さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

岐阜小旅行記(2)

2010-01-13 20:22:56 | 旅行記

翌朝は、7時半ぐらいに起きて、朝はバイキング。気兼ねしなくていいですけど、食べ過ぎてしまうのが玉に瑕ですね。
それから部屋に戻ると、なぜかKが1時間半ほど二度寝。ホテルを出たのは、10時ぎりぎりとなってしまったのです。
ところで、今年の冬は暖冬になるだろうといわれながら、今のところは寒波が定期的に来ていて冬らしい陽気が続いています。つまり、一言で言うと寒いと。
しかし、Kはこの寒い陽気だというのに上着を忘れ、昨日から薄着だったのです。
この日は天気は晴れているとはいえ、風が冷たく、薄着で歩くのにはいささか厳しい。というわけで、二日目の最初の目的地は、ユニクロです。そこで、温かいジャケットを買うのです。
いやぁ、日本全国、どこでも高品質なものが同じ価格で手に入れることが出来るということは素晴らしいことですね。VIVA 資本主義。
Kは裏が起毛生地のぬくぬくとしたジャケットを購入し、なんとか生きのびることができました。

そう。そういえば、式場だったんですが、北方町という所でしてね。わたしは岐阜の地理にはとんと疎いもので、地図を見て初めて位置関係がわかりました。
岐阜と大垣の中間だったのですね。
二日目は、そんな大垣を観光することにしました。
大垣といえば、何はともあれ大垣城。関ヶ原合戦の時は、西軍の根拠地ともなった由緒正しいお城です。
まずは目的地を大垣城に定めますが、途中、奥の細道むすびの地という看板を発見。
ともに国文科卒業であるわたしとKは、とにかくいってみようということになりました。
とはいえ、Kはともかくわたしは不勉強の不届きものでして、奥の細道がどういう旅程であったか知らず、よもや大垣がその終着点であるとは思いもよらず。
おそらく大学のK元教授に、鼻で笑われてしまうでしょう。「鼻血ブー、おしっこジャー」なんていわれてしまうでしょう。
ちょっとした銅像があったりして、ひとしきり感慨にふけったのですが、どうにも寒くてすぐに車に引っ込んで大垣城へと向かったのでした。
とはいえ、大垣城は目と鼻の先。少し駐車場に迷いましたが、無事にたどり着きました。

大垣城は典型的な平城。つまり、平地に築かれたお城でしたので、まぁ見栄えは今ひとつです。
こう、岐阜城や郡上城なんかのように高台にどっかと腰を下ろしているわけではなく、ビルに囲まれてひっそりとしているのです。お城が出てきたときは、いささか驚きました。
城内の展示はとても充実していましたよ。槍や鉄砲、弓などに実際にさわることができたり、また動画のコンテンツが非常に充実しており、わたしはとても驚愕しました。
関ヶ原合戦の一日を、石田三成・徳川家康双方の視点から描いたダイジェスト動画が秀逸で、この手の展示では破格に長い30分。しかも、飽きずに見ることができるのですから、かなり力が入っているように思います。
もちろん、最上階には展望室もあり、見晴らしはいいのですが、やはりインパクトに…。そりゃ岐阜城なんかと比べてはいけませんわな。
ところで、石田三成は胃腸が弱く、特に関ヶ原前後は極度の緊張と疲労のため、行軍に支障来すほど軟便に悩まされていた、というのは好きな人なら(スカトロジストというわけでなく)有名な話ですね。
VTRの中で、関ヶ原の激戦を眺めながら糞を垂れ流しにするという描写があるのですが、わたしたちは大変気に入りましてね。以後ことあるごとに使うようになりました。
今思えば、なんでそんなに気に入ったのか謎ですね。

大垣城を楽しんで、では飯を食うかという話になったとき、ラーメンを食おうということになりました。
すると、駅前の通りに『チャングイ』という中華料理屋があるというので、そこに入ることにしました。
わたしは天津飯を、Kはチャーシューメンを頼みました。
わたしはおいしいと思ったんですが、Kは薄味がだめだといって、おれは関西には住めないと嘆いておりました。味音痴なわたしにはよくわからないのですが、西に行くほど確実に味が薄くなっているようです。
わたしは薄味は薄味でおいしいと思うんですけどねぇ。
食べ終わってから、メニューにベトコンラーメンがあったことに気がつきまして、ちょっと後悔しました。
インパクトのある名前なので、一度食べてみたかったんですよねぇ。

その後、腹ごなしにおみやげを買います。
ヤナゲンという百貨店の中に、銘店がいくつかあったようなので、そちらに入ります。
売り場の女性の方に聞いたのですが、大垣のおみやげというとまずは金蝶堂の「金蝶饅頭」。田中屋せんべい総本家の「みそ入大垣せんべい」。そして、つちやの「柿羊羹」が御三家だと。
いわれるままに購入し、家・職場・小遣い用にしました。
ヤナゲンを出て、クレープを食おうということになりました。ヤナゲンのすぐ横に、ミスベティというクレープ屋さんがありまして、ついつい甘い匂いにつられて入ってしまったのです。
調べてみたら、クレープ屋ではなく、ワッフル専門店だったそうですよ。
クレープがおいしくないわけはなく、しかもトッピングとしてワッフルを入れました。食感がさらにふわふわになって、食べ応えも出ておいしかったです。
ワッフル入りのクレープを食べたら、大垣観光は終了です。
帰りは、東名阪高速道を通って、新富士には18時にはつきました。Kとはここでお別れ。
またあう約束をして別れました。
甲府には19時半にはつきました。

ノープランの割には充実していたんではないかと思います。
まぁわたしが随行する旅は、いつもこんなんですが…こんなんで満足していていいんでしょうか。
恒例の番外編は…ちょっと思い当たる事件がないんですけど。もしあれば書きたいと思います。
今日の一枚は、『戸田氏鉄公像』です。正面から撮ると、大垣城が背景になっていい景色になるんですよ。


岐阜小旅行記(1)

2010-01-12 20:03:55 | 旅行記

さっそく岐阜の話をしましょう。
実は今回の慶事は、前にわたしたちのノープラン旅行に顔を出してくれた大垣のSが晴れて結婚するということで、わたしと修善寺のKは式に呼ばれたのです。
いやぁめでたいめでたい。
Sは大変素晴らしい男でしてね、わたしなんか足元にも及ばない、実に大人らしい人間なのです。奥さんになる人も、Sに劣らぬぐらい人望があって素晴らしい人であることは、式に参加してよくわかりました。
おそらく、わたしの知る中でも随一の賢男賢女の夫婦であろうと思います。
末永い幸せを、切に願います。

式が終わって、どこに行くかという話になりまして、Kは温泉にでも行かないかということになりました。
どこか日帰りで入れる温泉はないものかと探したのですが、結局断念。
長良川沿いにある長良川温泉ぐらいまでいったりしたのですが、わからずじまいだったんですよ。何たるノープラン!
途方に暮れて、今日の宿であるホテルルートイン岐阜県庁南に向かいます。というのも、実はこの日は岐阜まで行くというので、朝4時ぐらいに起きたので、すでにへろへろだったのです。
ホテルにチェックインしてばたんと倒れて、目を覚ますと時間はすでに7時半ほどになっていました。まぁそれなりに疲れていたんだろうと思います。
それから起きて、飯を食いに行きまして、県庁近くにあった『ボンジョールノ・ヌォボ』というイタリアンのお店に入りました。
なんか岐阜らしいものが食べたいなぁと思っていたんですが、旅が旅なものでこれといった場所も見つからず、ホテルのパンフレットに載っていたこのお店をチョイスしたのです。
しかし、これが大当たりでしてね。サラダとピザとパスタを一皿ずつ頼んで、Kと二人で分けたのですがうまいうまいとあっという間になくなってしまいました。
うまいものは、お腹がいっぱいのときにもおいしいものですねー。
食べ終わって、近くのコンビニによってお酒とおつまみを買います。
Kが煮卵とサラミだったかソーセージだったかを使って下品な冗談をいって、二人してげらげらと大笑いしていたので、さぞかし迷惑なお客だったことでしょう。
ほんでホテルに戻ってわっしゃしゃしゃと酒を飲んで、その日は床に就いたのでした。

