さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

甲斐道をゆく

2009-12-22 22:48:08 | ハコモノ

うかうかしていたら、12月も終わり…。
11月の終わりにいってきた企画展の話をするのを忘れていましたので、今日はそのことを書きましょう。
11月30日まで、山梨県立博物館では『甲斐道をゆく ~交流の文化史~』というものです。

山梨県の旧国名は甲斐国というのは、ご存じかも知れません。
その語源は、一昔前までは山と山に挟まれた谷を表す「峡」(かい)だといわれていましたが、今ではいろいろは道の交流点を表す「交い」という言葉から転じたというのが、今では有力な説だそうです。
今回の企画展は、そんな「道」に主眼を置いたものです。
山梨の代表的な道といえば、甲府を中心として御坂から河口湖、山中湖を経て御殿場・鎌倉に至る鎌倉往還。
中道から九一色・精進湖・本栖湖を経て富士宮・富士へ至る中道往還。
甲府から鰍沢・増穂・南部を経て清水に至る駿府往還。
それから、新宿から上野原、甲府を経て小淵沢、諏訪・松本に伸びる甲州街道などが有名です。
山梨の道で、真っ先に発達したのは鎌倉往還(御坂路)です。
鎌倉に幕府があった時代は、鎌倉往還から東海道に合流して鎌倉に向かうために重宝されたのです。
次に中道往還です。これは俗に塩の道でして、沼津あたりで上がる魚介や塩がこの道を通って甲府はもちろん、遠くは諏訪・松本あたりまで届けられたのです。
山梨の高級なおみやげとして名高い「鮑の煮貝」は、この道を通ってできたといいます。
駿府往還は、交易路というよりは久遠寺参詣のための"祈りの道"でした。
もちろん、清水などに上がる新鮮な魚介も運ばれてきたはずですが、駿河への行き来は富士川を使うことが主だったようです。
江戸時代に入り、幕府は俗に五街道といわれる道を整備しました。
これは中学校でも習うはずなのでご存知だと思いますが、東海道・中山道と日光道中・奥州道中。そして、甲州街道こと甲州道中です。
山梨という土地は意外に要所でしてね。前にも、甲府徳川家があったんだよというような話をしたこともあります。
その断絶後には五代将軍・綱吉の側用人として活躍した柳沢吉保に与えられ、彼の息子が大和郡山へ移封されると天領…つまり、幕府の所有となったのです。
甲州街道沿いには甲府はあるし、八王子はあるしで大変強固な守りだったようです。

道といえば宿場が付きものですが、その宿場や本陣などの展示も行われていました。
それから、近代にはいると「鉄の道」…鉄道が発展してきたということで、中央線身延線富士急行線の歴史をたどったり、道の未来の姿・リニア新幹線についても言及されていました。
歴史的には、日本武尊が筑波山から酒折まで辿った道や、武田信玄の軍用道路である棒道などにも話が及んでいました。

コンセプトも良かったですし、展示方法も見やすかったです。
思うんですが、やはりこういう人の生活に根付いた展示が素晴らしいですね。民俗関係の展示をもっと見ることが出来ればいいんじゃないかと思います。


