより多大な犠牲を払いました。しかも、その多くがエジプト人だったといいます。
しかもエジプトの被害はそれだけにとどまらず、莫大な借金さえも背負ってしまうことになります。
結局、エジプトはイギリスにそのスエズ運河株を売却し、スエズ運河は英仏という奇妙な二国の所有となります。
フランスは後手後手に回って、その主権をイギリスに取られてしまいますが、それに脅威を覚えた欧州列強が「スエズ運河の自由航行に関する条約」(1888)を認めさせ、これ以上のイギリスの権力拡大を食い止めます。
第二次大戦後、アスワン・ハイダムの建設のため、経済に窮したエジプトはナセル大統領の時、スエズ運河の国有化を宣言。莫大な利益を稼ぎ出したのでした。
イギリスやフランスなどの西側諸国は、エジプトにさまざまな圧力を加えますが、その独自性を保ち今日に至ります。
1960~70年代には、イスラエルとのアラブ戦争のため運河が閉鎖されるという事態となりましたが、今では通行が可能なようです。

社会の授業で覚えねばならぬ運河は、わずかに二つ。
スエズ運河とパナマ運河です。忘れないように、覚えておきましょう。


54.Denmark

2009-01-04 21:37:32 | 『万国巡覧記』

デンマーク王国
(Kingdom of Denmark)


1.面 積  約4.3万平方キロメートル(九州とほぼ同じ。除フェロー諸島及びグリーンランド)
2.人 口  約543万人(2007年デンマーク統計年鑑)
3.首 都  コペンハーゲン
4.言 語  デンマーク語
5.宗 教  福音ルーテル派(国教)
6.主要産業 農業、畜産業、化学工業、加工業
7.GDP 2,753億ドル(2007年、世銀統計)
8.一人当たりGDP 52,110ドル(2007年、世銀統計)
9.通貨・為替レート デンマーク・クローネ、1クローネ=21.86円(2007年11月)
10.3文字コード DNK(ISO)、DEN(IOC、FIFA)
(外務省HP)

今日はデンマークです。
デンマークといえば、ドイツ北部に位置する北欧諸国の一つです。ノルウェーやスウェーデンと区別がつきにくいところではありますね。
紀元前500年には鉄器が持ち込まれ、ローマ帝国とはまた別の文化圏を形成していたといいますから、歴史は相当なものです。
北欧諸国といえば、代表的なのはデンマークを含めた、スウェーデン・ノルウェーのスカンディナヴィア三国ですが、まぁそういう三ヶ国は仲が悪いというのは相場。日本・朝鮮・中国みたいなもんですよね。
中世に入ると、デンマークはノルウェーと戦争して負け、スウェーデンに戦争を仕掛け、また敗北を喫します。ドイツ三十年戦争に介入し、再びスウェーデンに負ける。
近世では、ヨーロッパ全土を巻き込んだナポレオン戦争では、フランスと同盟を結びますが、結局これが裏目に出て敗戦国となります。挙げ句、ドイツの前身であるプロイセンと戦争をして負けます。
この期に及んで、いよいよデンマークは政経ともに抜き差しならない状態になってしまいます。
デンマーク人は学びました。もはや無茶な戦争に巻き込まれぬよう、おとなしくしていようと。
せめて、すっかり荒廃した領地と経済が立ち直るまで、忍耐の日々を送ろうと。
巧みな外交と持ち前の経済感覚で、見事に国を立て直し、第一次世界大戦では中立を維持。
第二次世界大戦では、ドイツに占領されるものの、自治を認められるなど安定した地位を保つことに成功したのです。
現代に入り、冷戦下ではノルディックバランスと呼ばれる北欧諸国の巧みな政治駆け引きの末、大きな混乱もなく、欧州連合の一員として、そして先進国の一員として、おとなしく過ごしているようです。