翌朝は、7時半ぐらいに起きて、朝はバイキング。気兼ねしなくていいですけど、食べ過ぎてしまうのが玉に瑕ですね。
それから部屋に戻ると、なぜかKが1時間半ほど二度寝。ホテルを出たのは、10時ぎりぎりとなってしまったのです。
ところで、今年の冬は暖冬になるだろうといわれながら、今のところは寒波が定期的に来ていて冬らしい陽気が続いています。つまり、一言で言うと寒いと。
しかし、Kはこの寒い陽気だというのに上着を忘れ、昨日から薄着だったのです。
この日は天気は晴れているとはいえ、風が冷たく、薄着で歩くのにはいささか厳しい。というわけで、二日目の最初の目的地は、ユニクロです。そこで、温かいジャケットを買うのです。
いやぁ、日本全国、どこでも高品質なものが同じ価格で手に入れることが出来るということは素晴らしいことですね。VIVA 資本主義。
Kは裏が起毛生地のぬくぬくとしたジャケットを購入し、なんとか生きのびることができました

まぁ毎度のことながら、次回に続いてしまいます。
今日の一枚は、明日出てくるんですけどね。『松尾芭蕉像』です。


佐久・小県訪問記 後編

2009-08-27 21:42:16 | 旅行記

上田城の周りは駐車場も豊富。
わたしたちが止めたのは、城の南側の駐車場。城跡の一部は、野球場や体育館などとなっており、本当に市民公園という感じです。
駐車場のすぐ近くにも、3on3コートやスケートボード場などがありました。
南側の駐車場から本丸址へ登るのは、急な階段があって小さい子どもやお年寄りにはいささか重労働かも知れません。
すぐに見えてくる西櫓は、1600年初期から残る数少ない遺構の一つです。
本丸址には、真田神社という神社があります。主神は真田父子となっており、二度にわたり徳川の大軍を追い返したということで、勝負ごとなどに御利益があり、さらに「おちない」ことから受験の神としても有名だそうです。
わたしは、ここで売っていた日本手ぬぐいのあまりのシュールさに心惹かれて、ついつい買ってしまいました。この戦国ブームの時勢にあきらかに逆行していますが、まぁそういうのも嫌いじゃないどころか、むしろ好きです。
お参りをして、その奥にある真田井戸を見学します。
建築当初から残るといわれる真田井戸は、その中に城外へ抜けるための抜け道もあるそうです。昔の城にはこういう抜け道があるのが当たり前だったのでしょうか。なかったらなかったで、なんと危機管理に疎い殿様だということになったのかも知れません。
それから、東虎口櫓門を見ます。
この櫓、維新後に別の場所に移築されて娼楼(!)として使用されていたそうです。それを、昭和18年から本丸跡へ再移築したそうです。中は簡単な資料館になっていて、上田城の歴史を一覧することができます。
やはり、二度にわたる上田合戦は上田城最大の見せ場のようで、力のこもった展示でした。

それから、門の脇にある真田石を見て、同じく敷地内にある上田市立博物館へ。
わたしはたびたび言っているのですが、市の単位で博物館をもっているなんて、なんてすごいんだろうと思うのです。いえ、規模はピンからキリまでですが、博物館は単なる観光資源ではなく、その収蔵品の研究と成果の発表の場が本来なのですから。規模云々ではないと思っています。
その点、赤穂市立博物館などは規模にしろ内容にしろ、かなりのものだと思うのですが、上田市立博物館は規模は小さいですが、内容はすばらしいんじゃないかと思います。
山極勝三郎(1863~1930)は明治・大正に活躍した病理学者で、日本初のノーベル賞受賞者となる可能性のあった人物です。
うさぎの耳にコールタールを重ね塗り、人工癌を発生させることに成功した。という話を聞いたことがあるかも知れません。それを成し遂げたのが勝三郎でした。
結局、ノーベル賞は逃してしまったのですが、のちに彼の業績は見直され、その分野において高い評価を受けています。
その勝三郎に関する展示や前述の上田合戦、江戸時代の上田の民俗を伝えるものなど、非常に興味深かったですね。

続いて、版画家であり美術教育者でもある山本鼎(1882~1946)の記念館も見ました。
山本鼎の版画は、美術や図工の教科書にも載っているので、見たことがある人は多いのではないでしょうか。名前は知らなくても、作品は知っていると思います。
建物はいささか古い感じですが、二階の展示室は広くてびっくりしました。
山本の仕事は、版画・自由画教育運動・農民美術運動の三つに分けられるそうで、それぞれにきれいな作品が並んでいました。
農民美術運動は、一見すると工芸と見間違えてしまいますが、自己の表現したいものを赴くまま作り出すという点で、絵画で言う素朴派的な独特な郷愁や幻想を感じることが出来ます。

と、すっかり上田城で長くなってしまいました。
本当は小諸によって懐古園もよっていきたかったのですが、時間的に苦しくなってきてしまいました。
海野宿にも寄りたいということで、海野宿を優先します。
海野宿は、1625(寛永2)年に北国街道の宿駅として開設されました。とはいえ、この東御市海野という地には、それ以上に古い歴史があります。
海野氏といえば、滋野三家のうちの一つで信濃では名族中の名族。真田氏ももとは海野氏の流れをくむそうで、幸村の祖父に当たる幸隆(1513~1574)は、海野棟綱(?~?)の息子とも、義理の息子とも、あるいは義理の孫とも言われています。
海野の地を本拠とし、小県に勢力を張っておりましたが、1541(天文10)年の海野平合戦において、武田・諏訪・村上連合軍(!!)の前に大敗を喫し、没落してしまうのです。
つまり、ある意味では真田氏発祥の地であるため、むしろわたしはそちらの方が興味があったのですが、海野宿では江戸時代以降の町並みが観光の中心であります。
この町並みは大変由緒正しいもので、1986(昭和61)年には「日本の道100選」に、1987(昭和62)年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定を受けており、極めて早い段階で整備が行われ、きれいな町並みが残されています。
およそ650mに渡り、伝統的な家々を見ることが出来るそうです。
特徴とされているのが、以下の四点。写真付きでどうぞ。

うだつ(江戸時代のものを本うだつ、明治時代以降のものを袖うだつというそうです。元は防火壁)

海野格子(長短二本ずつを組み、きれいな模様を作り出している)

出桁(二階部分の張り出しのこと)

気抜き(明治期、養蚕の際の換気に使われた開閉式の窓)

まぁこれらのものがあるというのは調べていったのですが、実際に見てみるとわからないものです。海野宿資料館でもらったパンフレットを見て、「あれがそうか」という具合でした。
見つけることができると、なかなか楽しいものです。
宿駅入り口の白鳥神社や先述の資料館、おみやげもの屋などをのぞいて、海野宿を後にします。