何かを残せるか。

2009-11-25 22:08:37 | ハコモノ

今日は山梨県立文学館の感想です。
秋期企画展は『樋口一葉と甲州』展ということで、その通り、樋口一葉にスポットを当てた展示です。

山梨と樋口一葉と、どういう関わりがあるかというと、実は一葉の父と母は山梨の出なんです。
二人は甲斐国山梨郡中萩原村の出身で、父・則義の父…つまり、一葉の祖父に当たる八左衛門は地元の名士であり、幕末期には近隣の村との引水問題から、老中阿部正弘に直訴を敢行するほどの気概を持っていた人物でした。
則義が東京に出てきたのは、1863年ごろといわれ、のちに妻となるたきとの結婚を反対され、駆け落ち同然の上京だったといいます。
樋口家は代々農民でしたが、文化志向が強く、則義も近くの寺で漢学を学ぶなどしたため、上京後には蕃書調所の小遣いとして登用されます。
その影には、同郷の学者であった真下晩菘(1799~1875)の力もありましたが、何よりも樋口家に脈々と伝わる反骨の気概というか、現状では満足できないというような心持ちがあったというのは間違いのないところでしょう。
そんな則義は、一時武士の株を買って武士となりますが、ほどなく大政奉還、明治を迎えます。
しかし、それでめげる則義ではありません。次々と官職を歴任し、樋口家は比較的裕福な生活を続けるのですが、雲行きがおかしくなるのは1888年。戸主であった長男が死去したのです。
その後、父を後見として一葉が戸主となりますが、その父も間もなく病死(1889)。
挙げ句、許嫁であった阪本三郎(1867~1931、のち官吏として、秋田県知事や山梨県知事を歴任)との婚約が解消されるなど、不運に見舞われるのです。
わずか17才で一家の大黒柱となった一葉は、やがて14歳の時から通っていた和歌の塾「萩の舎」の同級生、田辺龍子(1868~1943、のちの三宅雪嶺夫人)が小説を出版したことに刺激を受け、文筆に将来を見いだします。
19歳のときに、半井桃水(1860~1926)に小説の作法を師事し、本格的に小説を書き始めますが、なかなか軌道に乗らず生活は困窮していきます。
1896年。森鴎外(1862~1922)らに『たけくらべ』(1895)が大絶賛されますが、悲しいかなこの年に一葉は亡くなります。二十四才という若さでした。

実は、2004年にも開館15周年を記念して一葉関連の企画展が催されておりまして、しかも、春秋期二回に分けてありました。内容としては、かなり充実していたんですよね。
だから、よもや20周年の企画展も一葉だったとは、いささかびっくりしました。
目玉の展示としては、初公開となる一葉の「手帳」がありました。手帳であるにしろ、非常に達筆でしてね。いろいろな発見があったようです。
ところで。わたしの年齢の頃には、すでに一葉は亡くなっていたわけですが、そういうことを考えると感慨深いものがありますね。
こうしてPCに向かっているのが、恥ずかしくもなってしまうわけですが…。
わたしは果たして、何かを残せるのでしょうか。


マティスに酔う

2009-11-24 20:42:10 | ハコモノ

二、三ヶ月に一遍、美術館や博物館の話題があがるのは、企画展や特別展がそのスパンであるからです。
とはいえ、秋はいつものことながら何かとこ忙しく、会期末間近になっていくわけです。
今回は、昨日までやっていた山梨県立美術館の「イメージをめぐる冒険 20世紀巨匠たちの挿絵本 ピカソ、マティス、シャガール」展と山梨県立文学館の「樋口一葉と甲州」展を見に行ってきました。
ともに会期は11月23日まで…というわけで、昨日にいそいそと見てきました。

今日は「イメージをめぐる冒険 20世紀巨匠たちの挿絵本 ピカソ、マティス、シャガール」について書きたいと思います。
芸術家というのは、何も絵だけ描いていればいいというわけではありません。
特に、表現技法が発達した20世紀では、その表現は多岐に渡り、特にピカソ・マティス・シャガールらは版画や陶器なども駆使して、自己の表現に努めました。
そんな中でも、特徴的で画家の個性を現しているのは、挿絵です。
挿絵といえば、物語に付けられ、読者の読みを助け、花を添える程度のものですが、それを稀代の芸術家が書きますと文章と拮抗するほどの存在感を持ちうるのです。
芸術家たちは文と絵との真剣勝負であると認識し、お互いを補い、助け合いながら、読者を鑑賞者にして、その理解はより深く洗練されたものになっていくのです。
「挿絵」は出版物ですから、多くは版画…プリントです。しかし、作家たちはそれぞれの芸術性を損なうことなく、その手段を最大限に活用しテーマに沿った作品を仕上げていったのでした。
今でも、画家として成功を収めた人が絵本などを描くことは珍しいことではありませんが、20世紀初頭までは挿絵と絵画というの別々で、挿絵は職人が専門的に描いていたのです。
この時代の出版や絵画に携わる商人たちは、一流の画家たちに挿絵を描かせることにより、その存在感を一段上に引き上げることに成功したといえるでしょう。
その後、「リーヴル・ダルティスト」といわれる画家のための挿絵本すら登場し、絵と文章で織りなす挿絵本は、黄金時代を迎えたのでした。