さて、デンマークはドイツの北にあります。スカンディナヴィア半島にあるわけでなく、一部はユーラシア大陸と陸続きです。
443の島からなる島国で、首都コペンハーゲンはシェラン島という島にあるそうです。
デンマークといえば、やはりハンス・クリスチャン・アンデルセン()ですね。
アンデルセンが生まれたのは、フュン島のオーデンセ。フュン島はデンマークの中でも比較的大きな島で、オーデンセはデンマーク第三の都市です。
しがない靴屋のせがれとして生まれたアンデルセンは、オペラ歌手を夢見て首都コペンハーゲンへ向かいます。
しかし、ひょろりと背が高く、いかにもひよわで縁起も今ひとつであったアンデルセンの夢は挫折してしまいます。
ところが、アンデルセンには演劇以外の才能がありました。それが文学です。
パトロンを得て、大学進学を果たしたアンデルセンは、ドイツに遊び初の旅行記を書きます。これがスマッシュヒット。
その後、出世作となる『即興詩人』(1835)を著します。この小説の成功で、作家としての地位を確立したアンデルセンでしたが、同年『童話集』を出版。
驚いたことに、当初、この童話集は大変不評だったそうです。新進気鋭の作家が、子ども向けの作品などとは他愛のないことだと。
しかし、アンデルセンの名を永遠の物としたのは、その他愛のない童話でした。
アンデルセンの童話は、同時代のグリム兄弟が伝承文学が中心だったのに対して、アンデルセンのセンスを感じさせる創作童話が中心でした。
北欧らしい、人間の温かみ溢れ、ロマンティシズム一杯の作品が多いですね。
かと思えば、はだかの王様のようなウィットに富んだ作品も多く見られ、アンデルセンのやや屈折した人格が見受けることが出来ます。
そのウィットもまた、彼の芸術的センスを通すと、また違ったものとなるのだから不思議ですね。

日本人にも馴染みの深いアンデルセンの故郷、デンマーク。
個人的には、一度は訪れてみたい土地ではあります。


53.Czech

2007-11-27 22:08:36 | 『万国巡覧記』

チェコ共和国
(Czech Republic)


1.面 積  78,866平方キロメートル(我が国の約5分の1)
2.人 口  1,030.6万人(2007年3月現在)
3.首 都  プラハ
4.民 族  チェコ人94%、その他スロバキア人、ロマ人等(2001年)
5.言 語  チェコ語
6.宗 教  カトリック 26.3%、無信仰 58.3%(2001年)
7.主要産業 機械工業、化学工業、観光業
8.GDP 1,424億米ドル(2006年)
9.一人当たりGDP 13,873米ドル(2006年)
10.通貨・為替レート チェコ・コルナ(Kc)、1ユーロ=28.3コルナ(2006年平均)
11.3文字コード CZE
(外務省HP)

中欧の古国チェコは、実は国が成立してから14年という若い国だったりします。
それ以前は、チェコ・スロバキアという名前だったのが、1993年に分離独立を果たしたのです。
だから、古国とはいえ、若い国なわけですね。

古代にはケルト系先住民であるボイイ人が定住しており、その後、スラブ系のチェック人が流入して、今日の民族を形成しました。
ケルト系ボイイ人の名を取って、この地域をボヘミアと呼んだということです。
ところで、ボヘミアってドイツ語読みで「ベーメン」っていうんですよ。
ベーメンっていったら、わたしの中では「ベーメンのフス」の名で親しまれている宗教家のヤン・フス(1369~1415)なんですが、これを習ったときに「ベーメン」の意味がわからなくてですね。「ベーメン、ベーメンって、ベーメンてどこ?」と怒り狂うぐらいにわからなかったんですよ。
で、ある日、進研ゼミだったんだと思うんですけど、「ベーメン(ボヘミア)」って書いてあったんですよ。「なんだよ、ボヘミアだったのかよ。最初からボヘミアって書けばわかりやすいのに…」とがっかりしたのを覚えています。
教科書って頑なですよね。まぁ国民性を考慮してそういう表記にしているのかも知れませんけど、現場とお役所の大きな差なのかもしれません。
いえ、また話が逸れました。
チェコに国家ができたのは、7世紀。スラブ人によるモラヴィア王国がそれです。
しかし、10世紀になると、のちにハンガリーの原形となるマジャール人が侵入し、滅亡。その後、プシェミツェル朝ボヘミアが成り立ち、この時期に本格的なドイツ文化が流入してきました。
また一時は神聖ローマ皇帝の座すら狙えるぐらいの力を誇りましたが、この時期、急速に力をつけてきたハプスブルク家のルドルフ1世(1218~1291、のちの神聖ローマ皇帝)によって攻められ、それが因で断絶してしまいます。
プシェミツェル朝が滅亡すると、ドイツから派遣された ルクセンブルク家の世襲王が統治し、ルクセンブルク朝となります。
ボヘミア王カレル1世(1316~1378)が、カール1世として神聖ローマ皇帝となると、プラハに大学が建てられるなど文化が高まり、首都プラハはヨーロッパの文化の中心となりました。
フス戦争(1419~1439)が起こったのも、ちょうどルクセンブルク朝の御代でした。
ルクセンブルグ家が断絶すると、今度ボヘミア王の地位に就いたのは、かの名高きハプスブルグ家でした。以後、20世紀までの約600年にわたり、ハプスブルク朝となります。
特に名高いのは、16世紀に現れたルドルフ2世(1552~1612)です。神聖ローマ皇帝をも兼任したこの王が即位したことを受け、プラハは以前にも増して、政治・文化の中心地として繁栄します。
ところが、ルドルフ2世が没すると、欧州最後の宗教戦争・世界最初の国際大戦と形容される三十年戦争(1618~1648)が起きてしまいます。
ボヘミアは、スウェーデン相手に大敗を喫し、領地を激しく蹂躙されます。どれぐらい激しかったかと言えば、4万あった村落が8000まで落ち込んでしまったといいますから、かなりのものです。
またプラハに収蔵されていた美術品もスウェーデンに取られてしまったと言いますから、いや戦争とは実に恐ろしいものですね。
18世紀には、この時期に流行った民族主義は、チェコにも影響を与えます。
スラブ人による汎スラブ主義が唱えられましたが、オーストリア・ハンガリー帝国の成立を契機にして、チェコはじょじょにロシア寄りになっていきます。
またこの時期に起こった産業革命は、中央ヨーロッパのこの地域にも押し寄せ、チェコはヨーロッパ有数の工業地帯となりました。
第一次世界大戦(1914~1918)でオーストリア・ハンガリー帝国が滅びると、スラブ民族によるチェコスロバキア共和国が成立します。第二次世界大戦(1939~1945)中には、一時地図上から姿を消しますが、のちに復活。
その後はソビエト連邦の影響を強く受け、共産主義政権が成立。1960年にはチェコスロバキア社会主義共和国となります。
1968年には、俗に「プラハの春」と呼ばれる改革運動が起こりますが、これはソ連の介入に遭い、中途に終わります。
1989年にビロード革命が起こり、共産主義政権が倒れます。1993年にスロバキアが分離独立を果たし、現在に至ります。ちなみに、EUへの加盟は2004年のことです。
…長くなりました。これもみんな「ベーメン」のせいです。