次に向かったのは、佐久市
知ってます? 佐久って、日本三大ケーキの町っていわれているそうですよ。
そういえば、「桃太郎電鉄CHUBU」では、佐久の物件はケーキ屋さんばかりでした。
佐久は私用で前にも行ったことがあるのですが、佐久は開けた土地です。大型のショッピングセンターはありますし、著名な店舗だって一通りは揃っています。何より、新幹線が通り、小海線の長野県側の始発駅でもあります。
昔は上田が東信地方の中心地だったそうですが、そういった事情もあって佐久もめきめきと力をつけているそうです。
なぜそんな佐久がケーキの町なのか…それはよくわかりませんでした。日照時間が長く、また果樹栽培も盛んな地域ですので、そこら辺が関与しているのかも知れません。
ちなみに、日本三大ケーキの町。ほかの二つは兵庫県神戸市と東京都目黒区自由が丘
なかなか肩を並べられるような所じゃありませんよ。
佐久市観光協会でもアピールがありませんでしたし、もう少し前面に押し出してもいいんじゃないでしょうか。それこそ、特産の巨峰や杏、桃やプルーンなどを使ったケーキなんかおいしいと思うんですけどねぇ。
まぁいいんです。
わたしたちは、そんな佐久市でケーキを食べます。
テイクアウトもあれですし、どうせならカフェで食べられるようなところがいい。ということで、見つけたのが「西洋菓子フォンティーヌ」さん。
1階が販売、2階がカフェになっております。
さすが、神戸・自由が丘と肩を並べるケーキの町です。実においしいケーキを頂きました。
おみやげもケーキを買いました。このおみやげがうちの人間にとても評判でしてね。
はんじゅくチーズケーキとはんじゅくショコラというのを買ったんですが、ふんわりとろとろしていて大変おいしかったです。

その後は、ちんたらちんたらと甲府に戻ってきたわけですが、ちょっと一日ではもったいない感じがしましたね。
上田には「池波正太郎真田太平記館」があったり、小諸には「小諸城址懐古園」があったり。ちょっと足を伸ばせば軽井沢ですし。佐久には「龍岡城五稜郭」があります。
二日あればあちこち見ることが出来たんでしょうけど。なかなかそれも難しく…。
いつの日にか、また来てみたいと思います。


佐久・小県訪問記 前編

2009-08-26 22:00:00 | 旅行記

旅行のネタが重なりますが、先日、信州上田・海野・小諸・佐久を巡ってきたので、その話をしたいと思います。
実は、上田はわたしのあこがれの土地。別に幸村じゃぁありません。むしろ、幸村こと信繁の祖父・幸隆や父・昌幸あたりがお気に入りなのです。
だから、一度は上田の城を訪れてみたいとは思っておりました。
それに、どうも佐久・小県といわれる地域は足を伸ばしにくいのです。ルートとしては、国道141号線(清里ライン)を北上するか、電車なら日本一高いところにある駅として有名な野辺山駅がある小海線を行きます。
どちらも便利とは言えないのですが、いざ行ってみれば清里ラインはカーブも少なく、快適な高原ドライブルート。颯爽とした風が大変心地よい道路です。
一度、上田まで行って、観光しながら降って帰ってくるというルートを設定しました。
到着したのは11時ぐらいだったのですが、先に昼飯を食べようと言うことになりました。

やはり長野といえば信州そば。以前にも戸隠にいったときには戸隠そばを食べましたが、今回は上田の老舗蕎麦屋「刀屋」さんで食べることにしました。
どうやらこのおそば屋さん。わたしたちなどはガイド誌を見てほいほい決めたのですが、そばが鬼のように盛られていることで有名なのだそう。
車は駐車場も少なく、路駐が出来るような場所でもないため、けっこう止めるのに苦労しそうです。わたしらの場合は、運良く一台分空いていたし、車も大きくなかったために労せずして止めることが出来ました。
そういえば、香川ナンバーの車も見ました。うどんの国の人も、そばを食いたくなるものなのですねぇ。
開店11時だというのに、すでに行列ができています。30分ほどで入れたのですが、いやぁすごい人です。
わたしが頼んだのは真田そばというそば。
みそが入れられた器とめんつゆ、出汁汁の入った容器が出てきて、それを好みの分量で割って食するという、いかにも信州っぽいそばです。
待っている間に耳に挟んだのですが、お客さんが「大盛りってどれくらい?」とお店の人に聞いたんです。そしたら、「1キロあります」っていったんですよ。そば1キロって、ものすごいですよ。ご飯一膳150gといいますから、実にその6倍以上。
もちろん、わたしは普通盛りです。出てきたものを見たって、普通盛りでもかなりの分量です。小食である女性なら、中盛り以下でお腹が満たされることでしょう。
そばは茹でたてで、水がびたびたしているのがいい感じです。お給仕の方に食べ方を教えてもらって、食べますと実においしい。味が刻々と変わっていくので、そこも楽しかったですね。
わたしはそばの善し悪しなどわからぬ舌音痴ですが、山梨には「おざら」というテレビなどでは「冷製ほうとう」などといわれているものがあるのですが、まぁ近からずとも遠からずといったところ。そばはしゃきしゃきしていて抜群においしかったですよ。

その後はわたし的目的地である上田城
築城年は、1583(天正11)年。表裏比興の者といわれた謀将、真田昌幸(1547~1611)が築城主です。平城で、決して堅固な城郭ではなかったそうですが、二度にわたる上田合戦では地の利、人の利を生かし、徳川軍を撃退しました。
特に名高いのは、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の一部として語られる第二次で、38,000の徳川軍をわずか3,500人で釘付けにしたというのですから、その知略の冴えはかなりのものですね。
そんな上田城。関ヶ原後に徳川氏によって破壊されてしまいます。よほど憎かったと見えますが、その後に東軍についた昌幸の長子、信之(1566~1658)が上田に入っていますから、真田の力量は確かなものだったのでしょう。
ちなみに、昌幸と次男の信繁(幸村、1567~1615)は九度山へ配流となります。
ところが、真田氏の上田支配は、22年で終わります。どういう事情があったのかわかりませんが、上田に真田がいるというのは、やはりいい思いはしなかったのでしょうね。加増され、松代藩へと移されます。その後は10代を数え、明治維新を松代で迎えるのです。
続いて入ったのは、漫画『センゴク』で名が知られた仙石秀久(1552~1614)の三男、忠政(1578~1628)でした。隣の小諸藩からやってきた忠政は、上田城を再建しようとしますが、なかなか工事は進まず。彼の死後にひとまずの完成を見ました。
忠政の孫の代(正しくは曾孫)に但馬出石に移封され、次は藤井松平氏が入ります。
藤井松平氏は、以前にも話した十八松平の一つで、三河国藤井を領しました。徳川本家との血縁としては、家康の高祖父(ひいひいじいさん)に当たる長親(1473~1544)の五男、松平利長(?~1560)を祖とするそうです。
そのまま明治を迎え、上田藩は廃藩。上田県となりますが、1871(明治4)年、長野県に吸収され、今日に至ると。
柳沢氏以降天領となり、幕末の舞台から影を潜めてしまった甲府とは違い、幕末期にも重要な地位を占めた上田藩。中村半次郎こと桐野利秋(1838~1877)に斬られた軍学者・赤松小三郎(1831~1867)は上田藩にの出身です。
そんな上田城。残念ながら、維新後に民間に払い下げられ、忠政が再建した本丸や櫓は打ち壊され、畑にされてしまったそうです。
それに危機感を持ったのは、地元の名士だった丸山平八郎氏。彼が本丸付近を買い取り、真田神社が創建される際にはその土地を寄進したというのですから、えらい太っ腹です。
今、こうして上田の城跡が城址公園となり、市民の憩いの場となっているのは、この丸山氏のおかげであると。
残念ながら、城跡を中央線が分断している甲府城址とはかなりの違いですが、まぁ地元の名士が稀代の商人であって、過去の遺産よりも(違う意味で)未来に投資した結果というか。そういう意味では現代的というか昭和的という感じがします。それに甲府は天領でしたし、躑躅ヶ崎館の方が県民の力をつかんでいたという点もあるでしょう…と思いたいです。