20世紀前衛芸術家たちの、夢の競演です。
シャガール(1887~1985)はともかく、わたしはピカソ(1881~1973)とマティス(1869~1954)が苦手です。…ということに、気がつきました。
まぁ体調的なものかもしれませんが、ピカソにしろマティスにしろ、今まで感じたことがないような受け止め方をしたんですよねぇ。どうしてしまったんでしょう。
一言でいえば、酔ってしまったようです。
展示は、やや迫力に欠けた感がありますが、テーマを考慮するとわかりやすくて、よくまとまっていたんではないかと思います。
キャプションは読みにくかったように思います。いや、わたしが疲れていたせいかもしれませんが…。
やはり、何事もぎりぎりはよくないですねぇ。

というわけで、文学館はまた明日ということで。


広く浅くはものごとの入り口。

2009-09-29 19:59:00 | ハコモノ

また山梨県立美術館にいってきました。
前回、夏の企画展からそれほど間が経っていないのに、もう展覧会かと思われるかも知れませんが、展覧会は展覧会なのですが、まぁキャンペーン展というか。
会期一ヶ月に満たないぐらいのごく短いものなのです。どういうものなのかといいますと。

山梨には多くの博物館があります。40を越えるといいます。
そして、その博物館がそれぞれに応じた分野ごとに、相互に協力し合う「甲斐博物館・ネットワーク」事業というのがあるのです。
その中で、当の山梨県立美術館が分野こそ「芸術」であり、いろいろな観点から見てもその盟主に近いのではないかと。
そしてその展覧会というのも、その芸術分野に属する23の美術館から作品を借りて行われるというものなのです。
しかも、無料! 企画展なのに、無料!
その名も『ミュージアム甲斐・ネットワーク事業やまなしの美術館大全展』です。
端的に様々な美術館のいろいろな作品を見ることができるというので、これは行かぬ手はないと思っていたのですが、なにぶん会期が短く。
うっかりしていたら、展覧会最終日にそそくさと足を運ぶことになってしまいました。

「つまみ食いのような」展覧会でした。
もちろん、悪い意味ではなく。
もし、この数の博物館を巡ろうと思えば、それは莫大な時間とお金がかかってしまうでしょう。
まぁそれが趣味であるというわたしのような人間にはいいと思うのですが、人には好みがありますし、時間金銭の有無もまた重要な問題です。
絵画そのものを楽しみ、学ぶことも大事ですが、自分の感性を発掘したり、好みを認識したりすることもまた大事です。
そういう点で少数だけど、たくさんの館の作品を見ることができる今回のような展覧会は、非常に有意義だと思います。
個人的に気に入ったのは、「川嶋紀子 雲の絵美術館」の作品ですね。
川嶋紀子(1907~2002)、と聞いてぴんと来た人も少なくないのではないでしょうか。
秋篠宮文仁親王妃紀子さんの旧姓が、川嶋だったのですが、この方は「きこ」ではなく「いとこ」と読みます。
では何のつながりもないのかといえばそうではなく、歴としたおばあさんです。祖母に当たるのです。
彼女は職業画家ではなく、趣味として風景画を描いていたと言います。
しかも、雲をモチーフにした絵画で、見てみるとぐっと引き込まれるような不思議な絵なんですよねぇ。
機会が有れば、美術館の方にもいってみたいと思います。

それから、早野恵美さんという人の展覧会も行われていました。
わたしはもうじょうぶ、気に入ってしまいましたよ。
日本画の画材を使って、立体的な絵…というか、作品をつくる人なんですが、今回は動物をテーマにして描かれていました。
カラフルでしっとりと落ちついた印象を受ける、不可思議な作品でした。

というわけで、浅く広くはものごとの入り口。
面に穴が空いていれば、そこから漏れて奥深くまで落ちていくものなのです。
その穴がすぐに行き詰まっているのか、それとも底なしなのかはわかりませんけど…でも、その穴に気がつくことが大事なんだと思います。