歴史でも触れましたが、チェコといえば、実に多くの偉大な芸術家を輩出しています。
例えば、作曲家のベドルジフ・スメタナ(1824~1884)、アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904)。
それから、アールヌーヴォーの代表的なデザイナーであるアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)もチェコ地域の出身ですね。
さて、わたしなんかはロボットのアニメや漫画が好きなので、浮かぶのはカレル・チャペック(1890~1938)だったりします。
チャペックは、チェコ語で労働を意味する「robota」という言葉から、ロボットという語を作ったと言います。まぁ『RUR』(1920)を読めば分かるのですが、実際にはスーパーだリアルだというようなものではなく、今の言葉でいえば人造人間とかアンドロイドとかに近いものです。
皮膚はもちろん、内蔵や血管に至るまで本物そっくりに造り、ねじやボルトなどはまったく使っていないようです。ただ意思や感情がなく、命令されたことしたできませんので、そこは現代的なロボットといえそうです。
チャペック自身は、金属だらけの人間型のロボットは不本意だったらしいですから、そこは何とも言えないところですね。
『RUR』の主旨とは変わってしまいますが、わたしが最近の社会問題を見ていて思うのは、やはり労働の問題ですよね。
日本国民の三大義務は、ご存知の通り、教育・勤労・納税。人は働かねば、この国にいることはできません。働かざる者、"住む"べからずなのです。
しかし、まぁわたしなどは半分ニートのようなものですから、こんなことは言える立場ではないのですが、日本人は勤労過ぎるほど勤労だと思います。
働いた者がみな、すべて報われるとは限りません。
そして、成功者もまた、みな働き者とは限らないのが社会の仕組みです。
だから、というのもおかしな話ですが、ちょっと休み休みいきましょう。そして時には、おならでもしてみてはいかがでしょうか。
これが本当の息抜き。なんつって。


52.Cyprus

2007-10-12 22:23:00 | 『万国巡覧記』

キプロス共和国
(Republic of Cyprus)


1.面 積  9,251平方キロメートル(四国の約半分)
2.人 口  約80万人(キプロス政府公式ホームページ)
3.首 都  ニコシア
4.民 族  ギリシャ系(約80.7%)、トルコ系(約11.0%)その他
5.言 語  現代ギリシャ語、トルコ語
6.宗 教  ギリシャ正教、回教
7.主要産業 観光業
8.GDP 65.6億キプロス・ポンド(2003年キプロス中央銀行)
9.一人当たりGDP 9,142キプロス・ポンド(2003年キプロス中央銀行)
10.通貨・為替レート キプロス・ポンド=2.09米ドル(2004年:キプロス財務省)、キプロス・ポンド(C£)
11.3文字コード CYP
(外務省HP)


なんか久しぶりの、西アジアの国家ですね。いや、西アジアっていったら怒られますか。
極東ヨーロッパとでも言いましょうか。
あれ。でもロシアもヨーロッパなら、極東ヨーロッパはロシアでしょうか。
じゃあ、地理的には中央ヨーロッパですか。
トルコの真下にあるのに中央ヨーロッパですか。
なんか違う気もしますが…まぁとにかくEUに加盟してるっていうんですから、ヨーロッパってことで。