こりゃぁ興奮しすぎて長い文章になってしまいました。
続きはまた明日にしたいと思います。
今日の一枚は、「上田城東虎口櫓門」です。この中は資料館になっています。


横浜訪問記 後編

2009-08-23 22:00:00 | 旅行記

Kが提案します。
船に乗って移動しようと。
K曰く、みなとみらいのぷかり桟橋からシーバスという定期船が巡回して、路線バスのような感覚で乗れるらしい。
電車で移動するのもアレですし、いいんではないかと話がまとまりました。
みなとみらいのパトロールをしている警備員のおじさんがセグウェイに乗っているのを見て驚愕したり、横浜ベイブリッジを背景にして面白い写真を撮ったりしながら、その乗り場へと向かいます。
あまりに写真撮影に熱中しすぎて一本乗り過ごしたりしましたが、15時20分のバスに乗ることができました。


赤レンガ倉庫は、すごい人だかり

一駅目の、赤レンガ倉庫で降りました。磐田のMが赤レンガ倉庫を見たことがないというので、せっかくだし降りようと言うことになったのです。
赤レンガ倉庫といえば、横浜の定番観光スポットですが、まぁわたしも遠巻きに見たぐらいでマジマジと見たことはなかったのでいい経験でした。
敷地の真ん中に砂浜がこしらえておりましてね。そこで無数の子どもらが遊んでいました。
すぐ近くには、「開国博Y150」のブースがありましてね。中華街にOを待たせているにもかかわらず、中を物色して、買い物をしておりました。すいません。
というわけで、結局中華街に到着したのは16時半。まったく、平塚のOには悪いことをしました。ごめんなさい。

まぁとにかく、合流できたというので、中華街を歩き回ります。
磐田のMはこれが、神戸以来の中華街ということで、神戸のそれと比べても大きいので驚いているようです。
神戸の中華街は露店が多く、庶民的なのに対して、横浜の中華街は豪華で、派手なお店が建ち並んでいます。
それぞれにいいところがありますから、どちらがいいということはありませんが、やはり比べてしまうと横浜の繁栄っぷりがよくわかります。
というわけで、日本三大中華街は横浜・神戸と制覇し、残りは長崎であるわけですが、これがなかなか難しいところですねぇ。
さて、一行は関帝廟を見たり、「横浜大世界」という総合エンターテインメント施設をのぞいたりしながら中華街を楽しみます。
…とはいえ、中華街は「食」あってこその場所であり、もはやご飯を食べるところが決まっており、つまり楽しみがあまりなかったわけです。
その点、横浜大世界はトリックアートミュージアムがあったり、様々なお土産屋が入っていたりして暇を潰すにはいいところでしたね。

しばらくぶらぶらして19時になりますと、本日のメインイベントである「金龍飯店」に向かいます。そこで豪華なコース料理を食べるのです。
何と、通常一人1万円かかるところを、Kの見事な交渉とクーポン券によって半額の5千円で食べることができるというのですから驚きです。しかも飲み放題つき。なんと太っ腹なことでしょうか。
料理はどれも本格的。前菜から唸ってしまうようなおいしさなわけですが、フカヒレなんか初めて食べましたけど、なんかもさもさしてましたよ。点心なんて肉まんと見まごうばかりの詰められ放題。いやぁさすが、中華街ですねぇ。
そしてやってきましたのは、北京ダックです。
わたしたちは、北京ダックといえば、まるまる一匹食うもんだと思っていたのですが、出てきてみれば、人数分の香味野菜と包む皮、そしてきれいな焼かれたアヒルの皮が出てきただけでした。
もっとね、こうイメージとしてカートに乗せられてきて、シェフが切り分ける的なものを想像していたんですが…まぁ1万円のもの5千円に値切っておいて何を言うのかって話なんですけどね。


きれいに包まれた北京ダック

以降にも出てきた料理には、何もいうことない素晴らしい料理の数々。皆残さず食べました。大満足で店を出たのでした。
四人でまたの再会を願いながら、みなとみらい線元町・中華街駅に向かいます。
中華街の朝陽門をくぐっていくのですが、その門の下に「洗手亭」と書かれた公衆トイレがありました。そのときにわたしの頭…いや、腹によぎった嫌な予感はのちのち現実のもとなっていくのです。
すでにわたしの腹の中では恐ろしいことが起きていたのです。

わたしの帰りの予定です。
横浜駅を21時24分に出て、東神奈川駅で横浜線に乗り換え。22時27分には八王子につき、22時35分の特急かいじに乗車。甲府着が23時41分。
次の日は仕事もありましたし、まぁ最終よりも一つ早いこの便が無難であろうと。
しかし、わたしがいく旅には常に不測の事態が付きものです。
どうも駅に向かう途中から、腹が痛い。うんこ…そう、うんこの予感。
しかも、ゲーリーが襲来したっぽい。
わたし一人のために、みなを遅れさせるわけにはいかないので、ここは我慢して電車に乗ります。しかしまた、この電車。冷房をがんがんに掛けてわたしの胃腸と肛門を、必要以上に刺激します。
次第に黙り始めるわたし。このときには、KもOもMもわたしの異変に気がつき、気に掛けてくれます。
このとき、Kも胃腸に異変を感じていたようで、冷たいものを飲み過ぎたのだろうといっていたのですが、わたしは油の取りすぎではないかと思っていました。
昼間は濃厚な吉村屋、夜は中華料理。
むしろ、その両方が原因だったのかも知れません。
とにかく、今にも肛門が決壊しそうな感じです。横浜駅について、小走りでトイレに駆け込みます。
しかし、わたしは知っていたのです。この手のゲーリーは、一度ではケリがつかないであろうことを。波状攻撃なのです。
取りあえず、途中で脱糞などしたらえらいことです。一次攻撃が収まるまでトイレに籠ります。
わたしがトイレから出たとき、時計は21時35分を回っていました。つまり、この時点でわたしの帰甲作戦は失敗。最終列車である八王子を23時36分に出るかいじに乗れなければ、わたしの帰りは翌日となってしまう。
これは非常とも言える事態です。
とにかく、横浜駅で平塚のOと別れます。彼には明るい未来が待っているということなので、わたしにもその幸運を祈らせて欲しいと思います。
横浜駅を出て、修善寺のKと磐田のMは新横浜で新幹線に乗るので、そこまでは一緒です。
東神奈川駅で乗り換えるのも一緒…だったはずだったのですが…。
ここで第二波がわたしの肛門を直撃。これはとても適わんと二人でここでわかれをいって、わたしは見ず知らずの東神奈川駅のトイレに籠ります。
磐田のMにもまた、春が訪れたということで、実にめでたいことです。幸せを祈らせてください。
修善寺のKは…まぁわたしの兄弟ですから。何もなくても、常に幸せを祈っています。
東神奈川から八王子までは、実に60分かかりますから、とにかくその60分は発作が来ないようにしなければいけません。
15分はトイレに籠り、万全期して電車に乗り込みます。
八王子でもしばらくトイレに籠り、かいじにはトイレがあるのでいささかの発作が起きても問題はありません。
というわけで、甲府についたのは24時45分。
その後、二日間はゲーリー氏の襲来に悩まされ続けました。わたし、ゲーリーはすぐ来るんですが、早めにお帰りになるんですが、今回はずいぶん長居をなされました。