おもちゃこそ、ノスタルジー

2009-09-01 21:30:05 | ハコモノ

先日、山梨県立博物館にいってきましたのでその話をしましょう。
今、山梨県都博物館では「おもちゃと模型のワンダーランド」という企画展を行っています。
2005年に閉館したイギリスの「ロンドンおもちゃ・模型博物館」の旧蔵品、そして2007年に閉館した軽井沢の「ワールドトイミュージアム」の旧蔵品を引き受けたのは、栃木県壬生市にある「おもちゃのまちバンダイミュージアム」でした。
そして、この企画展はそのバンダイミュージアムが所蔵する2万点に及ぶ貴重な品々の中から、代表的なもの300点が展示されているのです。
加えて、県立博物館のオリジナル展示として、「やまなしにやってきた「青い目の人形」」展もやっておりました。

前半は、ヨーロッパコレクション。鉄道などの模型、ミニチュア。人形やドールハウス。それに、先端技術を用いた動くおもちゃなどが多数展示されていました。
一言で言えば、子ども向けとは思えない精緻なものがたくさん。
鉄道模型はともかく、人形というものはおもちゃの歴史の中でも格段に歴史が深く、有史前からあったともいわれているそうです。セオドア・ルーズヴェルトの熊狩りのエピソードから生まれたというテディベアは、広く子どもに愛されていますが、陶器で作られているビスク・ドールやミニチュアハウスはどう考えても子ども向けとは思えません。
おもちゃに夢中になるってのは、子どもはもちろんそれが仕事の一部ですが、大人がのめり込むというのは余裕を示すことと経済的に豊かであることを示す、ある種の象徴でもあったといえるのではないでしょうか。

中盤は飛ばして、後半は日本のおもちゃが勢揃いです。
今回の展示では、第二次大戦後の占領下の日本(Occupied Japan)以降のものが展示されていました。
70年代以降、電子機器を用いたおもちゃの"IT化"はすさまじく、特に任天堂のファミリーコンピューターの発売(1983)以後、わずか20年で本物のコンピューターすら凌駕する進化の過程は驚きですね。
それから、おもちゃの"大衆化"。テレビやアニメ、漫画が絶大な影響力を持つと分かるやいなや、両業界は関係を結び、お互いのために協力をしました。その最たるものは、バンダイの「戦隊もの」「魔女っこもの」。あるいはウルトラマンやゴジラなどの怪獣もの。
最初、この手のキャラクター商品は、マスコミ玩具などといわれていたそうです。
終戦直後には、ブリキの缶からリデュースされたジープのおもちゃなんかもありましてね。その完成度たるや、驚愕ものですよ。なめらかな表面は、とてもブリキ缶から作られたものとは思えませんよ。

ところで、中盤には前述の「やまなしにやってきた「青い目の人形」」のセクションがありました。
1924年、排日移民法がアメリカが可決されました。その名の通り、日系移民の入国制限、もしくは入国拒否が法的に可能となりました。
当然、日本としては欧米よりも亜細亜に目が向いてしまうわけで、満州支配へと繋がっていくそうですが、そこら辺も相まって日米関係は悪化していきます。
それを危惧したのが、アメリカの慈善活動家、シドニー・ギューリック(1860~1945)です。彼は、文化レベルでの日米間の緊張緩和を目的として、日本の子どもたちに人形を送ることにしました。
人形を送る側のアメリカの子どもたちには、日本のひなまつりなどの風習を知ってもらい、人形を受け取った日本側に友情の意志を伝えることを目的としているのでした。
アメリカ中の公私立学校、協会、婦人会などに人形を出してくれるようにお願いをし、実に13,000体足らずが集まりました。
日本側で受け取りを担ったのは、元幕臣で政治家・実業家だった渋沢栄一(1840~1931)。渋沢は、のちにこの青い目人形の返礼として、58体の市松人形を送りました。それはまたのちの話ですが。
1927(昭和2)年、渋沢と関わりが深い日本郵船の船に乗って、日本にやってきました。全国各地に配布されたのですが、山梨県にやってきたのは129体となっています。
しかし、それから14年後。1941(昭和16)年12月、日米は戦争に突入し、外来文化の排斥の波に飲み込まれ、多くの「青い目の人形」たちはその象徴として破壊されてしまったのです。
何体かは、国家の意思など超越した慈愛の精神によって匿われ、現在までにその所在がわかっているのは約300体ほど。山梨には5体が残されており、各地の小学校などに保管されていると言うことです。
その後、この青い目の人形を巡って様々な交流が行われ、ギューリックの孫に当たるギューリック3世による新しい「青い目の人形」の寄贈や、人形たちの里帰りも行われました。
人形が海を渡って約80年。戦後64年が経ちました。
年々、その悲しい出来事が風化しつつあるわけですが、この人形たちは日米友好の架け橋であると同時に、戦争の愚かさを伝える代物でもあります。
人形たちのかすかな微笑みの向こうに、人の愚かさと希望をかいま見ることができます。