キプロスは、地図でその位置を確かめてもらえればわかりますが、ヨーロッパとアジアの中間地点にあり、見た目の通り、交通の要所でした。
それこそ、西アジア一帯がオリエントと呼ばれていた遠い昔の時代から、海運貿易の重要拠点として栄えました。
と同時に、宗教の上ではキリスト教とイスラム教の境界ともなっています。
大きな変化は、19世紀後半。それまでオスマン帝国が支配してきた土地を、イギリスへと統治権を委託されます。
これは、ロシア帝国の不凍港の獲得のための南下政策により、トルコとの間に戦争が起きたことによります。これが、露土戦争(1877)です。
いやぁ、ドラゴンクエストのプロローグに出てくるような、かっちょいい響きですね。
まあ歴とした近代戦のようだったので、非常に凄惨なものだったようですけど。
結果は、ロシア側の勝利。このときに結ばれた講和条約をサン・ステファノ条約(1878)といいます。結果的に、ロシアは念願の不凍港を手に入れることになります。
この戦争は、トルコ以西の民族割拠地域の紛争状態を招き、その解決のために、プロイセンの鉄血宰相・ビスマルクの呼びかけにより、かの名高いベルリン会議(1878)が開かれます。
この会議の目的はいろいろありましたが、一番の目標は出てきたロシアを打つことにありました。
イギリスの猛烈な意見と諸国のプレッシャーにより、ロシア帝国の野望は潰え、西アジアへの南下政策を転換し、今度は東アジアへと目を向けることになります。
この会議で、イギリスとオスマン帝国は条約を結び、キプロス島の租借することになったというわけです。
だいぶ、遠回りをしましたが、そういう経過を辿ったわけですね。
ところが、1914年、第一次世界大戦の勃発を機に、トルコと敵対したイギリスは強制的にキプロス島を併呑。
1960年の独立まで、イギリスの支配下に置かれることになります。
独立とはいっても、その力の原動力になったのは他国への併合を望む一派だったわけで、その後、すぐにギリシャ併合派とトルコ併合派との間で争いが起きます(1974)。
争いは、1983年、トルコ系住民が多くを占める北部が、北キプロス・トルコ共和国として独立するまでになります。
ちなみに、この独立はトルコ以外の国々を認められていません。
しかし、これで紛争が解決するはずもなく、キプロス問題としてトルコのEU加盟の妨げになるなど、今でも続いているわけです。
うーん、根深いですね。でも、EU加盟問題が、問題解決の一因となればよいですね。

さて、ギリシア神話上において、キプロス島は非常に重要な土地です。
何が重要かといえば、美の女神であるアフロディテが最初に降り立った土地が、キプロス島なのです。
そんなキプロスには、古代ギリシャにまつわる遺跡が多く、特に西部の都市パフォス一帯は、世界文化遺産に登録されています。
神話は、別に子ども向けに作られたものではありませんし、人々の信仰心を煽るために作られたような向きもあるため、エロ・グロ・ナンセンスを地で行く生々しい表現が数多あります。
アフロディテの誕生秘話も、その一つですね。

原初神カオスの娘、大地神ガイアは多くの子供を産みました。
そのうちの一人、天空神ウラノスに才能を見出し、自らその妻となりました。
ウラノスは、夜の女神ニュクスを戸張代わりに伴い、毎日のようにガイアとまぐわり、花や木、山や川、鳥や獣のほかに、天には多くの星々をもうけました。
しかし、二人の間に生まれたのは、自然物ばかりではありませんでした。
しかし、やはり近親相姦というのはやはりよくなかったのでしょうか、巨大な身体を持つ無数のティーターンや頭が五十、腕が百本もあるヘカトンケイル、一つ目のキュクロプスなどの、異形の者も多かったのです。
ウラノスは、自分が生ませた異形のものたちを、ギリシア世界のあの世であるタルタロスに突き落とし、その存在をなかったものにしたのです。
その仕業に怒ったのが、誰あろう母であるガイアでした。
ガイアは一番末の息子、クロノスを密かにタルタロスから引き上げ、斧を渡してこう告げました。
「いいかい、クロノス。ウラノスは今日もまた、夜を伴ってわたしの元にやってくるでしょう。そのときです。冥界に落とされた復讐を遂げなさい」
クロノスは、斧を握って静かにうなずきました。
しばらくして、夜の戸張が墜ちると同時に、天空からイチモツをたぎらせながら、ウラノスが降りてきました。
「ヌハハハハハ~」
いざ、まぐわろうとした、その瞬間でした。
「でぃやーはぁ!」
クロノスが、ガイアの陰部から飛び出し、父ウラノスのイチモツを切り落としてしまったのです。
「ぐあぁぁぁっ!」
とのたうち回るウラノス。
クロノスの最大の復讐は、性交に狂った父のペニスを切断し、二度とその愚行をしないようにさせることでした。
こうして、クロノスは復讐を完了し、クロノスは父ウラノスに代わって、神々の王の座に着いたのでした。
一方、切断されたウラノスのペニスは、拍子に海へと落ちてしまいました。
そのとき、ペニスから滴った精液とか、落ちたときにできた水泡が、アフロディテになったと言われています。
で、そのアフロディテが最初に降り立った陸地が、キプロス島ということですね。