と、結局4分の1はうんこの話になってしまったわけですが、困ったものです。
こんなグダグダな感じで終わりとしましょう。


横浜訪問記 前編

2009-08-22 22:17:45 | 旅行記

先日、たびたび登場してくる修善寺のK・平塚のO・磐田のMとわたしの四人で、横浜にいってきたのでその話をしましょう。
一昨年には神戸で遊び、去年は岐阜ではしゃいだわたしたちでしたが、残念ながら今年はわたしがヘタレなばかりに長い休みが取れないことになり、じゃあ日帰りながら、横浜でうまいものでも食おうじゃないかという話になりました。
いつものことながら、計画はKに任せて、わたしは北京ダックを食いたいなどと無責任なことをいうばかりでした。
しかし、これがその後に起こる、恐ろしい体験の伏線となっていたのです…。

横浜といっても遠いですから、集合時間は正午。横浜駅中のドトールコーヒーでした。
わたしは甲府から特急で八王子。八王子から横浜線で横浜に向かいます。まぁ二時間半ぐらいですか。
11時半には横浜駅について、その後にKとMと合流します。
残念ながら、Oは仕事の都合で夕方になってしまうということでした。
まず、飯を食わねばということで、Kが前々からわたしたちを連れて行きたいところがあるというので、向かいます。
横浜のグルメといえば、和食でも洋食でもない。ラーメンです。
そして、Kが連れて行きたいというのは、家系ラーメンの源流といわれる「吉村家」だったのです。
横浜家系ラーメンといえば、ラーメンに疎いわたしですらテレビなどで見聞きしたことがある、有名なラーメンの系統です。濃厚な豚骨醤油スープに、食べでのある太ストレート面が特徴だそうです。
わたしなどは、ラーメンにはあまり頓着がないのです。麺よりも飯を好みまして。
例えば、中華料理屋に入ってもチャーハンや天津飯。イタリアンでもドリアやライス。そば屋に入っても天丼を頼むような、そんな野郎なのです。
今時のラーメンというのは食券を買うということすら知らず、そのシステムに驚きました。田舎者なもので、メニューを見て頼むという方式しか知らなかったのです。
そんなわたしにラーメンの味が分かるだろうかと心配だったのですが、大変においしくて驚きました。
もともと豚骨ラーメンが好きでしたし、味もあっさりよりはこってりがいい人間ですから。
きっと、家系ラーメンと相性がよかったんだろうと思います。
わたしが頼んだのは、ラーメン(630円)でしたが、もうこれだけでお腹いっぱい。
オプションで何かつけることはできそうにありませんでした。

三人満足して吉村屋を出ますと、次の目的地へと向かいます。
これからどこに行くかといいますと、パシフィコ横浜で行われています『海のエジプト展 ~海底からよみがえる、古代都市アレクサンドリアの至宝~』展に行くのです。
これはKのリクエストで、前々から見に来たがっていたのでした。わたしはこういうのが好きですから、もちろん二つ返事だったのでした。
横浜駅からみなとみらい線に乗って、みなとみらい駅へ。そこからしばらく行くと、帆船をかたどったような不思議な形の建物が見えてきます。
パシフィコ横浜なんて、テレビなんかでよく聞きますけど、実際に見るのはこれが初めてでした。いやぁでかい。世界最大級のコンベンションセンターというのも、伊達ではありませんね。
行ったのは平日でしたが、何でも飲食店開業希望者向けの展覧会をやっていたらしく、すごい人だかりでした。
『海のエジプト』展が行われていたのは、展示ホールD。平日と言うこともあり、混み具合はそれほどでもなく、この規模の展示会としては空いていた方ではないかと思います。
子ども向けのキャラクターがいて、そのうちの潜水服を着たおじいさんがいたのですが、その人に髭が生えているので「神戸のNだ」などと笑っていました。
別に全然似ていません。共通点は髭のみです。しかもあんな上品な髭ではなく、例えるなら、カビのような髭なのです。神戸のNの髭は。
神戸のNはいいんです。関係有りません。
さて、何を隠そうこの潜水服の髭のおじさんこそ、エジプト沖の海底から数々の遺跡を発掘したフランスの海洋考古学者、フランク・ゴディオ氏だったのです。
ゴディオ氏は、1990年代からチームを率い、エジプト北部、地中海沿岸を中心に調査を進め、1000年以上も海底に眠り続けていたエジプトの遺跡の発掘に成功したのです。
発掘品の多くは、プトレマイオス朝(前305~前30)時代のもので、その歴史は単純に2000年以上あるわけですが、実際に海底に没したのは紀元後800年前後であると推定されているようです。
ゴディオ氏がこの世紀の大発見を成し遂げるためには、ゴディオ氏の周年はもちろんですが、科学技術の発達が欠かせなかったことは展示を見ればわかります。
GPSを駆使し、海中でもスケッチ可能な紙とペンを使って記録し、木製品はそれが劣化しないようにする保存技術も、一昔前では考えられないことだったでしょう。
そんなゴディオ氏率いるチームは、高さ6mにも及ぶプトレマイオス8世のステラ(石碑)やハピといわれる豊饒神を象った巨像(5.4m)など巨大なものから、アクセサリーやコインなどの小さな装身具、あるいは壺や鍋や瓶やひしゃくなどの生活用品まで、実に数多くのものが見つかったといいます。
今も発掘が続いているそうですが、今回は神殿があった町・カノープス、交易と神殿の都市・ヘラクレイオン、そしてプトレマイオス朝の首都であったアレクサンドリアの三都市が発掘されたと言うことです。
さらなる成果が期待されます。
感想としては、さすがに企業が主催する大展示です。並の地方都市の博物館では太刀打ちができないような、素晴らしい展示でしたね。
趣向を凝らした展示は、子どもたちの興味を惹き、大人を飽きさせない。キャプションが小難しいのは、この時代の神々がいろいろと錯綜したからですが、深く考えすぎるとよけいにこんがらがります。深く考えるのはやめておいた方がいいと思います。
それから、碑文の訳が非常に叙情的でわたしなどは読んでいて、「メンドクセ」となってしまうのですが、それはしょうがないですかねぇ。
もともとKは、ハピ神像とともに発見されたファラオと王妃の巨像を見たかったそうで、ある意味ではそれがこの展示のメインでもあったわけです。
それから、印象的だったのは香りの展示です。古代エジプトで香水として使われていたであろうアロマを再現し、実際に感じることができるのです。視覚・聴覚に訴えるのがこれまでの展示ですが、嗅覚に訴えるというのはこれはなかなかできることではありません。
そんなこんなで展示を見るのに2時間ぐらいかかったでしょうか。時計はすでに15時を回っています。
いよいよ、平塚のOと合流するため、中華街へと向かいます。