そんな企画展は、9月7日(月)まで。
ノスタルジーを味わいたいという人は、ぜひいってみてください。
おもちゃだからといって子どもさんには…いささか退屈かも知れません。


二人の「ハンス」

2009-08-20 20:31:32 | ハコモノ

久方ぶりに、美術館・文学館にいってきたので、その話をしましょう。

今週末まで、山梨県立美術館では「ハンス・フィッシャーの世界~『こねこのぴっち』の作家がわが子に贈った絵本たち~」展が開かれています。
ハンス・フィッシャー(1909~1958)といえば、とかく絵本作家として名高いですが、彼の本業はあくまでも画家であり、絵本はその余剰生産物であったのです。
しかし、その見事なまでに表現した幼児性と子どもに向けられた深い愛情を持って、絵本こそが彼の名声を高め、それに引きずられるようにして画家としての名声が上がっていきました。
画家としてのフィッシャーは、非常にシュールで、それでいて直線などを多用するロジカルな画風です。
シュールさという点では絵本の方にも現れていますが、絵本の方は子どもが子どもたる性質を表現するようなくるくると跳ねるような曲線が多いことが特長のようです。
この展示の主題は、あくまでも絵本作家としての側面です。
展示も、絵本のストーリーとその原画の紹介が主です。
都会での厳しい生活に疲弊し、身体をこわしたフィッシャーは、生まれ故郷のスイスに引っ越して、自然恵まれ、家族に愛情を捧げる生活を送ります。
その愛情表現として作られたのが、数々の絵本でした。長女には「ブレーメンの音楽隊」を、長男には「いたずらもの」を、次女には「たんじょうび」を送るのです。
展示には、ほかにも学校に描かれるイマジネーション溢れる壁画やフィッシャーが書いた教科書の挿絵などが紹介されていました。
フィッシャーは49才で亡くなりますが、その晩年の作品も展示されていました。
「変身願望」(1958)と題されたその作品は、それまでの作品とは明らかに色合いが違っていて、鬼気迫るものがあったのですが、それこそがフィッシャー作品の本当の姿だったのかも知れないなぁと思いました。
子ども向けのシュールさと自己を表現するシュールさ。まったく別個のものであることは驚きましたね。

さて、本業とは別の分野で、その世界の第一人者となってしまった人物の一人に、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~1875)がいます。
作家として超一流の才能を持ちながら、今ではむしろ童話作家としての位置づけをされているのは、アンデルセンにとってはどうなんでしょうね。
山梨県立文学館では、特設展として「H.C.アンデルセン「人魚のお姫さま」―青い瞳の涙―」展を開催しています。
アンデルセンといえば、2005年に生誕200年を記念し、日本のみ成らず世界各地で様々なイベントが開かれました。
数あるアンデルセン作品の中でも、特に人魚姫をテーマにした展示でした。
同時に、山梨県出身の言語学者・翻訳家でもある矢崎源九郎(1921~1967)も紹介されていました。矢崎は、俳優の矢崎滋さんの父でもあります。
明治から昭和、平成にかけてのアンデルセン作品の翻訳書が並んでいて、大変興味深かったですね。
何というか、百年というのは短いものだと。それとも、日本人の文化進度の程度が著しいのかと。
それまで約260年に渡って文化レベルが一定に保たれていた時代があったとは思えないほどですよ。
いえ、もちろんそんなことはありませんが、江戸時代264年と明治~平成時代141年の文化の進み具合を比べてみれば、どれだけ駆け足で進歩していったかが分かります。
戦後64年の社会復興も見事ですが、維新後141年での文化発展はそれ以上の「東洋の奇跡」と言えるのではないでしょうか。
そして、アンデルセンは自分の童話作品に、並々ならぬ文学性・芸術性を持っていたんだなぁと痛感しました。
ヨーロッパの文学といえば、教訓や宗教的性質が付きものですし、アンデルセン作品にも色濃いものがありますが、そういうものを差し引いても子どもの心に訴えるものがあるんだと。アンデルセンは豪語していたそうです。
その芸術性の高さ故、大人でなければ理解できないよう深い感情もあり、そういった面もまたアンデルセンの作品が長く愛される理由の一つでもあるのでしょう。