いやぁ、たまらんですね。
生きながらにして、性器を切り取られるなんて。こんな痛々しいことはありませんよねー。


51.Cuba

2007-09-29 23:02:59 | 『万国巡覧記』

キューバ共和国
(Republic of Cuba)


1.面 積  110,922平方キロメートル(本州の約半分)
2.人 口  1,124万人(2006年国家統計局)
3.首 都  ハバナ
4.民 族  ヨーロッパ系25%、混血50%、アフリカ系25%(推定)
5.言 語  スペイン語
6.宗 教  宗教は原則として自由
7.主要産業 観光業、医療サービス、農業(砂糖、煙草、柑橘類)、鉱業(ニッケル)、水産業
8.GDP 44,064百万ペソ(2006年国家統計局)
9.一人当たりGDP 3,483ペソ(2006年国家統計局)
10.通貨・為替レート キューバ・ペソ及び兌換ペソ、1兌換ペソ=1.08米ドル(公式レート)=約24キューバ・ペソ(実勢レート)(2007年6月現在)
11.3文字コード CUB
(外務省HP)

キューバといえば、あまりよいイメージがないのは、わたしがいかにアメリカに感化されているかということでしょうね。

キューバ本島と「青年の島」、そして1600あまりの小島より構成されるキューバは、1492年にイタリア人航海士、クリストファー・コランバス(1451?~1506)によって、欧米人として初めて発見されました。
現地民は、16世紀初めに上陸したスペイン人たちによる使役や疫病によって、早々に絶滅(!!)してしまったらしいですが、スペインと中南米との中継地点という好立地により、キューバは空前の発展を遂げます。
19世紀に、隣島の仏領サン・ドマングがハイチ共和国として独立すると、それまでサン・ドマングが担っていたサトウキビ栽培が、キューバ島へと移り、キューバは一躍世界最大のサトウキビ産地になりました。
その後、葉巻の生産でも大きな利益を得るようになると、キューバに入植してきたスペイン人たちは、本国からの独立を望むようになります。
1868年から独立闘争が始まり、一時の休戦やアメリカの介入(米西戦争、1898)などを挟んで、1902年にようやく独立を為すことができました。
しかし、この独立は、厳密に言えば支配国がスペインからアメリカに切り替わっただけの、上っ面だけの独立でした。
国内に米国基地が設置され、資本的にもアメリカ企業に支配されているような感じでしたから、当然のように反米感情が悪化し、国内反乱が起きます。
独立間際で、まだ脆弱な政治体制だったキューバ政府に鎮圧する力はなく、皮肉にもアメリカの介入を許すことになったのです。
1929年の世界恐慌を機にして、さらに親米路線をとるようになりましたが、一方アメリカの方では、カリブ海諸国とのつきあい方の再考を迫られ、じょじょに距離を取るようになります。
1952年、フルヘンシオ・バティスタ(1901~1973)がクーデターで政権を奪取すると、キューバのアメリカ支配は最高潮に達したと言います。
そこで登場したのが、だれあろうフィデル・カストロ(1973~)と、アルゼンチンの医師だったチェ・ゲバラ(1928~1967)でした。
カストロは、バティスタ政権下では政治犯として収監され、その後にメキシコに亡命していました。
1959年、カストロは2年に及ぶゲリラ戦の末、とうとうバティスタを国外に追い出すことに成功。
ここに、キューバ革命がなったのでした。
その後は、反米親ソ路線を歩みます。1962年には、世に名高いキューバ危機などを起こすなど、緊張は依然として高いままです。
反面、アメリカから長年経済制裁を受けており、生活は困窮していると言います。また、隣国アメリカへの亡命者も増えているようです。