さようなら、みなとみらい

と、すっかり長くなってしまいましたので、今日はここまでにしましょう。


播磨旅行記(7)

2008-12-01 21:35:41 | 旅行記

時間はちょうど、昼。いい運動もしたので、そこそこ小腹が減っています。
しかも、ぐずついていた天気が、ちょうど姫路城化粧櫓を出るぐらいで雨脚が強くなってきまして、城を後にするころにはすっかり水たまりができるぐらい降っていたのでした。
というわけで気温も上がらず、息が白くなります。
そういえば、城内も寒くて。板張りでしょう? 足なんか芯まで冷えてしまっておりました。
身体を温める意味も込めて、昼ご飯を食べることにしました。

ちょうど折良く、姫路城前の大手門公園で「姫路食博2008」という面白そうなイベントをしていました。
兵庫県播磨地方の名物が集められ食べることができるという、実にわたし好みのイベントではありませんか。
実はどうしても食べたいものがありましてね。それは、赤穂に行くため断念した明石名物たまご焼きなんです。神戸に行ったときも食べたんですけどね、また食べたくなるってことは、魅力的な食べ物なんですよねぇ。
それから、この食博の大きな目的の一つに、姫路おでんをアピールすることにあるようです。何せ、おでん横丁という特設ブースまでありますから。
雨ということもあって、お客はまぁまぁでしょうか。席も取ることが出来ました。
明石焼きは相変わらずのおいしさ。
たまたま面白そうなので食べたチーカマドッグは、これがまたおいしい。
ヤマサ蒲鉾」さんで売り出し中のチーカマドッグは、いってみれば、アメリカンドッグ。そのパンの中のソーセージが、チーカマに変わったものです。単純ですよね。
でも、その単純さが侮れない。食べると、かまぼこがソーセージのような食感。しかも、中から黄色いチーズがとろりと流れてくるんです。驚きとともに、意外なおいしさにまたもびっくりです。
姫路コロッケも食べましたね。これもおいしかったですよ。
山梨は農業県でもあります。なので、フルーツや畜産などはおいしいものあるんですけどね、その加工品が弱いんでしょうなぁ。
そして、目玉でもある「姫路おでん」。
この姫路おでんの最大の特徴は、何と言っても生姜醤油で食べることです。
名古屋では味噌をつける味噌おでんがあるように、姫路では生姜醤油で食べるんです。
所変われば品変わるとはよくいったものです。静岡の真っ黒な「しぞーかおでん」もびっくりしましたが、まさかおでんを醤油で食べるとは、これまたびっくりですね。
味は今まで食べたどんなおでんよりもさっぱりです。この一言に尽きると思いますね。生姜醤油のさわやかさも、またよしです。
おすすめのおでんだねとして、シューマンを頂いたんです。姫路名物のれんこんが入った、歯ごたえがおいしいシューマイ。よく出汁を吸っていておいしかったです。
煮込み料理ですから、何でも食べようと思えば食べられるんですよね。それがおいしいかどうかというのはまた別問題ですが。
今回は食べなかったですが、カレーつゆのおでんもあるそうで、それもまた面白そうですね。

さて、ここでですね。予定が大きくずれてしまったんですよ。というのも、ほら赤穂で観光に莫大な時間がかかったんで、姫路では赤穂以上に時間がかかると予想して、城以外の予定は立てていなかったんですよ。
好古園を見るのも手だったんですが、天気もこんなんだし、寒いしということで、どこかの屋内施設に入ろうと言うことにしました。
幸い、姫路の文化施設は城の周辺に集中しています。
その中でも今回は、姫路市立美術館兵庫県立歴史博物館に立ち寄ってみました。
美術館は、姫路城のすぐ東にあります。見れば、赤煉瓦のものすごくすばらしい建物です。調べたところによりますと、これ旧帝国陸軍の兵器庫だったそうです。この建物自体が国の登録有形文化財だといいます。
いやぁ、やはり市単位で文化施設を持つところは違うなぁ。
展示は見なかったんですよね。というのも、姫路城で体力を消耗しましたし、また折からの寒さで集中力もなかったんです。
ミュージアムカフェでコーヒーなどを頂いて、休ませていただきました。
県立歴史博物館は、美術館のすぐ北。シロトピア記念公園内にあります。
何が驚きかって、ここは常設展示エリアの一部が無料なんですよ。すごいと思った反面、無茶じゃないかいって思ってしまいました。いろいろ博物館を見てきたつもりでしたが、無料ってところはなかったと思います。
美術館と同じ理由で、有料エリアは見なかったんですけども、無料施設は眺めさせていただきました。緻密な模型はあるし、キャプションは工夫を凝らしているし、無料なんてもったいないなぁと思ってしまいました。
ここで見た浄土双六は面白かったですね。
これは日本最古の双六といわれてものでして、まず曼荼羅を模したますの配置があります。サイコロもあるんですけど、書いてある文字は「南無分身諸仏」の六つ。ますの中には、同様に「南無分身諸仏」の六文字が書いてありましてね、一文字ずつ阿修羅とか、餓鬼などと地獄の名前が書いてあるんです。で、サイコロを振って出た目の地獄に飛びつつ、極楽浄土を目指すというものなんですよ。
なので、ヘタをするとふりだしから一発で浄土にいけるんです。わたしはあっさり阿修羅道へと行きましたが。まさしく、日頃の行いが試される双六といえるでしょう。

と、ちょうどいい時間になったので、見納めと思って姫路城のある姫路公園内を縦断して駅に向かいました。
甲府のうちについたのは、20時半ぐらいでしょうかね。
播磨一泊だとやや厳しいかなと思ったんですが、非常に充実した旅行だったと思います。
二日目、雨に降られなかったらもっとよかったのですが、まぁそれもまた旅の醍醐味。
次の旅行はいつになるかはちょっとわかりません。旅行記はしばし間があいてしまいそうです。

今日の一枚は、『姫路おでん』です。生姜醤油で食べるのが姫路おでんの定義だそうなので、お試しになってみたらいかがでしょう。
さっぱりぴりりとした味は、けっこう新しい味です。


播磨旅行記(6)

2008-11-30 21:18:47 | 旅行記

いよいよ、今回の旅行のメインである姫路城に登城します。
昨晩と同じく、大手門から入城します。三の丸広場を突っ切って、入城口へと向かいます。
さぁといって広げたのが『まっぷるマガジン兵庫』です。この雑誌の、姫路城ガイドに沿って観光・見学を行っていきたいと思います。
まず姫路城の玄関口、菱の門をくぐって入城。
多くの人たちは、菱の門からいの門へと直線でいってしまうのですが、わたしはガイドブックに沿って、左に折れて西の丸へと向かいます。

西の門は、先述の千姫の御殿があったところです。ここから、千姫の持参金で作ったといわれる化粧櫓に向かうんですけどね、今回はせっかくですので、百間廊下と呼ばれる長い廊下を歩いていくことにしました。
百間ですから、三十三間堂のちょうど三倍。一間は約1.82mですので、その百倍、約182mにも渡る非常に長い廊下ということになりますね。実際は、300mにも及ぶといいますから、渡りきるのは意外と長い時間がかかったと思います。
百間廊下といっていますが、実は西の丸長局といいましてね、奥方付女中の集団住居だったのです。今風にいえば、女の園だったわけですね。現代では、そんな女の園もどかどか歩いていきます。
百間廊下のいくつく先は、化粧櫓です。千姫がもってきた化粧料(持参金)で建てられたので、こういう名前がついたといいます。
何でも、当時姫路城がある姫山には神様をまつる社があったそうで、千姫はそこに毎日お参りに行っていたそうです。で、この化粧櫓はその中間地点にあたり、休憩所としておかれたそうです。
ちなみに、千姫の持参金は十万石と言われていますから、やはり家族共々千姫の安否をかなり気にしていたんでしょうね。