気がついてみれば、二人のファーストネームは「ハンス」。
時代も国も違いますし、作風も取り組む姿勢もアプローチの方法もまったく違う。
全くの偶然ですが、不思議な縁を感じる二人のハンスです。


105人の時間展

2009-08-10 20:55:40 | ハコモノ

昨日、面白い展示を見てきたので、その話をしたいと思います。
東海道線の東静岡駅グランシップという、イベントホールがあります。
演劇やコンサートなどが開かれる、とても立派な施設なのですが、そこで、催されている「105人の時間」展です。
展覧会ですから、参加しているのは全員アーティストである、というのはちょっと単純かも知れません。
ここは、あらゆる表現が可能な空間であって、その表現が絵画・映像・音楽などのいわゆる芸術でなくてもいいのです。
一般的な展覧会では珍しい短編小説や料理などでもいいわけです。
この展覧会のテーマは、104人の参加者+観覧者であるあなた=105人が作り出す時間。それがどんなものかを考えるということだと思います。
よって、展示すべてが時間に関わるものというわけではなく、それぞれが実感する時間を編み出す素材…というようなものなのです。

この認識があっているかどうかはいささか疑問ですが、まぁ極めてフリーダムな空間ですから、いいんだと思います。
東静岡駅って、大きいんですよ。
静岡駅は新幹線が止まりますからね。そりゃあ大きいんですけど、その隣にある東静岡駅は甲府駅ぐらいの大きさがあるんです。
で、その目の前に、グランシップという大きな船みたいな施設があって、その芝生広場には芸術性に富んだ展示がならび、不思議な雰囲気に満ちた映画が流されているわけです。
展示自体も面白かったのですが、駅前でこの大規模な展示をして、その管理をしようとする心意気も面白いですね。
なかなか開かれて場所でスクリーンを広げ、作品を展示するというのは、管理者側から見れば、これほど不安なものはないでしょう。
展示のコンセプトも新しいですよね。時空をひっくるめたすべてをテーマにしているわけですから。
まぁあやふやだと言われればそのままなのですが、そのあやふやなテーマをスタッフすべてが共有してここまでのものを作り上げるというのは、大変なことだったろうと思います。

さて、展示も極めて高いレベルで、テーマを感じなくても…あるいは、展示を楽しむことがすでにテーマを体現しているのかも知れませんが、とにかく見応えのあるものばかりでしたよ。
映像作品は、集めて5000円ぐらいで売れば…なんて思うのは野暮ですかね。
なんといっても、無料ですからね。
とてもよい展覧会だったと思います。


『金ゴールド』展

2009-05-14 21:01:29 | ハコモノ

新年度になり、一ヶ月以上。
博物館の方も、企画展が始まり、それぞれに盛り上がりを見せております。そんな中、さっそくでもないですが、博物館へ行ってきたので書きましょう。

今回は、毎度お馴染みの山梨県立博物館で行われている『金ゴールド』展です。
これは県立博物館独自の企画展ではないのですが、+αということで山梨の金山や貨幣制度についても言及がなされております。
巡回展らしい丁寧なつくりだったのが印象的ですね。
金の成り立ちからその物理的・化学的特性。日本文化と金。現代日本と金。都市鉱山。金精製の歴史などなど、まさしく「博物」の名に相応しい展示となっていました。
ちょうど日曜日ということで、博物館の学芸員の講座やギャラリートークなどもあり、ありがたく聞かせていただきました。
よかったのは、実際の金をさわれるところですかね。
ご存じの通り、金は重いです。その比重は、実に水1に対して、金19.6。この世にある鉱物の中では、もっとも重いものです。
展示の中で、その比重を感じるために同じ量の金属…アルミニウム、銅、銀、金の塊が置いてあったのですが、まぁ金の重いの重くないのって…。ものすごい重いんですよねー。
アルミは軽いもんです。銅は水と同じぐらい。銀でもかなり重いです。金はわたしのひ弱な腕力では到底持ち上がらぬほどです。
…まぁ実際は、比重を感じるよりも、一生分かと思われるほどの金を触れたことの方がもしかしたら感動がでかかったかも知れません。
それから、金箔の作り方です。すんごいんですよ、見たことある人も多いかも知れませんけど、あの技術はかなりのものです。
金を冨の象徴とする考えは、かの東大寺の大仏が最初は金箔に覆われていたことからもわかるように、ごくごく昔からのものでした。
奥州平泉の中尊寺金色堂や、冨=権力の象徴としての秀吉の黄金茶室などが紹介されていました。
国を問わず、多くの人たちが魅了されたように、日本人もまたその山吹色の輝きに惹かれたのでした。

