さじかげんだと思うわけッ!

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バレンタインデーについて考える。

2008-02-14 21:58:17 | 
今日はバレンタインデーですね。
この年になると、チョコレートなんかはあまり気にならないですね。
ザ・サントリー・オールドウイスキーのCMの言葉を借りれば、
「別に喜ぶ年でもなし…」
といったところでしょうか。

今日は、愛を伝える日ということで、「愛」というものについて考えてみました。
愛というのは、当たり前なんですけど、実にいろいろな種類があるんですよね。
男女の…というと先入観ありありですが、まぁ異性でも同性でも赤の他人を愛するもの(性愛)はもちろんですし、例えば、友人を大切に思う心(友愛)や家族を大事にする気持ち(家族愛)、それから師匠を尊敬し弟子を慈しむ心(師弟愛)なんていう形もあります。
宗教によってその解釈はまちまちのようですが、キリスト教でいう「汝の隣人を愛せよ」で有名なアガペー(隣人愛)は特徴的であるといってよいでしょう。
仏教で隣人愛といえば、むしろ「慈悲」ということが一般的なようです。
「慈悲」…最近、聞かない言葉ですねぇ。
さて、ふつう日本で「愛」といえば「性愛」を指します。いえ、やらしい意味ではなく。
言い方を変えましょう。
「エロス」ってやつですよ。あら、逆効果ですか。いや、まぁいいです。
まぁあえて、誤解を恐れずいえば、そうではないですか。結局、意中の相手と仲良くしたくて、今日という日にチョコや贈り物をするわけではないですか。
しかしですよ、さっきも言ったとおり「愛」にはいろんな形があるんです。
日本人の頭の中には、「好きな人と付き合う」的な愛という考えが第一にあるから、おかしくなるんです。
今日は、友人や家族、あるいは弟子・師匠などに対して、「大切に思ってますよ」というような、日頃は口に出せない気持ちをものとともに伝える日なんですよ。
まぁなので、別にそこに「エロス」が入ってきてもいいんですけどね。
しかし、そこしかクローズアップされないのが何とも悲しい。
「隣人愛」や「慈悲」という精神性が、結局定着し切れていない日本(今も、むかしも)という国が悲しく思うわけですよ。

ところで、今日はバレンタインデーですから、必然的にウァレンティヌス(?~269)の命日に当たります。
その実在性は疑わしいようですが、しかし、彼の存在はとても大きかった。
彼がいたといわれる時代はローマ時代です。
当時のローマ皇帝は、戦士たちにもし結婚して家庭を築いてしまったら、死ぬのが怖くなって士気の低下を招くのではないかと懸念して、戦士が結婚することを禁じてしまいました。
それに猛然と反抗したのがウァレンティヌスで、彼は王令に背いて戦士とその恋人の結婚式を執り行い続けました。
怒ったローマ皇帝は、とうとうウァレンティヌスを処刑してしまうのですが、彼のおかげで夫婦となれたものたちやその尊い行いに感銘を受けた人たちにより、彼の命日は「バレンタインデー」とされ、今日まで脈々として受け継がれました。
…とまぁよく知られた話で、これ以外にもいくつかのパターンがあるようですが、この物語でわたしが何を言いたいかというと、「人を愛する」ってことは当然のことではないってことです。
ウァレンティヌスは、人が人を愛するという"当然"と思いがちなこの権利を、彼は自らの「命」を持って主張したんですよね。
あなたが、あなたの恋人を愛することは決して当たり前のことではないんです。
世の中には、愛したくても愛する余裕がない、あるいは愛せない人も多くいる。
だから、本来このバレンタインデーの意義というのは、「愛し合える喜びを分かち合う」ではないかと思うんですよ。

ところで。
このウァレンティヌス。欧米でも「恋人たちの守護聖人」だったそうで、つまりは「エロス」を守る聖人だったわけですね。
すいません、前言撤回します。
「隣人愛」や「慈悲」の心が定着し切れていないわけではなく、すっかり欧米に感化された日本を哀れむべきだったんですね。

※ わたしは宗教の知識が足りません。もし間違えた解釈があっても、「しょせんはヘタレのいうことなり」と笑って流してください。