看板もなかったんですけど、将軍坂といわれるゆるやかな坂を登ります。
将軍坂とは穏やかではありませんが、何のことはない『暴れん坊将軍』の撮影がここで行われて、そう呼ばれるようになったそうです。
ところで、姫路城にはとにかくたくさんの門があります。その数、実に21。しかも、敵を分散させ、袋小路に追い込んだり、あるいは本丸までの到達時間を遅らせるために、どの門も工夫が凝らされています。
クロス瓦や姥が石などいくつかを見落としながらも、ようやく大天守へとたどり着きます。
大天守は計七階もある高いものです。いろいろ城を見てきましたが、こんなにでかい城を見たのは初めてでしたね。
岐阜城も大きかったですけど、まず岐阜城がのっかている稲葉山が大きいですから、別物ですね。
彦根城もこんなに大きくなかったです。あんなに階段を上りませんでしたからね。
中は、やはり資料の展示が主です。池田氏~酒井氏までの貴重な資料が多く展示されています。
しかし、そこは現存天守。建物自体が立派すぎる資料です。表の白壁とは打って変わって、内は重厚漆黒の木造。戦に備えた作りであることをまざまざと見せつけられます。
天守を支える心柱は、東西二本あります。天守自体の重さは実に約5700tもあるといいますので、それを支えるというのはかなりの大仕事ですね。しかし、昭和の大修理の折り、そのうちの西の柱が腐っていることがわかって、取り替えることになったそうです。
ところが、これが大事になってしまったんです。まず兵庫県内の神社のご神木に白羽の矢が立ちましたが、根本が腐っていたり、上部が折れていたりといろいろと不都合があって見送られました。
やがて、岐阜の山林でちょうどよさげな巨木を発見し、切り出しはうまくいきました。しかし、そのあまりの巨大さに運搬中に折れてしまったそうです。
途方に暮れてしまいましたが、その解決策としてその二つの巨大檜を組み合わせることに。
その檜を運ぶときは、姫路の大手通りをお祭り騒ぎで市民が引っ張っていったそうです。
うーん、いい話ですね。やはり、でかい城があると違いますね。

さて、最上階からの眺めは格別の一言です。殿様になった気分ですね。岐阜城からの眺めには適いませんが、それでもやはり城からの眺めはいいものです。
ところで、姫路城の最上階には、神社があるって知っていますか?
刑部明神を祭ったといわれる社があるんですよ。わたしは、水木しげる(1922~)先生が大好きですから「長壁」という妖怪が姫路城天守に住んでるという話を知ってはいたんですが、まさか刑部明神という神様だったとは驚きです。
長壁は、年に一度正月に、城主にしか姿を見せないという高貴な妖怪で、たいへんな人間嫌いだったそうです。
何でものちの創作ではないかという話ですが、そういう話ができる時点で姫路城がどれだけ知名度があるかってことですよね。
「何ぃ、あの姫路城にぃ?」って感じになるわけですよね。うーん、やっぱり違いますね。

登るのも大変なら、降るのも大変です。けっこう疲労困憊となって、天守をあとにします。
次は腹切丸という物騒な名前の曲輪です。本当の名前は、帯曲輪といいます。天守を人の頭に例えると、このあたりがちょうど帯びに当たるというのでそう呼ばれたそうです。
腹切丸という名前も、ただの例えです。しかも、何の根拠もないらしい。ただ場所が東の端で、隠してあるよう暗くて、じめじめした感じが切腹を連想させるというので、そういわれているそうです。
日本人がそんな連想で腹切なんて名付けるんですから、いわんや外国人をや。といったところでしょうか。
そして、終盤の目玉はお菊井戸。かの有名な「播州皿屋敷」の、あのお菊が放り込まれたという井戸です。
江戸番町が舞台の「番町皿屋敷」は、播磨の称である播州がなまったものだといいます。
物語のあらましは、リンク先を参照していただくことにして、話を進めましょう。
「まっぷる」ガイドの締めくくりは、菱の門をくぐったところにある三国堀です。

と、ここまで来て姫路城見学は終了。
ざっと二時間程度だったと思います。意外なことに、赤穂よりも短かった。
おそらく要因はですね。読むものが少なかったことです。ハコモノ施設好きな人間であるわたしは、遅読のくせに一から十まで読まないと気が済まない人間なので、必要以上に時間がかかってしまうんですよねー。

取りあえず、明日の最終回を目指しまして、今日はここまでです。
今日の一枚は『姫路城』です。うーん、白鷺城とはよくいったものですね。


播磨旅行記(5)

2008-11-29 22:27:18 | 旅行記

ようやく姫路に辿りつきました。さぁ夕食に行く前に、姫路城のライトアップを見に行こうという話になりました。
姫路城のライトアップは、おそらく一年中行われているのでしょうか。日没後、実に午前0時までの間行われているそうです。
まぁなぜ先にいったかといえば、まず、まさかそんな遅い時間までライトアップが行われているとは思わなかったですから、ごはんを食べてからだと間に合わないかと思ったこと。
そして、おなかも減っていなかったので、空かせるための軽い散歩のつもりでもありました。
駅から城までを直線でつなぐ大手前通りを歩いて、城が見えるところまでいきます。
いえ、まぁ至る所から城は見えるんですけどね。山梨でいう富士山みたいなもんです。ただ、富士山はきれいにライトアップはされませんが。
とにかく、姫路城が見えるところまで向かったわけです。
姫路城の周辺は広い範囲で環境が保護されているようで、城を凌駕する存在感を持つ建物はありません。暗闇の中にぼわっと現れる白壁映える姫路城の美しさは格別です。
近くに城見台公園というところがありましてね、その名の通りお城を眺めるにはうってつけの場所です。
それから、大手門が開門されていたので、曲輪内に入って、ライトアップされた姫路城を間近で見ることが出来ました。
離れた場所から見る城も格別ですが、見上げる城本体の美しさも筆舌に尽くしがたい。
姫路城への期待を膨らまして、今日の夕飯に向かうことしました。

今日の夕飯は、居酒屋です。
うおっとり』という、少し変わった名前のところですが、味は格別です。
桃太郎電鉄の姫路の物件といえば、まずはあなご寿司が浮かぶわけですが、その穴子寿司を食べました。
穴子なんか、回転寿司のものもなかなかですけど、それよりもはるかに上回るおいしさです。ふんわりやわらかくて、ふわーと消えてしまうようなうまさ。しっかりとしたうまみもあります。
穴子料理を二つも頼んでしまいました。それぐらいおいしかったですね。
あとおすすめは、竹筒入りのつくねがうまかったですね。味が濃厚。この一言につきますね。
わたしはお酒はあまり得意ではないんですけどね。せっかく瀬戸内の酒所に来たので、少しだけ飲みました。
とてもよかったです。満足満足。

それから、宿に戻って、今日は就寝です。

翌日、朝はホテルの朝食サービスを頂きました。
朝10時には、チェックアウト。荷物を駅のコインロッカーに預けて、向かうは姫路城。
天気はあいにくの空模様。すでにぽつぽつと雨が降り始めています。