山梨独自の展示としては、やはり山梨がもっとも輝いていただろう戦国時代。武田の隠し金山です。
金誕生のメカニズムは、マグマ中が地表に上がってくる過程で冷やされ、やがて金成分を含んだ水分のみが地表付近まで染みてきます。やがて、その水も蒸発し金が滞留し、それが金鉱脈となるそうです。
つまり、火山あるところ金鉱脈ありと。さらに言えば、温泉あるところ金ありとも言えるわけです。
山梨は富士はれっきとした火山ですし、北麓では八ヶ岳はつい5000万年ほど前まで噴火していた「若い」火山だそうです。加えて、山梨は温泉地。至る所に温泉があります。
つまり、金あるべくしてあったということですね。
その金の価値にいち早く目をつけた武田信玄こと晴信(1521~1573)は、金山衆という鉱山開発のプロフェッショナルを召し抱え、金山経営に力を注ぎました。甲州市塩山の黒川金山や身延町下部の湯之奥金山などが著名なところです。また現在の早川町あたりには無数の金山採掘跡があり、その数はいまだに調査中だと言います。
まぁぶっちゃけた話。甲斐と呼ばれていた山梨には佐渡や鹿児島ほど多くの金山はなかったのですが、何よりもその高度な精製技術によって莫大な富を築いたのです。
その様子に詳しいのが、下部温泉郷にある「湯之奥金山博物館」です。わたしは一度いったことがありますけど、山奥にあるのがもったいないほどのよい博物館です。機会があったら、足を運んでみてはいかがでしょうか。

鉱山よりの金は、その寿命およそ20年といわれているそうです。
そこで今叫ばれているのが、金を初めとする貴重な金属…レアメタルのリサイクル。
貴重な鉱物ほど利用価値が高く、携帯やパソコンなどに使われているというのは有名な話ですね。
ところが、その手のデジタル機器。個人情報の流出などを恐れて、廃棄しない人も多いそうです。そのため、現在日本でリサイクル可能なレアメタルは膨大なものらしいです。
それを「都市鉱山」というのは、最近テレビ等でよく聞かれます。
展示中に使われていた「無資源国」という言葉、痛烈かなとも思ったのですが、「汝自身を知れ」という有名な格言もあります。
ある資源を有効に活用して、未来の生活に支障を来さないようにできればいいですね。


山梨県立博物館『甲斐のくにのたからもの』の感想

2009-02-24 20:18:47 | ハコモノ

先日に引き続き、まだまだ感想は続きますよ。
今度は映画ではなく、久しぶりの博物館です。
年が明けまして、年度最後の企画展が多く催される時期に来ています。
この時期の企画展というと、新収蔵展などのその年度の総括的な展覧会が多いですが、山梨県立博物館は、新指定文化財展として『甲斐の国のたからもの』展を開催中です。
特に、2003年以降、文化財の指定を受けた作品など57点を展示しています。また、修復の成果などを発表する場でもあります。
今回の目玉の一つは、1500(明応9)年に書かれた塩山・向嶽寺蔵「絹本著色仏涅槃図」(県重文)。
涅槃というのは、まぁ一言で言えば「釈迦の死」でして。涅槃図というのは、その釈迦の死を描いたものです。大体、釈迦は北枕で、右肘を突いて寝転がっている状態です。
わかりやすいイメージですと、ストリートファイターシリーズのサガットステージ。
背景には、タイのワット・ローカヤスターラームとおぼしき涅槃仏が描かれています。