キューバといえば、見所が多い、実に文化豊かな国という印象です。
例えば、ラテン音楽の中枢ですね。
名高いのは、名ギタリスト、ライ・クーダー(1947~)の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」。
それから、ラテン音楽の代表格・マンボですね。
しかし、わたしにとってはキューバといえば野球の、“超”がつくほどの強豪国。
1992年のバルセロナ五輪では、決勝戦で日本を粉砕。金メダルを獲得。
96年のアトランタ五輪でも金メダルを取りますが、2000年のシドニー五輪では、史上初めてオランダに敗北。決勝戦では、アメリカに敗れて銀メダルに終わりました。
2004年アテネ五輪では、予選リーグで日本に負けたものの、金メダルを奪取しました。
記憶に新しいワールド・ベースボール・クラシック(2006)では、決勝で日本に破れはしましたが、立派な準優勝を飾ることができました。
一時期は、敵対国アメリカでの開催ということだったので、キューバの出場も危ぶまれましたが、キューバの出場しない野球版ワールドカップなんての、いうなればサッカーでいうブラジルとかイタリアが出ないようなもんですからね。
関係もないのに、けっこうやきもきしたのを覚えています。
『実況パワフルプロ野球11超決定版』(コナミ)のサクセスモードでは、世界の強豪国と戦う「全日本編」が追加されているのですが、その中でも強豪として立ちはだかるのは、やはりアメリカとキューバでした。

そんな野球が、2012年ロンドン五輪の競技から除外されると言うことで、ひじょうに残念ですね。
とはいえ、キューバは野球だけが強いわけではありません。
ボクシングやバレーボールなどは、世界屈指の実力を持っています。
日本だって、この間の世界柔道は残念でしたが、柔道や水泳など注目の競技がありますから、これに悲観せずに、まずは野球人気の向上に目を向けて欲しいと思います。


50.Croatia

2007-09-15 23:25:42 | 『万国巡覧記』

クロアチア共和国
(Republic of Croatia)

1.面 積  56,542平方キロメートル(九州の約1.5倍)
2.人 口  444万人(2001年国勢調査)
3.首 都  ザグレブ(人口78万人)(2001年国勢調査)
4.民 族  クロアチア人(89.6%)、セルビア人(4.5%)等
5.言 語  クロアチア語(公用語)
6.宗 教  カトリック、セルビア正教等
7.主要産業 繊維、石油製品、船舶、化学製品、食品
8.GDP 556億3,800万ドル
9.一人当たりGDP 12,364ドル
10.通貨・為替レート クーナ(HRK)、100 円=4.578クーナ
11.3文字コード ISO/HRV、IOC&FIFA/CRO
(外務省HP、Wikipedia)

クロアチアといえば、2006年ワールドカップドイツ大会で、日本と同じ予選リーグに所属し、ともに予選敗退の苦渋を味わった国ですので、記憶に残っている人も多いと思います。
また、そのあまりにも印象深いチェック柄の国旗も、特徴的ですね。
クロアチアは、バルカン半島の付け根にありますが、イタリアやハンガリーと国境を接しておりますので、印象としては西欧よりなのかなとも思ってしまいます。
ところが、歴史はばっちり東欧的で、波瀾万丈に富んでおります。

3~5世紀まで西ローマ帝国に属し、600年前後に、現在のクロアチア人がかの地に移住しました。その後はフランク王国とビザンツ帝国との中間に位置していると言うこともあり、あっちに引き込まれ、こっちに追いやられしますが、9世紀に一時、カール大帝(742~814)治下のフランク王国に含まれたときに、カトリックを受け入れました。
10世紀には、トミスラヴ(?~928)によりクロアチア王国が成立し、発展を遂げます。
トミスラヴの死後、ハンガリー王国の介入を受け、クロアチア一帯は同君連合の一因となってしまいます。
15世紀、第10代スレイマン1世(1494~1566)治下のオスマントルコの脅威にさらされますが、ハプスブルク帝国の一員に組み込まれる代わりに、その進行を食い止めることができました。
以後、ハプスブルク帝国崩壊までの約300年間は、比較的平和な時代を送ります。
しかし、その後は実に70年の長きにわたり、苦難の時代を迎えます。
1918年、第一次世界大戦敗戦に端を発し、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、クロアチアはハプスブルク帝国から離脱。セルビアの提案を受け入れて、1929年に南スラブ民族の連邦国家・ユーゴスラヴィアを形成します。
ところが、成立当初からクロアチアはこの連邦に強い不満を持ち、1941年にはナチス・ドイツの支援を受けて、クロアチアの周辺諸国は独立国を形成します。
のちのち、これが1990年代まで脈々と続く、紛争の火種となります。
戦後は、チトー(1892~1980)の抜群の政治力のもとで、かろうじて国家を形成していたユーゴスラヴィアでしたが、セルビア民主主義を掲げるミロシェビッチ(1941~2006)が大統領となると、不満が一気に爆発。
1991年、6月25日、クロアチアは独立を宣言しましたが、まもなくクロアチア領内のセルビア人保護を名目に、ユーゴスラヴィア軍が侵攻。クロアチア軍とユーゴスラヴィアとの間に、激しい戦闘が起こりました。
世に言うクロアチア紛争で、1995年に多大な犠牲を払いながらも終結しました。
2005年には、EU加盟交渉も始まり、欧州の一員として、積極的な外交政策がとられているようです。