姫路は、播磨国の国府でした。
戦国時代、播磨国は赤松氏・小寺氏の支配下にありましたが、姫路城を任されていたのは、のちに羽柴秀吉(1537~1598)の軍師となり、戦国両兵衛と呼ばれた黒田官兵衛孝高(1546~1604)です。
官兵衛は、早いうちから織田家に通じ、特に中国征伐の総司令官であった秀吉と懇意でした。やがて、秀吉の与力となって、信長(1534~1682)亡き後は豊臣家臣として大活躍します。
九州平定後は豊前国中津17万石を与えられ、関ヶ原の後は筑前国福岡52万石を与えられ、当時の覇者たちから畏怖される存在でもあったのでした。
黒田氏ののち播磨国姫路を与えられたのは、秀吉の正妻・おねの兄、木下家定(1543~1608)でした。
関ヶ原後、姫路に来たのは池田輝政(1565~1613)でした。以後、孫の光政(1609~1682)まで池田氏が平和のうちに治めたといいます。
姫路は交通の要衝です。戦略上も非常な重要地点。ここを外様の大名に治めさせるなどということは考えられず、姫路城に入ったのは徳川家譜代中の譜代である本多氏でした。
ここで登場するのが、豊臣秀頼(1593~1615)との悲恋で知られる千姫(1597~1666)です。
千姫は江戸幕府二代将軍、徳川秀忠(1579~1632)と信長の妹、市(1547?~1583)の娘である江与(1573~1626)の娘です。血統としては、申し分ないですね。
その血統を見込まれて、秀吉の愛息子である秀頼と結婚します。なんと、7歳! びっくりですね。しかし、ご存じの通り、豊臣氏は1615年の大坂夏の陣で滅亡します。
そのときは19歳だったのですが、祖父である家康(1543~1616)が不憫に思ってか、千姫を救出します。
秀頼と千姫の仲はとても睦まじかったといいますね。
その後、名槍・蜻蛉切で有名な本多忠勝(1548~1610)の孫である本多忠刻(1596~1626)に嫁ぎ、姫路城も千姫のために大がかりな改修が加えられたそうです。
千姫の話は、またのちに出てきますので、ここではこれぐらいで。
本多氏ののちは、松平氏を名乗る親藩および譜代である榊原氏などが治めましたが、いずれも長続きせず、最終的にはやはり徳川家譜代中の譜代である酒井氏が入り、以後幕末まで安定した治世が続きました。

以上が姫路城のあらましですが、こんなことを書いている余裕はないんですけどねぇ…。
とにかく、あと二回ぐらいでけりをつけるつもりですが…どうなることやら。
さて、今日の一枚は『姫路城ライトアップ』。夜景の写真を撮るのは、たいへん難しいですねぇ。でも、きれいな景色でしたよ。少しでも伝わればいいんですけどね…。


播磨旅行記(4)

2008-11-28 21:30:08 | 旅行記

本丸脇の清水門を通って、赤穂市立歴史博物館に向かいます。
市単位で歴史博物館を持つというのは、これはすごいことだと思うのですが、どうでしょうか。
少なくとも、甲府市には市立博物館などはないわけですからね。あ、市立動物園はありますけど。
こんなことをいっていますが、この翌日、姫路にいってさらにびっくりするんですが…。
やはり、ここでもフューチャーされているのは赤穂義士と塩です。ここでは特に、赤穂の塩に関することが細かに説明されていました。

赤穂の塩は、そりゃ有名ですよ。
上野介が内匠頭をいびった原因は、賄賂をくれなかったからだというのがよく聞く話ですが、中には赤穂独自の製塩法を教えてくれなかったからという話もあるそうです。
すでに弥生時代には製塩が行われていたといいますから、この地での製塩は大変に古い歴史を持っています。
大きく発展したのは、江戸時代のこと。
常陸国笠間からやってきた浅野氏は、大変な普請道楽だったようで、それまで質素だった造りの赤穂城に、五層もあるような身分不相応な大天守を作ろうとします。しかし、当然ながら財政に行き詰まり、工事は頓挫。大変な借金をこさえてしまいます。
そこで赤穂の名産品であった塩を専売品とし、流通経路も確保します。また製塩のための新技術も開発。一大ブランド化し、大きな富を得ることになったのでした。
赤穂の塩は、瀬戸内を抜けて沼津に至り、甲府にも届いていたそうです。
赤穂は海沿いにありながら、天気が晴れの日が多く、荒れることが少なかったために、塩を作るのに適していたそうです。
肝心の製塩法は、これが難しくてですね。いろいろ見てきて、すっかり疲れ果ててしまったわたしには、うまく理解できなかったんですよ。
えーと、まず海の水を砂地に溜めます。そしたら、その水を蒸発させて、塩を砂にまとわりつかせます。その塩のついた砂を鍋に移して水を注ぎ、非常に濃い塩水。これを鹹水というそうです。それにします。今度は鹹水のみを煮詰めて塩を得るんだそうです。
間違っていたらすいません。先に謝っておきます。すいません。
博物館では、こういう製塩の仕組みやそのときに使う道具が大量に展示されています。実におもしろいと思いますし、郷土の産業を理解するにはもってこいの施設ですね。

それから、赤穂はこういう土地柄ですから、地下から水をくみ上げると塩が混じってしまって飲み水には適さないそうです。
そこで浅野氏の偉いところは、清水を山の方から流して飲料水などに使うように上水道を整備したことです。
しかも、本来そのような上水道は城内にしか整備されないものだそうですが、なんと城下町一帯に整備し、領内各地の井戸から新鮮な水を飲むことができるようにしたんだそうです。
城下町を形成するにも必要なことでしたし、何より製塩は重労働。多くの働き手を集めねばならなかったのです。
赤穂の上水道は、日本三大に数えられているほど立派なものだったそうです。

あとは赤穂藩と忠臣蔵関連の資料です。書状などが展示されていました。
博物館ですから、企画展も開かれていましてね。江戸~明治期の広告に見る忠臣蔵ということで行われていました。
いや、非常に良かったですよ。赤穂らしいテーマと丁寧でわかりやすいキャプション。
非常にこじんまりとしてはいたんですけど、見応えのある展示だったと思います。

外に出れば、夕暮れ間近。別に急ぐ旅でもなく、ゆったりと歩いて赤穂駅へいきます。
適度にお土産をかって、赤穂を後にしました。
播州赤穂から相生を経て姫路へと向かいます。
さすが姫路。新幹線が止まるような大きい駅です。さすがに、新宿や東京駅と比べてはいけませんが、県庁所在地でもない都市の駅がこんなに大きいとびっくりしますねぇ。
規模としては、甲府よりもはるかに大きいです。やっぱ、大きい街は気持ちがいいですねぇ。
今回の宿屋は、「コンフォートホテル姫路」です。
駅前のビジネスホテルですが、非常に使い勝手がよかったです。朝食のサービスもよかったですよ。
料理がおいしい旅館やホテルもいいですけど、わたしはこういう気軽なホテルも好きです。
赤穂で少し歩きすぎまして、疲れました。一休みして、今日の夕食に出掛けることにしました。

四日目にしてようやく姫路入りです。
長かった…恐るべし、赤穂。そして、赤穂義士…。
今日の一枚は、そんな赤穂義士の筆頭である『大石内蔵助良雄像』です。撮影場所は、大石神社大石邸長屋門です。