「即死ゲー」スーパーストリートファイターII


これです、あれが涅槃状態の釈迦です。
釈迦の命日は旧暦2月15日であるとされ、旧暦2月15日には、宗派を問わずお寺では涅槃会という行事が行われるそうです。ちなみに、2009年の旧暦2月15日は、3月11日です。
で、県立博物館では、新暦ではありますが、2月15日が日曜日だと言うこともあってか、この涅槃図の前で涅槃会を行うと。
で、まぁ物好きな人間ですし、ちょうどいい機会だからということで、企画展を見に行きがてら涅槃会にも参加してきました。
向嶽寺というお寺は、実に位の高いお寺でして。
創建は1380年。臨済宗向嶽寺派の大本山という位置づけです。山号は、すなわち塩山。つまり、地名の元になった「塩ノ山」にあります。
塩山といえば、同じく臨済宗の恵林寺が有名ですが、両寺ともに多くの文化財を持つ山梨屈指の古刹です。
まぁわたしなどは考えが甘い人間ですので、時間ぎりぎりに着いたのですが、すでに涅槃図の前はかなりの人です。100人以上は集まっていたと思います。肝心の涅槃図は…よくわかりませんでした。500年前の代物ですし、修復されたとはいえ絵の具の具合もよくわかりません。人だかりで近くでも見えませんでしたし。
ただ会場にはお香のにおいが充満してましてね。線香などが苦手なわたしとしては、ちょっと酔いそうな雰囲気でした。まぁでも法事ですから、それぐらいは覚悟していかなければいけませんよね。
年齢層は高かったですよ。いかにわたしの趣味が老けているか、よくわかりました。まぁでもそんなの関係ねぇです。
涅槃会には臨済宗の偉い方もお見えになっていたようですが、どなたがどなただか、わかりませんでした。
式自体は、焼香して供物をそなえて、般若心経を唱え涅槃経を読んでと、全部通しても40分ぐらいのものでした。あとは、ありがたいお説教を聞くわけですが、話してくださったお坊さんが、たいへんにフランクな人で。砕けているんだけど、しかとありがたい内容でよかったです。

そのあと、ふらふらと展示を眺めたのですが、もともと歴史の入り口が戦国時代だっただけに、戦国時代関連の展示に興味を引かれました。
中でも、「小山田信有像」です。小山田氏といえば、今までもたびたび出てきておりますが、大月や都留を中心として山中、河口湖方面までを治めていた領主でした。
その小山田氏。実は三代続けて「信有」という名を用いているのです。
郡内小山田氏最後の当主は信茂(1539~82)ですが、その前は兄である弥三郎信有(?~1565)。父である出羽守信有(1519~52)。祖父である越中守信有(1488~1541)とさかのぼっていきます。
それまで、この肖像画は、「信有」像であると伝えられてきましたが、一体その「信有」とは誰のことかと。それが焦点だったわけですが、このたびそれが判明し、出羽守信有だったそうですよ。
それから、目新しい展示といえば、柳沢氏関連のものですね。
柳沢氏といえば、五代将軍綱吉の側用人を務めた吉保(1658~1714)が有名ですが、吉保は、それまで徳川家が治めてきた甲府(これを、甲府徳川家といいます)を与えられ、一時的にせよ、甲府を治めていたことがあるのです。
実は柳沢氏の出自は甲斐武田家の土着武士集団であった武川衆でした。ここでは、武川衆についての説明は省きますが、柳沢氏にとっては先祖伝来の土地に帰ってきたといえるわけです。
吉保自身は、甲府城に訪れたことはないそうですが、これによって元禄江戸の華やかな文化が甲府にもたらされたのです。
展示品は、今まで博物館では見たことがないような豪華な蒔絵を施した膳具や化粧具などなど。比較的縁が浅い、江戸中期の文化芸術を見ることが出来ました。

帰りに、涅槃団子という仏前の供え物を縁起ものとしてもらいました。
なかなか体験できないことができてよかったと思います。
普段の企画展と比べて、見応えはないかもしれませんが、めずらしいものが見ることができますので、興味がありましたら、ぜひ。