ときに、ネクタイは、クロアチアが発祥だといいます。
まぁ、その原型は紀元2世紀のローマ帝国にはできあがっていたようですが。

17世紀のこと。ルイ13世(1601~1643)は、自らの警備として、クロアチアからやってきたという傭兵を雇うことにしました。
彼らは、みな一様に首に変わった布を巻き付けています。それは彼らにとって見れば、弾避けのおまじないだったといいます。
それに目をつけたのは、当のルイ13世ではなく、息子のルイ14世(1638~1715)でした。
ルイ14世といえば、のちに太陽王と呼ばれ、「朕は国家なり」という名言を残すことになるブルボン王朝最盛期の王です。
目の付け所も、また違っていたということでしょうか。
クロアチア兵が首に巻き付けている布に目をつけたルイ14世は、近従に質問します。

参考にしたサイトなどによりますと、
「あの者たちの、首に巻き付けているものは何だ」
と尋ねたと言います。
それを、近従が「あの者たちはどこの国だ」と聞き間違えて、クロアチア兵を意味する「クラバット」と答えたというのですが、いくらなんでもその聞き間違いには無理があると思いませんか。
「朕は国家なり」なんていう、どんだけぇな言葉を残した王様ですからね。もっと、横柄で理不尽に質問したんじゃないかなと思います。
例えば…こんなふうに。

ルイ14世は、近従に質問します。
「おい、あれはなんだ?」
どんだけぇーと、近従は思ったことでしょう。
「あれって何?」「あれってどれ?」と、近従は困惑したことでしょう。しかし、聞き返すことなどできませんから、とりあえずアタリをつけて質問に答えるしかありません。
出身地か?
手に持つ武器か?
身につける鎧か?
それとも、首に巻いている変な布か?
近従は悩んだ末、「きっと王子は、彼らがどこから来たかを尋ねている」と判断して、クロアチア兵を意味する言葉を、質問の答えとしました。
「王子、クラバットです。クラバット」
「おおー、あれはクラバットというのか。変わった名前の布じゃのー。ちょっと持て来てたも」
と返事をしたとき、答えた近従はアチャーと思ったに違いありません。
首に巻いている変な布だったのかー、と。

そんなこんなで、以後、フランスでは「首に巻く布」のことを「クラバット(cravat)」と呼ぶようになり、今でもネクタイのことをクラバットと呼ぶようです。
フランス以外でも、スペインやポルトガル、ドイツなどでクラバットやそれに近い言葉を使うということです。
さすがルイ14世の思いつきですね。
わたしも「朕は国家なり」なんて言葉を、平然と使えるようになれば、もっと出世できるかもしれませんねー。


49.Cote d'Ivoire

2007-09-01 21:45:04 | 『万国巡覧記』

コートジボワール共和国
(Republic of Cote d'Ivoire)

1.面 積  322,436平方キロメートル(日本の約0.9倍)
2.人 口  1,820万人(2005年、UNFPA(国連人口基金))
3.首 都  ヤムスクロ
4.民 族  セヌフォ族、バウレ族、グロ族、グン族、アチェ族、ベテ族、ゲレ族
5.言 語  フランス語(公用語)、各部族語
6.宗 教  イスラム教30%、キリスト教10%、伝統宗教60%
7.主要産業 農業(コーヒー、ココア等)
8.GNI 153億米ドル(2005年、世銀)
9.一人当たりGNI 840米ドル(2005年、世銀)
10.通貨・為替レート CFAフラン、1ユーロ=656.957CFAフラン(固定レート)
113文字コード CIV
(外務省HP)

古くは象牙海岸の名で知られたコートジボワールは、その名の通り大西洋に面する国です。
名前はフランス語で、読み方に従えば、「コート・ディボワール」となるはずです。
国名がフランス語ですので、以前がフランスの植民地であったことは予想がつくと思います。

この地に欧州人がやってきたのは、15世紀のこと。それ以前は、多くの王国が乱立していたようです。
欧州人がやってきた目的は、まずは象牙。その名が示すとおりであります。
欧州でも象牙は人気でした。硬度、加工のしやすさなどが人気となり、日本と同様に工芸品や美術品として人気がありました。
15世紀に喫煙の風習が欧州にもたらされると、喫煙方法の一つしてパイプが使われるようになり、その材料として使われ、17世紀後半にバルトロメオ・クリストフォリ(1655~1731)によってピアノが発明されると、その鍵盤として使われました。
それから、奴隷ですね。アフリカ大陸の住人を植民地での労働資源として見て、奴隷の売買拠点として使われたわけです。
フランスの植民地となったのは、1893年のことですから、思ったよりも昔のことではありません。
正式な独立は、やはり1960年のことです。
その後は「ディボワールの奇跡」とまで言われる高度成長を遂げましたが、問題が起こったのは1999年。
1999年クリスマス・イブに起こった軍事クーデターを皮切りに、2002年にはゴタゴタから内戦にまで発展。周辺諸国の尽力により、一時は収束しましたが、去年あたりから再び再燃しているということで、非常に気がかりですね。

さて、コートジボワールといえばやはり、象牙をなくしては語れないわけですが、1980年に日本もワシントン条約を締結し、1989年から輸入が禁止されたようです。
その後、個体数が激増したことを受けて、1999年に一度限りの輸入が行われたそうです。
というわけで、実際、現時点でコートジボワールの経済を支えているのは、カカオやコーヒーなどの農産物と石油です。
カカオの成分の話は以前したとして、コートジボワールはカカオの輸出量は世界一。
世界の3分の1にあたる約36%を輸出しているということです。
これはえらい量ですね。
また、豊富に産出される石油を使った石けんなどの石油製品も盛んに作られているといいます。
それから、コートジボワール出身の有名人といえば、イギリス・プレミアリーグの強豪チームのチェルシーFC所属のディディエ・ドログバ(1978~)選手。
ドログバ選手をはじめとして、欧州サッカーで活躍するコートジボワール出身者は意外と多いですね。
国際舞台でも、ザ・エレファンツという愛称で親しまれるコートジボワール代表は、去年のドイツワールドカップにも出場しました。

経済も、スポーツの世界でも活躍著しいコートジボワール。
早く内戦が落ち着いてほしいと思いますね。


48.Costa Rica

2007-08-24 22:56:46 | 『万国巡覧記』

コスタリカ共和国
(Republic of Costa Rica)


1.面 積  51,100平方キロメートル
2.人 口  430万人(2004年国勢調査局)
3.首 都  サンホセ
4.民 族  スペイン系及び先住民との混血95%、アフリカ系3%、先住民他2%
5.言 語  スペイン語
6.宗 教  カトリック(国教、但し信教の自由あり)
7.主要産業 農業(コーヒー、バナナ、パイナップル、観葉植物)、製造業(集積回路、医療品、加工食品)、観光業
8.GDP 22,246百万ドル(2006年 中銀)
9.一人当たりGDP 4,877ドル(2006年 中銀)
10.通貨・為替レート コロン(¢)、1米ドル=512.50¢(2006年平均)
11.3文字コード ISO/CRI、IOC&FIFA/CRC
(外務省HP)

コスタリカといえば、日本と並び、軍隊を保有していない国として知られていますね。
まぁ歴史的な変遷も、ほかの中米の国々と変わらなかったりします。
中央アメリカを「南北アメリカをつなぐ陸地」という狭義の意味で捉えますと、実はベリーズ以来ということで、実に久しぶりです。
16世紀初頭にコロンバスが漂着し、1570年にはスペインの占領下に入ります。
1821年に、中央アメリカ連邦の一員として独立を成し遂げますが、1848年には連邦が瓦解。正式に独立共和国となりました。
20世紀には親米路線を邁進し、1941年の真珠湾攻撃の際には、当のアメリカに先駆けて枢軸国側に対して宣戦布告を行いました。
コスタリカが、非武装中立国の宣言を出したのは、1983年。モンヘ(1925~)大統領のときでした。
その背景にあるのは、東西冷戦であることは間違いのないところです。
ところで、コスタリカで憲法が制定されるのは1949年のこと。その後、66回の憲法改正が行われているそうですが、この非武装の項目にはノータッチだそうです。
ここのところ、日本も見習えばいいと思うのですが。いかがでしょう。

さて、やや下世話な話になりますが、コスタリカといえば、美男美女の多い国として有名です。
中南米の「3C」と、よく言われます。
すなわち、チリ(Chile)、コロンビア(Colombia)と、そしてコスタリカです。
中には、キューバを含める人もいるそうですが、まぁまぁそれは置いておいて。
それぞれ美人の基準は違うようですので、一概にどこどこの国の人間がとびきり美人だなぁなどとは言えないようです。
わたしなんかは、別に金髪の美女でなければ屁も出ぬというわけでなく、ましてやそういう人たちと知り合うきっかけがあるわけでもなく。
もっぱら日本人が好きなので、「3C」などという話を聞いても、ふーんぐらいにしか思いませんし、別段興味も引かれません。
まぁわたし自身、ひどい顔ですので、他人の顔をどうこういうこともできませんので。
こういう話は…、まあ自分の心の中でだけにしておきましょう。